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2020年3月10日火曜日

(3)ホィートン論争、追記

「ホィートン論争」についてはもう4年前になるが、
その1
その2
その3、を書いた。

その3
次回は「神学的論争」として事件に接近している記事を紹介してみたいと思います。 
と「続き」があるような締めくくりを書いたが、実際は何も書いてなかったようだ。

今回の「追記」はその「続き」のようなものではなく、「ホィートン論争」をホィートン大学政治学部のラリシア・ホーキンス准教授(当時)の視点から振り返るドキュメント(iTunes)動画「Same God」の案内である。

上記のページではTrailer(広告版)が見られる。

2019年5月15日水曜日

(4)レイチェル・ヘルド・エヴァンズ (1981-2019)

久しぶりの更新を「残念」な記事で行わなければならない。

この「大和郷にある教会」ブログで何度も取り上げたことのあるレイチェル・ヘルド・エヴァンズ[*]が5月4日テネシー州ナッシュヴィルの病院で亡くなった。37歳だった。
 *以前「エバンス」と表記していたが他出の表記と出来るだけ統一するため変更した。

この4月にインフルエンザに罹り、(治療のため服用した?)抗生物質に激しいアレルギー反応を起こし、脳に原因不明の発作(シージャー)が続いた。やむなく医療的昏睡状態に置いて様子を見ていたが、適切な処置を見い出す前に容体が悪化して亡くなった。

筆者が知ったのは5月5日の日曜日の朝。ツイッターのTLに「R.I.P. RHE(安らかに眠れ、レイチェル・ヘルド・エヴァンズ)」のようなメッセージが次々と流れてきた。

深刻な状況にあるらしいことはある程度分かっていたが、敢えて彼女のブログに上げられていた(らしい)夫のダンが行っていた続報更新を見ていなかった。

37歳での突然の死の報に、やはり愕然とした。

TLに溢れる「RHE(レイチェル・ヘルド・エヴァンズ)」へのメッセージを読みながら、間もなく自分なりのユーロジーのようなメッセージをツイートした。


……と書いてから10日が過ぎてしまった。

米国(のキリスト教界)ではかなり大きな出来事として受け止められているが、日本においては殆ど話題にすらなっていないようだ。わざわざこのような記事にまとめる意義があるかどうかこころもとないが、ある意味「エポックメーキングな人物」として当ブログに登場していただいたこともあり「追悼」の意も込めてアップする。

1. (北米の)エヴァンジェリカリズムの殻の問題

5月4日のツイート(↑)で指摘したことについて少し書き足す。

バイブル・ベルトで育ったRHEは最初は判で押したような保守的な福音主義信仰の持ち主であったが、父親(大学教員)の影響もあってか、かなりアグレッシブに自己の信仰を問い詰めるようになって行った。
その過程で信仰内容と言うものは「変化していく(evolve)」ものであることを次第に受容していくことになる。
その成長過程を著したのが『モンキー・タウンで進化する(Evolving In Monkey Town)』である。

ブロガーとして著者として多くのフォロワーたちの相談相手となったりするうちに、RHEはネット上で注目度を高め、次第に福音派における若年層のオピニオン・リーダーとなっていく。
しかしその求心力は単に「意見や見方が同じ」とか「親近感」とかに留まらず、上手く自分の意見を言ったり理解してもらえないで孤立感を持っていた若者たちに「自分をオープンにすることができる広場」を提供するオーガナイザー・ファシリテーターとしての役割に負うところが大きかったように思う。
つまりRHEのファロワーとは、RHEの信仰的意見や生き方に共鳴したり同意しているからというよりも、そこ(主にブログ)に「自分を開く場所」「自分を受け入れてもらう場所」を得ているからなのだろうと思う。

そのような役回りを引き受けるにはRHE自身がくぐってきた「信仰進化(evolving faith)」の経験がやはり大きくものを言っているのだと思う。
フォロワーたちはそこに安心感を覚え信頼を寄せるのだろう。

成長期の若者が、正直に信仰その他について自分が抱いた疑問や不満を聞いてもらったり相談したり、また他人と意見交換したりというような環境がはたして「(北米の)エヴァンジェリカリズム」にあっただろうか、という問題が実は大きく横たわっていたように思う。
言ってみればそれら若者たちの心や頭の中でふつふつと湧き上がってくる悩みや疑問を受け止める柔軟性に「(北米の)エヴァンジェリカリズム」は大いに欠けていたきらいがある。
ともすると正統的信仰に対する「挑戦」「不信仰」「不従順」等ネガティブなものとして片付けられてしまう面が多分にあるように思う。
成長期の若者たちの信仰を仮に「新しいぶどう酒」にたとえると、「(北米の)エヴァンジェリカリズム」という「革袋」はやや古く固くなっていて、(彼らの疑問に柔軟に対応するよりも)裂けるのを抑えるのに必死、というような状態なのではないかと思う。

そういう状況でRHEがそのような傷つきやすい(vulnerable)若者たちの感性を受け止めて応対したからこそ、死後にあれほど多くのトリビュート・ツイートが発せられたのだと思う

いずれにしても「(北米の)エヴァンジェリカリズムの殻の問題」を
RHEほど鋭く指摘し追求した人物はいないのかもしれない。 

2.世代間のずれは「意見の違い」なのか「感性のずれ」なのか

以下に参考までに「プログレッシブ福音主義なRHE」に対して「保守的な福音主義」の立場から「見解の相違」として書かれたふたつの記事を紹介したい。
一つはエド・ステッツァーでもう一つはロッド・ドレアーである。

エド・ステッツァー
Reflecting on Rachel: Why She Mattered
(以下の引用箇所にあるようにステッツァーにとってRHEはなかなか手ごわい相手であったようである。)
The problem is, failure to listen can make one tone deaf. Rachel was always trying to break into our echo chambers. I did not always like when and how she did it, but dismissing her in favor of the sounds of our own voices was not always the right choice.

But, Rachel was not satisfied with the evangelicalism of her youth, and our direct messages reflect that divergence. (Perhaps ironically, I started my faith journey in the Episcopal Church and ended up a conservative evangelical. She started as a conservative evangelical and ended up an Episcopalian.)
ロッド・ドレアー
Blaspheming St. Rachel Held Evans
※この記事は「追悼」として書かれたのではなく、クリスチャニティ・トゥデー誌上でエド・ステッツァーの追悼記事の後に掲載され(そして批判を受けてすぐに削除され)た、ジョン・ストンストリートを擁護するとともに彼を非難したRHEシンパたちの「言論封殺」的な結果を憂慮する、といった感じで書かれたもののようである。
タイトルに「聖レイチェル」としているように、RHEの不慮の死後数日で批判めいた意見を含む追悼記事を書いたジョン・ストンストリートはそれほど批判されるべきだろうか、と保守派の論客ロッド・ドレアーの「プログレッシブ福音派」に牽制の意味が込められているようだ。

これらの記事を読んでみて思うのは、やはり福音派の保守(ジョン・ストンストリート)とプログレッシブ(RHEやジョンの追悼記事を非難した盟友のサラ・ベッシーなど)とのあいだには単なる見解の相違では済まない「世代的な感性のずれ」があるだろう。
それは一言でいうと「どちらが正しい意見を持っているか」に関心がある人と、「(どんな意見の人でも)受け入れる」ことに関心を向ける人、との感性の違い、と言うか人としての基本的態度の違いかなと思う。


たとい意見の相違が深刻であっても、それは置いておいて先ず受け入れようとする受容的態度が先行するのか、それとも原理原則に関することで自分と意見が異なる者には譲歩せず批判し拒否することを辞さない、ことを身上とするのか、と言うような違いである。

どうも保守派は往々にして「意見の正しさ」と言うことに対する(若者たちから見ると)過度の潔癖主義・完璧主義のようなものがあるようで、その雰囲気がひしひしと若者たちに伝わり、自分たちの疑問を心の中で押し殺す「(北米のエヴァンジェリカリズムの)殻」となっているのではないか。RHEは果敢にその殻を破ることで若者たちに「息つくスペース」を提供してきたのではないか。

RHEはこの「感性のずれ」が保守派が想像するよりはるかに大きな「福音主義者の文化」の問題であり、それらの総体のようなものが「(北米の)エヴァンジェリカリズムの殻」それも「固い殻」となって若者たちを息苦しくさせ、(殻を破るのをあきらめて)脱出させてきたのではないか、と指摘してきたのではないか。

この指摘を多少なりとも支持してくれそうな記事をランドル・ラウザーが書いている。
Christianity Today and its Ironic Tribute to Rachel Held Evans
Rachel Held Evans didn’t “usher the vulnerable into her doubts”. Rather, she gave them permission to be honest about the doubts they were already having. In a world where Christians like Mr. Stonestreet are ever ready to censure hard questions and honest doubts with the stentorian warning of “grave error”, Rachel Held Evans invited others to learn from her struggles so that they could work through their own.

2017年8月13日日曜日

(4)キリスト教原理主義と福音主義

先日、「(3)藤本満『聖書信仰』ノート、10」を書いたばかりだが、その前の「(3)藤本満『聖書信仰』ノート、8」と「(3)藤本満『聖書信仰』ノート、9」で「ファンダメンタリズム」を扱ってから、あらためてジョージ・マースデンの『Fundamentalism and American Culture』を読み直している。それも結構ゆっくりと。

今回書くことは「『聖書信仰』ノート」に入れても良かったが、風呂敷を広げすぎて(筆者も読者も)混乱するといけないので、独立させた。(なお「アメリカ宗教史」研究、関連の展開は「宗教と社会小ロキアム@巣鴨」プログにて取り上げようと思っている。)

昨年から今年と、トランプ大統領がもたらした旋風は米国福音派だけでなく、日本の福音派にとっても「パブリック・イメージ」の問題だけをとっても結構大きな意義があるように思う。

※たまたま今朝ツイートしたこの記事は的確にその辺の事情を捉えていると思う。


「ファンダメンタリズム」や「福音主義」のような基本的用語の整理ももっとしていく必要があるだろうなー、などと思っていたら意外なことに「日本の福音派のアイデンティティー」に関し長らく研究発表してきた宇田進氏の文章が「いのちのことば社」のウェブサイトにあるのを見つけた。

ここにリンクを貼っておこう。

「原理主義」と「福音主義」 第1回 ファンダメンタリズムの原点は?(前半)

「原理主義」と「福音主義」 第3回 エバンジェリカルをめぐって─アメリカ教会と日本教会(前編)

「原理主義」と「福音主義」 第3回 エバンジェリカルをめぐって─アメリカ教会と日本教会(後編)


冒頭
   このたび、4回にわたり特に「キリスト教原理主義」について拙文をつづることになったが、正直言って≪戸惑い≫を覚えている。
とあるのだが、「第2回」というのが見つかっていない。

一読して(この文章が書かれたのが割合最近だとすると)次の部分がやはり気にかかる。
 ブッシュ政権の“在り方”については大いに論ずべきであるが、ことファンダメンタリズム・福音派に関する著者の見方は、従来から日本のメイン・ラインの教会の中に広く流通してきたものの反復にほかならない。結局、忌避・拒絶 以外の何物でもない。
 以上のようないわば“定説”とも言えるネガティブな見解とは対照的な“稀なる見解”が最近登場している。それは、一定の理解と評価をともなった古屋安雄氏(聖学院大学)の見解である。
 古屋氏は前掲書の中で、一章を「日本の福音派」にあてている。種々問題を論じながらも福音派の成長に注目し、「日本においても福音派に期待するのである。日本基督教団をはじめとするいわゆる主流派の諸教会がいつまでも混迷と混乱のなかにあるならば、福音派の諸教会がそれこそ〈主流〉となる日がやってくるかもしれない」と“オープンで前向きな見解” を披瀝している。
 かつてウィリアム・ホーダーンは、エバンジェリカルはリベラルなものを一生懸命学ぼうとするが、その逆はほとんどみられないと指摘したことがある! また、プリンストン大学の社会学者ロバート・ウスナウは「リベラル派と福音派の両者とも、互いに相手の最も悪い面ばかりを前面に押し出し、それぞれの“よい部分”をまったく見ようとしない」とも批判している(『アメリカの魂のための闘い─福音派・リベラル派・世俗主義』(1989)。日本のキリスト教界はまさにその典型である!(強調は筆者)
過去に(もちろん今でも尾を引いているが)対立した自由主義、根本主義/福音主義両陣営がそれぞれに対する見方をすり合わせながら共に学ぶような機会がまだまだ少ないのだと思う。


以上、不要で不幸な混乱に巻き込まれないためにもなるべく正確な歴史知識を積み上げて行きたい。

2017年8月6日日曜日

(5)オープン神論サイドノート④

今年はまだ「オープン神論」についてのエントリーがありませんでした。

(5)オープン神論サイドノート①

(5)オープン神論サイドノート②

(5)オープン神論サイドノート③

今回ご紹介するのは「オープン神論」にサイドライトを当てている日本在住宣教師、デイル・W・リトル氏の「現代神学の概観」です。

さいわい日本語訳があるので、「オープン神論」言及箇所二つを引用します(イタリック強調は筆者)。


現代福音主義神学のアイデンティティの探求
おそらく、このような過去の神学に対する批判的な態度や作為的な単純化は、現代神学が今まさに混乱の中にあることを物語っている。現代神学のアイデンティティが危機に直面しているということだ。この混乱は特に福音主義神学の中で明らかである。福音派が現代神学書を読んでも、そのほとんどが福音主義でない立場で書かれた著作だろう。しかしながら、我々福音派としても、現代「福音主義」神学について学ぶ必要はある。福音派陣営は今や伝統的に受け入れられてきた福音派の基準とは異なる神学的見解を持った人々をも抱えている。ミラード・エリクソンによれば、福音主義神学は今や右派と左派に分かれているという。5 もはや「福音主義」という言葉は、同じ福音主義に立つ神学者の間でも、同じ意味で理解されることはなくなってしまったのである。
 ここ3年間、北米の学会である、福音主義神学会(ETS)の年会では、少数の左派の神学者たちの「オープン神論」(open theism)を議論してきた。2001年に、ETSは、そのようなオープン神論から遠ざかるという神学的声明を発表した。2003年には、ETSのメンバーは議論の上で、二人の左派神学者たちのメンバーシップ剥奪には反対する決定を下した。6 ようするに、現代福音主義神学の世界に足を踏み入れることは、混乱の経験をすることに他ならない。能弁で有名な福音主義神学会の少数派が、まだまだ、過渡期であると主張してきたとおりである。

現代神学の重要問題
[]代神学でも、それらの神学者たちから神論に重点を置く傾向を受け継いでいるが、今日では神の人格的な側面に強調点がある。つまり、現代神学は我々人間が経験するようなある種の限界を神にも設けようとするきらいがある。たとえば、未来に関して言えば、神は人間の自由な選択について、限られた知識しかないとしばしば理解されている(オープン神論)。つまり、神は、時間を超えた存在であるというよりも、時間の中に制約された存在としてみなされているというわけだ。
まあ「オープン神論」自体にそれほど関心持っているわけではないだろうと思います。

宣教の神学(Missionary Theology)にとって「現代の文脈」はどうなっているか概観してみよう・・・ということでの非常に大雑把なものでしょうね。

もちろん「福音主義神学」の立場からの概観ですので、セットアップの仕方が
神学の目的は、教会と深く関わっている。神学はその土台である聖書について教会を教えるものだ。しかし同時に、神学は教会の置かれている幅広い文化や世界を理解するために正しい見地を与えてくれるものであるとも信じる。神学は聖書と文化という二つの極の間で機能している。
となっています。

神学は教会に「聖書」を理解させ、かつその置かれた「文化」に対して正しい見地を与える、とそういう思索的作業をするというわけですね。


以上です。
 
ではまた何か見つけたら報告します。

2017年3月9日木曜日

今日のツイート 2017/3/9

デーヴィッド・コンドン(この記事でも紹介しました)が「ツイッター神学校」というのを始めました。


第一回目は合計50個のツイートです。

テーマは「伝統(tradition)」

主に北米における福音派の神学的動向を幾つかの主要な要素(「聖書無誤論」「文化戦争」)を軸に分析し、プロテスタントの「反・伝統」的な性格が(今や)伝統に傾斜・回帰し始めている「神学的現在地点」を捉えています。

そこで「伝統」とどう対峙するか、という問題提起にルドルフ・ブルトマンの「ケーリュグマ的視点」を参照しています。(ツイートでいうと#41~#50)

非常にコンパクトにまとめられていて参考になります。
※しかし筆者の個人的な印象から言うと、分析と現状把握(#6~#40) は優れていると思いますが、「ブルトマンの扱い方」(#41~#50)に移行するにはまだかなり距離があるように思われます。

いずれにしても、(筆者の勝手なレッテルですが)「ポスト福音主義」の若手神学者の台頭株の一人と目されるコンドンの「神学的問題の捉え方」は傾聴に値すると思います。

2017年2月20日月曜日

(5)『スキャンダル・オブ・ザ・エヴァンジェリカル・マインド』の今

米国福音派はトランプ大統領の隆盛と共にもはや「キリスト教原理主義」とほぼ重なって見えるようになってきている観がある。

実際はもっと複雑な内部事情があると思うのだが、恐らく「外の人」にそれを説明することはかなり困難になって来ているかもしれない。

そんな兆候の一つともされかねないのが小論壇誌『ブックス&カルチャー』の閉巻だ。
このツイートによれば「大衆福音主義迎合タイプの映画は続編を出すが、一級の(小)論壇誌は廃刊に追い込まれる。」、ということになるのだろう。

実はツイッターを始めて間もなく、この『ブックス&カルチャー』のツイッター・アカウントをフォローしてきた。

しかし、やりくりが大変そうなのが伝わっていた。

ツイートの数がかなり減って行った。

そして2016年を最後に「店を畳んだ」。

そういった事どもを思い返したのは、このツイートだ。

(順番から言えば最初にこのツイートを掲げるべきなのだが・・・。)

いやー、この記事本当面白かった。

こんなツイートもしたくらい・・・。

この記事の中で、ジョン・シュマルツバウアーが、『ブックス&カルチャー』を編集に携わってきたジョン・ウィルソンが(標題に使った)マーク・ノルのThe Scandal of the Evangelical Mind (1995年)に言及している部分を紹介している。

Like many little magazines, Books & Culture was a response to a problem. As Wilson remarked in a recent podcast, "It was not accidental that The Scandal of the Evangelical Mind came out in '94 and the first issue of B&C in '95." Lamenting the persistence of anti-intellectualism within American evangelicalism, Scandal was an "epistle from a wounded lover," articulating Mark Noll's "hope that we American evangelicals might yet worship God with our minds."
どうやら『米国福音主義の知的生活・文化』は退潮傾向にあるといわねばならないのだろう。
 

2017年2月9日木曜日

今日のツイート 2017/2/9

映画『沈黙』が引き金となったのかもしれないツイート。




残念ながら、最初に入信した『集団』での体験が、『福音派』で括られて次ぎの警告ツイートとなっている。

2016年11月6日日曜日

(4)MLJとJSのガチンコ 追記

もう二年以上も前、「MLJとJS、JSとBGのガチンコ」と云う記事を書いたが、そのうちの「MLJとJSのガチンコ」についての追記となる。

そのガチンコがあった1966年10月18日から50年経った、という回顧記事がゴスペル・コーリションに掲載されている。


ジャスティン・テイラーがマーティン・ロイドジョンズの意義を評価する論文集、Engaging with Martyn Lloyd-Jones: The Life and Legacy of ‘The Doctor’ (Inter-Varsity Press, 2011)、の編者であり、ジョン・ストットとのガチンコについての論文も書いたアンドリュー・アザーストン(Andrew Atherstone)にインタヴューしている。

その中で以前ブログで書いた
次のようなエピソードが残っている。
1966年ロンドンでのとある会合で二人は教会論争で激しくぶつかった。
ロイドジョンズは神学的に雑多な人々が混じっている英国国教会を嫌い、福音派の人たちを引き連れて出よう、と言うようなことを主張した。
しかしそのすぐ後登壇したストットはその動きに抗議したのであった。
このエピソードについてのより詳細な解説が記されている。(ほんの一部を引用)
So what did Lloyd-Jones say exactly, and why was it so controversial?
At its heart, Lloyd-Jones’s address was a call for visible unity among evangelicals to match their spiritual unity. He lamented that they were divided among themselves and “scattered about in the various major denominations . . . weak and ineffective.” But he believed the ecumenical turmoil of the 1960s presented “a most remarkable opportunity” to rethink evangelical ecclesiology along New Testament lines.
In particular, he argued that evangelicals were guilty of “the sin of schism” for remaining visibly separated from each other, while being visibly united in their denominations to people who denied the gospel essentials. “I am a believer in ecumenicity,” he provocatively declared, “evangelical ecumenicity!” Evangelicals should not be satisfied with unity merely through parachurch networks and societies, Lloyd-Jones insisted, but should come together in “a fellowship, or an association, of evangelical churches.”
書評も読み合わせてみるとある程度イメージが浮かんでくるが、こんな感じではないだろうか。

既に一部の教職者たちが国教会を出て福音主義のグループを形成する動きが出ているところに、このロイドジョンズのアッピール(どんな福音主義組織を作ろうとしているのか具体的な部分は曖昧だが)が(既に始まっていた)離脱の動きを加速することを懸念したストットが、ロイドジョンズの降壇後に(礼儀も弁えず)激しく非難した。

ということらしい。


詳細について興味ある方は、是非ここに紹介したものを直にお読みください。

(※アザーストンさんはかなり精力的に「現代(英国)福音主義」の歴史を著作しているみたいです。ウェブサイトをご覧ください。)


2016年7月19日火曜日

(5)オープン神論サイドノート②

をアップした後は泣かず飛ばずの「オープン神論」サイドノートになっています。

理由は幾つか考えられますが、大きな方の理由の一つは内容の低調さ・・・もあるかも知れません。

筆者はどちらかというとオープン神論の方に共感を覚える、くらいな程度ですから、ことさらに肩を持つわけではありません。

そもそもが「神論」を論ずる「プローズ(prose)」の面で「オープン」に反対する(異端呼ばわりする)側のことばに「リジディティー(rigidity)」を感じてしまうのです。

それはもちろん(リフォームドの)神学的システムから派生してくるものだと思うのですが、しかしそれでももう少し言い方があるだろうに、と思ったりするのです。

と云うわけで今後もこのシリーズを継続するだけの「関心度」が維持できるかどうかは分かりませんが・・・。

今回紹介する動画は、ダラス・バイブル・チャーチの トム・スティガル牧師のものです。(たまたまです。別に特別いいとかそう言うわけでもありません。)



・「オープン神論者」が福音主義者の中に「侵入して来た」だけでなく、大勢を占めつつある・・・みたいな言い方をしています。(福音主義神学会での2004年、ピノックたちが締め出されそうになった経緯からの変化を見て。20分前後くらいのところ)

・「内輪もめ」の雰囲気が強く感じられるのですが・・・。やはり「オープン神論」の影響力を阻止しよう、と云う目的での「「オープン神論」についての学習ビデオになっています。

・その面では割合良くできているのではないでしょうか。講師自体はそれほど頭に血が上っているわけでもなく、落ち着いて「オープン神論」の(反対者から見ての)間違いを指摘しています。



(次回もあれば、続く)

2016年7月2日土曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、3

「1 宗教改革」(24-31ページ)

『福音』と『体験』と『聖書』
 この福音の個人的体験は、信仰義認にとどまらない。宗教改革者たちはいずれも、キリスト者としてどのように生きるべきかを、ローマ教皇の教えでも教会の伝統によるのでもなく、サクラメントの秘儀の中においてでもなく、聖書から直接に学んでいった。
 ・・・こうして聖書は、キリストの福音を体験し、福音に生きるための神の言葉としてとらえられていく。
筆者はウェスレアン・アルミニアン(注1)の流れに育ったので「福音とは体験するものだ」式なレールの上で育った。

 恐らく「体験主義キリスト教(そうこの段階で呼んでよければ)」のルーツは、宗教改革者の時代の後、いわゆる正統主義の強調(どちらかというと正しい教理に対する知的承認を信仰の優先事項とした)に対して「敬虔の生活を力動させる心」を強調した敬虔主義の流れがより明瞭なものではないかと思う。

 敬虔主義の聖書に対するアプローチは(正統主義が聖書を教理の源泉とするのに対し)、「キリスト者としての成長」や「敬虔の生活(デボーショナルも含む)」の「霊的糧」という面が強くなったのではないかと思う。

 この流れで後々重要になってくるのは「福音体験」にしろ、「キリスト者の成長」にしろ、「個人的」「主観的」ものの見方が中心になってくる傾向だ。

 上記引用での強調部分は、
 (1)権威の問題・・・教皇・教会の伝統
 (2)「恵の手段」・・・サクラメント
に相当するわけだが、ルター個人の経験が端的に物語るように「個人の信仰・良心」対「制度的教会の権威」の図式になったことにより、宗教改革諸派は「反・ヒエラルキーな権威・権力」を志向することになり、「職制」や「聖典」の問題を制度的な(より外面的な)教会の問題と認識するようになって行ったと思われる。

 「キリスト者の成長」にしろ、「教会の形成・構成原則」にしろ、「聖書解釈に対するアプローチ」にしろ、「伝道方法や対象」にしろ、個人が物事を動かす基準に移行して行くのは、ある意味カトリック教会に対する反動としての面もあることは否めないだろう。(注2

聖書の言葉の明瞭性の根拠は?
 さらにブロミリーは、宗教改革者たちの聖書観には、神のメッセージが人間的なものの中で、・・・つまり彼らは、聖書の大部分は明瞭でわかりやすい言葉であり、それはドイツ語にも英語にも、また日本語にも翻訳し得ると考えた。
こちらの引用に関連する問題は、宗教改革の「聖書のみ(sola scriptura)」 原則が、実際上機能するために必要な「聖書解釈上」の要件である「聖書テクストの意味の明瞭性(plain sense, clarity, perpiscuity)」に関わるだろう。

 この問題についてはいずれもう少し取り扱うことにもなるだろうが、どう控え目に言っても「一筋縄では行かない」ものだといっていいだろう。

 (実際上、この問題は聖書を奉じ且つ読むクリスチャン誰もが多かれ少なかれ感じているだろうと思う。「誰もが聖書を読める」幸いな状況は、誰もが聖書のテクストの意味を巡って対立したり論争したりできる状況をも発生させる。そしてプロテスタントの場合それらを調停する手段は制度的・機構的に弱いと見られても致し方ないだろう。もちろん民主的なルールに希望を持っているわけであるが。)


(次回に続く)


注1・・・「ウェスレアン・アルミニアン」とも「アルミニアン・ウェスレアン」ともいう。両方の言い方があって、多分多少のニュアンスの違いがあるだろう。

注2・・・スコット・マクナイト『福音の再発見』1章に短く書かれている(17-8ページくらい)、バプテスト信者であったスコットの自伝的エピソードを参考にしてみてください。バプテストはある面「個人原理」を徹底し、また「聖書」以外に「信条」や「神学」は無用・・・みたいな方に行ったようです。

2016年6月26日日曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、2

「はじめに」(12-21ページ)

『福音派』か『福音主義』か
 そこで本書において、私は「福音派」という二十世紀の枠付けの強い、あたかもそういう教派が存在するかのような呼び方をなるべく避けようと思う。二十世紀のエヴァンジエリカリズムを「福音伝道主義」と的確に訳しているケースもあるが、本書では「福音主義」を多用する。そのとき、宗教改革がベースにあることも心するが、筆者はむしろベビントンのように十八世紀から現代に至る、教派を超えた霊的流れを意識していると、鷹揚にとらえていただきたい。(14ページ)
おそらく二刷目以降で既に改まっていると思うが、「日本の福音主義が南アフリカのオランダ改革派教会のデイヴィッド・ボッシュ・・・」(274ページ)の「福音主義」はこの文章の主語としては、「福音主義者」か「福音派」とあるべきところを「福音主義」としたところに、最初の段階で用語の選択に逡巡した影響が出ているのかもしれない。

 12ページの最初で、「福音主義(エヴァンジェリカリズム)、福音派(エヴァンジェリカルズ)とは、キリスト教のどのような考え方やどのグループを指すのであろうか。」とあるように
Evangelicalism・・・福音主義・・・考え方
Evangelicals ・・・福音派・・・グループ
と使い分けはなされているので、問題は「福音主義を標榜するグループや個人」に対応する用語として「福音派」を使うのに気が進まなかった、ということになるのだろう。

理由は(おそらく)、「福音派」があたかも「一つの教派」であるかのように思われたり、(あるいは)このグループが「一枚岩」的のように取られたりするのに対し、そうではなく「福音派」は多様な幅を持っていることを示したかったから・・・ということになるのだろう。


初っ端から細かな話で申し訳なかったが、用語の整理に関してちょっと気になったことをコメントしてみた。

本書が「聖書信仰」を主題とし、その「・・・福音主義の聖書理解を歴史的な流れにそって検証する・・・」(16ページ)とあるので、「宗教改革」から派生する諸グループ・運動を「福音主義」という同一用語でより広く捉えよう(捉えたい)とする試みとして理解し、共鳴・共感したいと思う。

(次回に続く)

2016年6月25日土曜日

(5)ドナルド・トランプと福音派キリスト教(続3)

およそ半年振りの「更新」というか「続報」です。

民主党クリントン、共和党トランプ、両候補者の指名獲得がほぼ確実になったわけですが、この段階で「トランプ候補」と「福音派キリスト教」の改めての「折り合いを付ける」大きな会合が先日ニュー・ヨークでありました。


トランプと福音派キリスト教、続2で紹介したことですが、

エミリーの印象では、保守派/福音派キリスト者のトランプ候補支持が依然高止まりしている理由は、トランプの信仰とか宗教的背景ではなく(むしろ乖離している)、保守派/福音派キリスト者の抱く「アメリカとキリスト教の同一性」が危機に瀕しており、その問題に一番アッピールする候補がたまたまトランプであること、そして何よりもトランプ自身が、今まで非政治的でさえあった今回の支持者たちのように「政治の素人」である点がアッピールしているのではないかと指摘する。
、「アメリカとキリスト教の同一性の危機」が焦点の一つになっているらしいのです。

「福音派」の中でも特に保守的な福音派キリスト教の関心となっているのがなにであるか・・・この会合に参加してトランプ候補に質問を投げかけたのがジェームズ・ドブソン氏です。

彼の質問スピーチ(質問の形の演説みたいな、と云う意味で)に、「アメリカとキリスト教の同一性危機」問題の一面が見て取れる気がします。(米ヤフー・ニュースが入手した音声を文章にしたもの
And then, of course, our Founding Fathers wrote that in the Constitution, where the Bill of Rights, those 10 enumerated rights, started with religious liberty. It was put number one for a reason! Because that sets the tone. That is the foundation for all our other freedoms. And yet when Barack Obama became president, I think there was a conscious effort to undermine our religious liberty. You’ve probably seen it from that time to this. Have you noticed that the president and Democrats and Hillary — yes, Hillary — no longer talk about “freedom of religion”? They talk about “freedom of worship.” Why have they changed that? It’s very small, a one-word change. Well, freedom of worship means that you are confined to your churches and your synagogues, but freedom of religion, as identified in the Constitution, is in the public square, it’s everywhere. So they have tried to limit us to our church activity. So we’re seeing more and more of that.
この質問に対するトランプの返答は予想されるようなものとはいえ、「保守派の福音派キリスト教」と「トランプ大統領選の宗教政策」は明確に合致する、という見解を示しています。

(※このヤフー・ニュースはしっかり読み込んで分析する必要がありそうですが、今はその時間がないので次のトピックに移ります。)

トランプと福音派キリスト教、続2でも紹介しましたが、昨年12月時点で、福音派キリスト教の「ややリベラル」な見解を持つ南部バプテスト連盟のラッセル・ムーア氏や、「保守派」のジェームズ・ドブソン氏がトランプ候補を嫌ってテッド・クルーズ候補に絞り込む動向について書きました。

その後クルーズ候補は選挙戦から撤退し、不本意ながらトランプ候補に選択を迫られる状況が発生しました。

その状況での
「トランプ候補」と「福音派キリスト教」の改めて「折り合いを付ける」
機会がこの会合の目的だったように思います。

この(招待者が限定された)会合は、ヤフー・ニュースの記録からはカーソン元候補のアイデアで設けられたようです。

キリスト教側からこの会合をリードしたのは、初期からトランプ候補支持を鮮明にしていたフランクリン・グラハム氏(開会祈祷を担当し、自身も含め誰しもみな罪びとである、とトランプ候補に対する道徳的ネガティブ感のガードを下げている部分も垣間見えたりしています。)とリバティー大学学長のジェリー・フォルウェル・ジュニア氏です。

本会合の前に、主な出席者をトランプタワーに招いて「顔合わせ・交流の時」が持たれたようですが、そこでのジェームズ・ドブソン氏の感想がインタヴューとして収録され、ネット公開されています。

そのインタヴューの中でドブソン氏が「トランプ氏の回心」(ごく最近誰かがトランプ氏を個人伝道(?)し、それにトランプ氏が応じて「イエス・キリストを信じ受け入れた(?)」とのこと)部分を語っていますが、その部分を文字起こしした記事では、ドブソン氏のように「アメリカとキリスト教の同一性」のような見方から「大統領と政治」の問題に取組むことを「一辺倒なもの」として批判しています。


さて、今後またどんな進展があるかもしれませんので、一応この「ドナルド・トランプと福音派キリスト教」連載は未完と言うことにしておきます。

2016年4月13日水曜日

(5)オープン神論サイドノート①

最近更新のペースが落ちています。

が、調子が悪いわけではありません。

一応書きかけ記事が15くらいありまして、手を入れず放置したままにしてしまっている次第。


主に神学ブログ⑧で紹介した、山崎ランサム和彦先生が、オープン神論とは何かの連載記事を開始されました。

それに触発されて、引き出しに入れっぱなしになっていた書きかけの「オープン神論」記事を出してみました。

しかし大したことは書けないので、今後進展するであろう山崎先生の連載記事の「サイドノート」にでもなればよろしいかと・・・。


個人的には筆者は余り「オープン神論」論争には関心が深いわけではなく、ただこれから紹介するように「オープン神論」論者が筆者の神学的背景である「ウェスレヤン・アルミニアン」神学の伝統を支持基盤とするだけ、ある意味「親和性」が高い・・・ということで何かしらシンパシーは感じている、というほどの関わりです。

「オープン神論」論者で最初に紹介するのは山崎先生が紹介している「グレグ・ボイド」の次くらいに名前が挙がる「クラーク・ピノック(Clark Pinnock CT追悼記事 1937-2010)」です。

「説教学」 という雑誌でピノックが「インタヴュー」を受けた記事です。

その中から一部、ETS (アメリカ福音主義神学会)での「論争」の経緯や背景について語っているところです。

HOMILETICS: You weren’t always an open theist. How did this change in direction come about for you?

PINNOCK: Well, I used to be a five-point Calvinist in the late ’60s and then I came to read Hebrews and noticed how it appears our relationship to God is conditional upon faith, so I was intrigued by the idea that God is conditioned by some of the things that creatures do.
The old view is that God is not conditioned by anything his creatures do because he has determined what they do. But if, in fact, God’s will is affected by what his creatures decide, then that calls for a personal theism, relational theism, open theism.
So in a way open theism goes right back to the early ’70s when I realized the weakness of deterministic thinking. And then over the years I wrote different things on the subject. Then John Sanders talked to me and we decided that since this is a view that some people know about, but not all, let’s present it in a clear way just for evangelicals so that they can see what we think.

(※ここではピノックが最初は「5論点カルヴィニズム」からスタートして、ヘブル書を読んで神観が変化したことを述べています。その後ジョン・サンダースと協力してより「リレーショナルな神観」が福音主義に可能なことを示そうと動き始めた、と述べています。)

HOMILETICS: Has this made a ripple on the mainline side, or is this a problem primarily for evangelicals?

PINNOCK: The Evangelical Theological Society is a peculiar group of very conservative evangelicals. But there are many who consider themselves evangelicals who don’t go to it who you would find in different sections of the American Academy of Religion and the Society of Biblical Literature and who are positioned in the Wesleyan faith. So they see it correctly, namely, as a variant of their own position and worthy of consideration — which is all we want them to do. Like Randy Maddox [Professor of Wesleyan Theology, Seattle Pacific University], for example, a major interpreter of Wesley, who wrote a great book. He says that [John] Wesley might well have considered openness in full agreement with what he was getting at.
So there are evangelicals who are not ETS evangelicals. You almost need a new term. There are the ETS types who would go after me like that, but normal evangelicals who are outside that, they regard it just for what it is — a variant of Wesleyan-Arminian thinking. [Roger] Nicole, a five-point Calvinist, wants to emphasize how different our view is so they can isolate it as a heresy, because they don’t want to criticize all Wesleyan-Arminians although they don’t like their views.
最初の部分で「福音主義者」について興味深い定義をしています。
(北米)福音主義神学会は、かなり保守的な福音主義者たちの集まりという点で特有です。他の多くの福音主義者たちの中で「アメリカ宗教学会」や「北米聖書学会」の諸部門に顔を出すような人たちがこの学会(ETS)には出席しません。彼らは「ウェスレヤンの立場」の方々です。
と、「オープン神論」の立場が、「ウェスレアン神学」と親和性が高く(ピノックは「ウェスレアン的神観」に属するとしています。)、「ETS福音主義者ではない福音主義者たち」としています。

とここからがかなり表現がささくれ立ってきますが、(「オープン神論」論争において)ロジャー・ニコールが取った戦術を非難しています。

すなわち、「ノーマルな福音主義(であるウェスレヤン・アルミニアン主義)者たち」からピノックら「オープン神論」論者たちを区別・分離して「異端」視した、と。

その先導をしたのが「5論点カルヴィニズム」を奉ずる「ロジャー・ニコール」(1915-2010)であり、実は「ウェスレヤン・アルミニアン主義者」たちも好きではなかったが、一応「福音主義者」陣営にいるために「オープン神論」論者を彼らから隔離する必要があったのだ、と考えています。

英語ではこう言う述懐を「ビター(苦い)記憶」といいますが、やはり「正統派」から「異端」のように突っつかれたことが癒えない傷となっていたのでしょうね・・・。

※引用文中にあるRandy Maddoxは現在デューク大神学部で、「ウェスレヤン・メソジスト研究」の教授をしています。

2016年2月21日日曜日

(5)ホィートン論争、その3

シリーズ「その3」ということになります。

その1」では・・・
(1) 発端
(2) 大学当局(アドミン)指導部の反応
そして
(3) メディアによる論争の拡散
の序みたいなことを書きました。

その2」 では、(3) メディアによる論争の拡散として
1. マーティン・マーティーが事件を概観する記事
2. 大学当局処分を支持する記事
3. ホーキンス准教授と大学側がもっと意見を付き合わせるよう要請する卒業生の記事
の三つを取り上げました。

今回は最初に、以前「現代の英語圏神学者」 で取り上げたデーヴィッド・ガシーの分析と主張を見てみます。

彼はこの事件に関してずーっと関心もって、かなり批判的な意見を展開してきました。

ガシーはこの記事1で前置きしているように、何度もホィートン大学に講演者として訪れた、いわば「事情通」として意見を述べています。


それはずばり「恐れ」だということです。
It’s about fear.
My theory is that what Professor Hawkins really violated were the implicit but very real political preferences of Wheaton’s constituency, not the school’s explicit theological standards.
Nowhere in that doctrinal statement does it say explicitly that to believe Muslims and Christians “worship the same God” is out of bounds. It is certainly quite possible to argue either side of the issue today, from an explicitly evangelical perspective. Consider evangelical theologian Miroslav Volf, who defended Hawkins in a recent response to the Wheaton controversy and has long argued for the exact point that has her in trouble.

大学の支援者たちの政治的支持傾向がホーキンス准教授の発言に反応したのであって、彼女の発言の神学的内容ではないのだ、と見ています。

政治的支持傾向、とはつまり保守福音派の大半が支持する共和党のことになります。

ホィートン大学の支援者たちは、キリスト教保守派であり、政治的にも保守であるが、他方で一流大学としての立場を維持するため、優秀な教員を主にリベラル大学で博士号を取得した者たちを獲得しなければならない「ねじれ現象」を背景として今回のような事件が現れたのだ、と指摘します。



ガシーのように「政治的背景」で事件を読むのは一つのアプローチだと思います。

次回は「神学的論争」として事件に接近している記事を紹介してみたいと思います。

 

2016年2月8日月曜日

(5)ホィートン論争、その1

「ホィートン論争」といってもジャーナリスティックな見出しでそう言う風に言われているわけで・・・、筆者が論争っぽく書こうとしているわけではありません。


(1)発端
 遡ること昨年の12月、サンバーナディーノ銃乱射事件の影響で、北米でのイスラモフォビアが大統領候補指名選挙での度重なる過激な移民排除発言などにも煽られて過熱気味になっていた。

 そんなとき、待降節を迎えて何かそんな刺々しい状況に融和と和解のメッセージと行動を示そうとした一人の大学教師がいた。

 福音派のハーバードと呼ばれる、イリノイ州にあるホィートン大学の黒人で女性という二重にマイノリティーの背景を持つ、ラリシア・ホーキンス政治学准教授がその人だった。

 彼女はイスラムとのソリダリティー(連帯)を示すため、頭にヒジャーブ(スカーフ)を被り、教皇フランシスの発言も引用しながら、「クリスチャンとイスラム教信者とは同じ神を礼拝している」と自分のフェイスブックにメッセージを書いた。

(2)大学当局(アドミン)指導部の反応
 ラリシアのメッセージは大学指導部にたちまち危険信号となって伝わり、彼女は有給停職処分を受け、彼女の発言が大学の「信仰的立場」に抵触しないか審査する手続きに入る、という指導を受けた。

 しかしラリシアはテニュアー(かなり有利な雇用)待遇の身であったことから、彼女の行動や発言の是非とともに、このような大学側の一方的な指導に対する批判も各方面から沸きあがった。

※以上の経過を、神学的な問題へのコメントも合わせて掲載した初期の記事の中で、NPR (National Public Radio)の、
 Do Christians and Muslims Worship the Same God?
を挙げておく。

日本での報道は殆どなく、業界ニュースである<CJC通信>の、2016年1月12日付け記事「アラーとイエスは同じ神か?米大学で論議」が見つかるくらいである。
(3)メディアによる論争の拡散

 メディアでの論争の拡散について書く前に、筆者が最初にこの“事件”をやや自覚的に認識したのは、ツイッターでフォローしているTobin Grantが書いた記事(2015年12月16日)であったことを紹介しておく。

 トビンはホィートンの卒業生であり、政治学分野で活動している業界人として、この“事件”の動向の如何に格別神経を尖らせていた人物で、その後意を同じくする政治学業界の同窓生らを取りまとめて、ホィートン大学当局に「処分の見直しと和解を勧める」公開書簡(2016年2月2日)をウェブ掲載した。

 さてこの辺で「続き」とするが、この事件は残念ながらラリシア・ホーキンス准教授がホィートン大学を退職する方向で収束したものと報道されている。

2015年12月14日月曜日

(5)ドナルド・トランプと福音派キリスト教(続2)

ドナルド・トランプの名前はまだまだ日本では知られていないのではないかと思う。
と書いてこのトランプ連載を始めた。

確かに8月の時点ではそれほど日本のメディアには露出していなかったように記憶している。

しかし
どうやらトランプ氏の選挙戦は予想より長続きしそうなので、このシリーズはまだ続けられるかもしれません。

連載2回目を書いたときには、共和党候補者の先頭を走りながら、当初短命と思われたトランプ候補の支持率が以前下がらない予感がして、連載を続けると締めくくった。

それから三ヶ月。トランプ候補がここまでしぶとく先頭を維持することは余り考えていなかった。

大分連載をサボっていたが、お約束通り連載3回目を書くことにする。


《アトランティック》誌のルース・グラハムの記事(2015年10月28日)では、福音派といっても、信徒たちと牧師など教会指導者たちとではトランプ候補に対する評価に開きがあることを指摘する。

例としてベイラー大歴史学教授のトマス・キッドや、南部バプテスト連盟指導者のラッセル・ムーアらトランプ候補に否定的評価を下す福音派指導者の名を挙げている。


今度は《宗教と政治》誌のエミリー・ジョンソン(テネシー大宗教史教授)の記事(2015年12月8日)では、ノックスビルのコンベンションホールでの集会の様子をレポートしている。

エミリーの印象では、保守派/福音派キリスト者のトランプ候補支持が依然高止まりしている理由は、トランプの信仰とか宗教的背景ではなく(むしろ乖離している)、保守派/福音派キリスト者の抱く「アメリカとキリスト教の同一性」が危機に瀕しており、その問題に一番アッピールする候補がたまたまトランプであること、そして何よりもトランプ自身が、今まで非政治的でさえあった今回の支持者たちのように「政治の素人」である点がアッピールしているのではないかと指摘する。
Like Nixon, Trump uses vague references to moral decline and American patriotism to cast a wide net, to appeal to a broad swath of conservatives who feel alienated from the machinations of Washington bureaucrats, but who can hear their grievances reflected in Trump’s “Make America Great Again” sloganeering.
最後に《ワシントン・ポスト》誌のサラ・ベイリー記者の記事(2015年12月10日)では、福音派指導者たちがトランプ氏以外の有力候補を擁立する動きを紹介している。

ジェームズ・ドブソン氏とのインタヴューによると、最初に予備選が行われるアイオワ州での世論調査ではテッド・クルーズ上院議員が支持を集めているが、福音派も彼に絞ってきている様子だとのこと。
(CNNの日本語翻訳記事でも紹介されている。)



といったところです。

(※さてお約束は出来ませんが、これで連載終了とはまだならないのではないかと思います。)

2015年12月10日木曜日

(5)現代の英語圏神学者③、ディヴィッド・ガシー

このシリーズ、スタンレー・ハウアーワスに続いて、二回目にクリスチャン・ワイマン取り上げてから数ヶ月が過ぎました。

[ 2016/5/26追記 があります。スクロール・ダウンしてください。]

日本ではほぼ無名でもそれなりにネーム・バリューのある方は沢山いるわけですが、あえて「福音派」の中で、油が乗っているような方を早めに取り上げようと思い、このたびの選択になりました。

ディヴィッド・ガシー(David P Gushee

は、現在マーサー大学「神学と公共」研究所所長でキリスト教倫理学教授です。
キリスト教倫理学の諸問題やテーマを扱った著書も20冊ほどあるようです。

最近の動向としては、LGBTQ問題に対して福音派としては進歩的なスタンスをいち早く鮮明にしました。

またブッシュ政権下での「拷問」に対しても福音派として最初に抗議の声をあげ5 Reasons Torture Is Always Wrong、クリスチャニティ・トゥデー誌、2006年2月)、その後も人権関連の諸問題と取り組んでいます。

また、北米聖書学会(SBL)と同時開催される全米最大の北米宗教学者・神学者団体、アメリカ宗教学会(American Academy of Religion)で今年副理事長に選出され、福音派の背景を持つ指導者として重要な立場にいます。

と言ったところは、この記事を書くためにネットでちゃちゃと調べた感じてすが、彼を最初に「レーダー」に感知したのは以下の動画でした。

ホィートン大学の神学会義(毎年開かれる)で、2013年は「キリスト者の政治行動(ポリティカル・ウィットネス)」がテーマで、ガシーもハウアーワスやマーク・ノルらとともに講演者として選ばれました。



この講演の冒頭で、プロテスタント福音派が「社会倫理」を議論する土台となる(権威ある)神学的伝統(教説や理論)がないことを指摘している。(カトリックの社会教説やプロテスタント・エキュメニカル陣営と比較して)

いわばちょっとした「キリスト教社会倫理・概論というか入門」となっている。(なかなか手際がよい)

とにかくこの動画でなかなか感銘を受けたのでした。

というわけでこの動画を入口に、ガシーが福音派として「社会倫理」「政治倫理」をどう構築しているのか、というのがちょっとした関心です。


2016/5/26追記
 ガシーの邦訳書の類はないだろうと高をくくっていたらありました。
 グレン・H・スタッセン/デービット・P・ガッシー『イエスの平和を生きる -激動の時代に読む山上の説教-』(出版社: 東京ミッション研究所)・・・教文館の方のリンク。
 

原書はKingdom Ethics: Following Jesus in Contemporary Contextみたいですね。

2015年10月19日月曜日

(5)無誤論回想二題

聖書無誤論については当ブログでも様々な形で取り上げたが、この記事の導入として
福音主義とは何か(2013年6月)
と題して、福音主義神学会(東部部会)の研究会に出席した感想をあらわしたものを参考にしていただくとよいかもしれない。

行間に「イライラ感」が垣間見られるように、神学会でありながら、何か論争に発展しそうなことを避け、安全運転なトピックを選び続けるのに業を煮やしている観がある。

(1)日本の福音派の中での「聖書無誤論」論争

 さて、今年になって「聖書無誤論」に関して、日本の福音派の中で起こった論争の生き証人的な方々の表白に接する機会があった。

 とても印象深い出来事であった。既にある程度別の記事で文章化したので、そちらを参照していただければと思う。リンク

(2)北米の福音派神学者たちの間での「聖書無誤論」

 ここに紹介するのは、(執筆当時)フラー神学校学長デーヴィッド・ハバードが自身が関わった「福音主義聖書学者・神学者たちの回顧録」である。

Evangelicals and Biblical Scholarship, 1945-1992: An Anecdotal Commentary(リンク
書かれたのは1993年と今から18年前になるが、かっちり整理された歴史と違い、ハバード自身の観察や感慨から、当時の論争の雰囲気がうかがえ興味深い。

 少し抜粋してコメントしよう。


The second factor was the beginning of conversations with members of Fuller's board about the Fuller presidency. These conversations were paralleled by discussions within the Fuller community about the relevancy of "inerrancy" as the means of expressing biblical authority.

旧約聖書学者としてキャリアを積み上げ始めていたハバードが、フラーの学長候補になったことによって、一緒に仕事をしていた幾分リベラル寄りの研究者が論議された経緯を言っている箇所。(この同僚はハバードを配慮して袂を分かったらしい。)

While the work proceeded on the revision of Fuller's doctrinal statement, the issue of the importance and meaning of inerrancy continued to bubble on our campus and across the land. 

フラー学長時代(1963-1968)に「無誤論」の問題が沸騰してきた経緯を言っている箇所。1966年にゴードン(ボストン)のキャンパスでシンポジウムが開催されたとのこと。(おそらく全米での神学論争の口火を切るような会議であったのだろうか。

A memorable debate between Jim Packer and Frank Andersen encapsulated this division. I left Wenham heartened by the common ground among most of the biblical scholars and by my surmise that a number of the theologians were attracted to the term inerrancy more by the desire not to cause division or raise suspicion than by the conviction that it was an essential biblical label.

無誤論に関して、聖書学者と神学者とはある種捉え方の違いがあることをハバードは承知していたが、1966年の段階では見解の相違や不一致に発展するような悲観的な展望は持っていなかったと吐露している箇所。

...Volume 2 of New Testament Foundations in the mid-seventies. The discussion centered on the question of Pauline or Paulinist authorship of Ephesians and the Pastorals. Did we at Fuller want to be first on the block to break with the conservative-evangelical consensus on this? 

 この本を出版するに際し、フラー教師のラルフ・マーティンと「パウロ偽名書簡」問題をめぐって苦悩したらしいことを書いている箇所。

Our main thesis was that inerrancy and evangelicalism were not synonymous. Our chief plea was that evangelicals should unite around our commitment to Scripture and our orthodox heritage and not go to war over any particular word used among us to define Scripture's inspiration.

「無誤(インエランシー)」という語にこだわって亀裂を深めるようなことがないように、とのハバードの願いがあったことを書いている箇所。

Happily, it has led to discussions on the more central question, not how do we describe the Bible, but how do we interpret it. 

「聖書の権威・霊感」の中心的な問題は、聖書がどのような本であるかを定義することではなく、どのように解釈するかにある、という見方であったことを書いている箇所。


北米での聖書無誤論争に関心がある人だけでなく、北米における福音主義興隆期の聖書学がどうであったかを知るにもよい「回顧録」かと思う。

知っている人は知っているあの人やこの人の名前がザクザク出てきます。

2015年9月2日水曜日

(5)ドナルド・トランプと福音派キリスト教(続1)

ドナルド・トランプと福音派キリスト教を最初に書いてからほぼ1週間が経ちました。

少しずつ日本でもトランプの名前が取りざたされるようになって来ました。

筆者がフォローしている東大の国際政治学者、藤原帰一教授もツイッターで少し呟いています。

依然としてトランプ氏が真面目に取り上げるべき候補かどうか、世間の疑問視は続いています。

今回は福音派の前にカトリックの反応を一つ取り上げてみたいと思います。

フェイスブック上で、日本の知人の方が、日本のカトリック聖職者がトランプ氏に関して心配していることをコメントしてくれました。

トランプ氏が強硬発言を続けている「移民排斥」、特にメキシコ系も含めヒスパニック系住民の大半はカトリックですから、心配も当然と思われます。

Commonweal (コモンウィール)と言うカトリックの雑誌ではトランプ氏の選挙は長続きしないだろうと見ています。

そして「金持ち」候補として「生粋の物質主義的・功利主義的福音の伝道者」と位置づけています。
Donald Trump preaches an unadulterated version of this materialistic and utilitarian gospel.

さて、福音派系と思われるウェブサイトThinkChristianは、(福音派キリスト者の反省を込めて)「私たちはトランプを偶像化している」という記事を書いています。
As a result, we begin hoping in a presidential candidate’s ability to save the country, and we hijack our basic motivation to worship God and use it to worship a political office. I believe this is precisely what is happening with the support of Donald Trump.
殆どの方が指摘するのですが、共和党候補者の中でトランプ以外に何人も福音派の理念により近い人がいるのに、なぜわざわざトランプのような福音派の価値観から遠い人間を支持するのか、と言うことも議論になっています。

この「シンク・クリスチャン」の記事は少し単純化していますが、「落ち目のアメリカ」を回復してくれる人物として、大金持ちの成功者トランプ氏崇拝に傾いているかに見えるキリスト者に警告しています。


こちらのスーザン・スミスさん(多分リベラル派キリスト者)のハッフィントン・ポスト記事(Authentic Christianity is a Myth)はトランプ氏を支持する福音派に対して厳しいことばをぶつけています。
The lack of authentic Christianity hit home when I heard Donald Trump say he had never asked God for forgiveness. His words carried their own weight, but the larger problem was that the Evangelical community, which professes to love God like no other ...love Jesus like no other ...was silent.
The Evangelical community lost its credibility for me at that point. While I have not agreed with many of that community's stances on issues such as right to life or gay marriage, what I always believed was that they were grounded in the words of Jesus the Christ.
(トランプ氏が「私は神に赦しを請うたことはない」と言ったことに対して福音派は口をつぐんでいる。それを見て私は彼らに対する信頼を失った。)
と、今回はこんなところにしておきます。

どうやらトランプ氏の選挙戦は予想より長続きしそうなので、このシリーズはまだ続けられるかもしれません。

で、急いで結論を出す必要も無さそうです。まだ継続することとします。

2015年8月25日火曜日

(5)ドナルド・トランプと福音派キリスト教

ドナルド・トランプの名前はまだまだ日本では知られていないのではないかと思う。

現在、米国大統領選の共和党候補指名争いを先行しているようだ。


つい最近、彼が放った日米同盟についての発言が波紋を投げかけている。
「(現在の日米同盟の下では)米国は、もしも日本が攻撃を受けた場合、日本を防衛することを義務づけられています。しかし日米安保条約の規定では、日本は米国を助ける必要はないのです。こんな状態を、みなさんは良い取り決めだと思いますか?」
日本でもこの発言は大々的にではないが多くのメディアが報道したようだ。


しかしそのニュアンスや背景を斟酌する記事はそれほど出ていないようだ。

上にも一部引用したが、JBPressで古森義久氏が『暴言か正論か、トランプ氏が日米同盟の片務性を非難』という記事を書いている。(2015年8月25日)

古森氏はこのような発言がトランプ氏だけにみられるものではなく、民主党まで含めた多くの政治家が抱いている不満なのだ、と分析している。


さて、トランプ氏を「大衆扇動的」と古森氏が評するように、彼の政治家としての資質を語るとき、その富と合わせて「煽動家」の面はよく指摘されるようだ。

目下支持率を上げるためにかどうか、(メキシコからの)移民政策での強硬な発言が目立つが「彼が大統領として“本当に”何をやりたいのか」はまだよく分からない、という段階だろう。


さてここからが本題だが、一体米国のキリスト者、特に筆者と関係が深い福音派キリスト者は、トランプ氏をどう見ているのだろうか。

まだリサーチを始めたばかりで幾つか目立つものをネットから拾ってみた。

これは保守系のリバティー大学(キリスト教右派の代表の一人であったジェリー・フォルウェルが創設した)での始業式でのスピーチ。

このスピーチから彼の人となりが結構分かる感じだ。

(彼は長老派の教会で堅信礼を受けたキリスト者であることを伝えている。教会学校にもよく通った、と述懐している。)



(1)ハードワーカー

 You have to love what you do、を何度も繰り返していたが、とにかく仕事が好きなのだろう。彼の場合は不動産業だが、父親と同業であったがかなり叩き上げ的スピリットの持ち主のようだ。

(2)競争心旺盛

 Never give up. というのも座右の銘のようだ。90年代自分の周りの味方も敵もどんどん破産していた時に、とにかくあきらめずに生き延びた、というエピソードを紹介している。

(3)誇り

 現在のアメリカの落ちぶれた姿に対する怒りと叱責が鋭い。オバマ大統領がオリンピックをシカゴに誘致できなかったことや、ニュー・ヨークに世界の首脳が大挙押しかけているのに、誰とも会談しなかったことを「恥ずかしく」捉えている。

(4)ビジネスマンのマインド

 リビヤやエジプトからの援助要請に対し、それに見合う金銭的見返りを得なかったことに対する批判が厳しい。この辺の「米国の利益」に対する率直さはなかなか手ごわい。


といったところだろうか。

(またリサーチが進んだら「続編」をやりたいと思う。)