2019年5月15日水曜日

(4)レイチェル・ヘルド・エヴァンズ (1981-2019)

久しぶりの更新を「残念」な記事で行わなければならない。

この「大和郷にある教会」ブログで何度も取り上げたことのあるレイチェル・ヘルド・エヴァンズ[*]が5月4日テネシー州ナッシュヴィルの病院で亡くなった。37歳だった。
 *以前「エバンス」と表記していたが他出の表記と出来るだけ統一するため変更した。

この4月にインフルエンザに罹り、(治療のため服用した?)抗生物質に激しいアレルギー反応を起こし、脳に原因不明の発作(シージャー)が続いた。やむなく医療的昏睡状態に置いて様子を見ていたが、適切な処置を見い出す前に容体が悪化して亡くなった。

筆者が知ったのは5月5日の日曜日の朝。ツイッターのTLに「R.I.P. RHE(安らかに眠れ、レイチェル・ヘルド・エヴァンズ)」のようなメッセージが次々と流れてきた。

深刻な状況にあるらしいことはある程度分かっていたが、敢えて彼女のブログに上げられていた(らしい)夫のダンが行っていた続報更新を見ていなかった。

37歳での突然の死の報に、やはり愕然とした。

TLに溢れる「RHE(レイチェル・ヘルド・エヴァンズ)」へのメッセージを読みながら、間もなく自分なりのユーロジーのようなメッセージをツイートした。


……と書いてから10日が過ぎてしまった。

米国(のキリスト教界)ではかなり大きな出来事として受け止められているが、日本においては殆ど話題にすらなっていないようだ。わざわざこのような記事にまとめる意義があるかどうかこころもとないが、ある意味「エポックメーキングな人物」として当ブログに登場していただいたこともあり「追悼」の意も込めてアップする。

1. (北米の)エヴァンジェリカリズムの殻の問題

5月4日のツイート(↑)で指摘したことについて少し書き足す。

バイブル・ベルトで育ったRHEは最初は判で押したような保守的な福音主義信仰の持ち主であったが、父親(大学教員)の影響もあってか、かなりアグレッシブに自己の信仰を問い詰めるようになって行った。
その過程で信仰内容と言うものは「変化していく(evolve)」ものであることを次第に受容していくことになる。
その成長過程を著したのが『モンキー・タウンで進化する(Evolving In Monkey Town)』である。

ブロガーとして著者として多くのフォロワーたちの相談相手となったりするうちに、RHEはネット上で注目度を高め、次第に福音派における若年層のオピニオン・リーダーとなっていく。
しかしその求心力は単に「意見や見方が同じ」とか「親近感」とかに留まらず、上手く自分の意見を言ったり理解してもらえないで孤立感を持っていた若者たちに「自分をオープンにすることができる広場」を提供するオーガナイザー・ファシリテーターとしての役割に負うところが大きかったように思う。
つまりRHEのファロワーとは、RHEの信仰的意見や生き方に共鳴したり同意しているからというよりも、そこ(主にブログ)に「自分を開く場所」「自分を受け入れてもらう場所」を得ているからなのだろうと思う。

そのような役回りを引き受けるにはRHE自身がくぐってきた「信仰進化(evolving faith)」の経験がやはり大きくものを言っているのだと思う。
フォロワーたちはそこに安心感を覚え信頼を寄せるのだろう。

成長期の若者が、正直に信仰その他について自分が抱いた疑問や不満を聞いてもらったり相談したり、また他人と意見交換したりというような環境がはたして「(北米の)エヴァンジェリカリズム」にあっただろうか、という問題が実は大きく横たわっていたように思う。
言ってみればそれら若者たちの心や頭の中でふつふつと湧き上がってくる悩みや疑問を受け止める柔軟性に「(北米の)エヴァンジェリカリズム」は大いに欠けていたきらいがある。
ともすると正統的信仰に対する「挑戦」「不信仰」「不従順」等ネガティブなものとして片付けられてしまう面が多分にあるように思う。
成長期の若者たちの信仰を仮に「新しいぶどう酒」にたとえると、「(北米の)エヴァンジェリカリズム」という「革袋」はやや古く固くなっていて、(彼らの疑問に柔軟に対応するよりも)裂けるのを抑えるのに必死、というような状態なのではないかと思う。

そういう状況でRHEがそのような傷つきやすい(vulnerable)若者たちの感性を受け止めて応対したからこそ、死後にあれほど多くのトリビュート・ツイートが発せられたのだと思う

いずれにしても「(北米の)エヴァンジェリカリズムの殻の問題」を
RHEほど鋭く指摘し追求した人物はいないのかもしれない。 

2.世代間のずれは「意見の違い」なのか「感性のずれ」なのか

以下に参考までに「プログレッシブ福音主義なRHE」に対して「保守的な福音主義」の立場から「見解の相違」として書かれたふたつの記事を紹介したい。
一つはエド・ステッツァーでもう一つはロッド・ドレアーである。

エド・ステッツァー
Reflecting on Rachel: Why She Mattered
(以下の引用箇所にあるようにステッツァーにとってRHEはなかなか手ごわい相手であったようである。)
The problem is, failure to listen can make one tone deaf. Rachel was always trying to break into our echo chambers. I did not always like when and how she did it, but dismissing her in favor of the sounds of our own voices was not always the right choice.

But, Rachel was not satisfied with the evangelicalism of her youth, and our direct messages reflect that divergence. (Perhaps ironically, I started my faith journey in the Episcopal Church and ended up a conservative evangelical. She started as a conservative evangelical and ended up an Episcopalian.)
ロッド・ドレアー
Blaspheming St. Rachel Held Evans
※この記事は「追悼」として書かれたのではなく、クリスチャニティ・トゥデー誌上でエド・ステッツァーの追悼記事の後に掲載され(そして批判を受けてすぐに削除され)た、ジョン・ストンストリートを擁護するとともに彼を非難したRHEシンパたちの「言論封殺」的な結果を憂慮する、といった感じで書かれたもののようである。
タイトルに「聖レイチェル」としているように、RHEの不慮の死後数日で批判めいた意見を含む追悼記事を書いたジョン・ストンストリートはそれほど批判されるべきだろうか、と保守派の論客ロッド・ドレアーの「プログレッシブ福音派」に牽制の意味が込められているようだ。

これらの記事を読んでみて思うのは、やはり福音派の保守(ジョン・ストンストリート)とプログレッシブ(RHEやジョンの追悼記事を非難した盟友のサラ・ベッシーなど)とのあいだには単なる見解の相違では済まない「世代的な感性のずれ」があるだろう。
それは一言でいうと「どちらが正しい意見を持っているか」に関心がある人と、「(どんな意見の人でも)受け入れる」ことに関心を向ける人、との感性の違い、と言うか人としての基本的態度の違いかなと思う。


たとい意見の相違が深刻であっても、それは置いておいて先ず受け入れようとする受容的態度が先行するのか、それとも原理原則に関することで自分と意見が異なる者には譲歩せず批判し拒否することを辞さない、ことを身上とするのか、と言うような違いである。

どうも保守派は往々にして「意見の正しさ」と言うことに対する(若者たちから見ると)過度の潔癖主義・完璧主義のようなものがあるようで、その雰囲気がひしひしと若者たちに伝わり、自分たちの疑問を心の中で押し殺す「(北米のエヴァンジェリカリズムの)殻」となっているのではないか。RHEは果敢にその殻を破ることで若者たちに「息つくスペース」を提供してきたのではないか。

RHEはこの「感性のずれ」が保守派が想像するよりはるかに大きな「福音主義者の文化」の問題であり、それらの総体のようなものが「(北米の)エヴァンジェリカリズムの殻」それも「固い殻」となって若者たちを息苦しくさせ、(殻を破るのをあきらめて)脱出させてきたのではないか、と指摘してきたのではないか。

この指摘を多少なりとも支持してくれそうな記事をランドル・ラウザーが書いている。
Christianity Today and its Ironic Tribute to Rachel Held Evans
Rachel Held Evans didn’t “usher the vulnerable into her doubts”. Rather, she gave them permission to be honest about the doubts they were already having. In a world where Christians like Mr. Stonestreet are ever ready to censure hard questions and honest doubts with the stentorian warning of “grave error”, Rachel Held Evans invited others to learn from her struggles so that they could work through their own.

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