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2025年8月16日土曜日

原爆投下の倫理性

ちょうど8月15日の敗戦日に近いこともあったのか、オックスフォード大の倫理学教授ナイジェル・ビガー氏が80年前の広島と長崎への原爆投下の倫理性についてコメントしているのを目にした。



過去ビガー教授は原子爆弾投下の倫理性を否定していたようだがツイートにあるエヴァン・トーマス氏の『The Road to Surrender』を読んで見方を変えたのだという。(ヤフー・ニュース

Which of these hypotheses best fits the facts of the bombing of Hiroshima and Nagasaki is a matter of historiographical controversy. When I last wrote on this topic — to mark the 70th anniversary in 2015 — I said this: “For what it’s worth, my own amateur impression is that … the intention in dropping the bombs was more ‘political’ (or terroristic) than military. If that is so, then they shouldn’t have been dropped.” Now, however, having read Evan Thomas’ detailed account of the decision-making processes in both Washington and Tokyo (Road to Surrender: Three Men and the Countdown to the End of World War II [London: Elliott & Thompson, 2023]), I’ve changed my mind.

ビガー教授ほどの人が見方を変える本とはどんなものなのだろう、とまず興味を覚えた。

意外だったのはビガー教授が原爆投下に至る「意思決定」の倫理性に限定して「見方」を変えたらしいことだ。

1945年当時の米国大統領の意思決定の倫理性の是非を論じること自体には異論はないが、戦後70年、80年を経過する中でそのような限られた文脈でだけ論じるだけでいいのか、それで倫理学教授としての意見表明は済ませられるのか、というのが私が抱いた率直な違和感と疑問点だ。

何かもっと広い文脈で論じられるべきではないか、そのような文章はないだろうか、と少しネットを探していて見つけたのがこの記事だ。
Can nuclear war be morally justified?

記者はリチャード・フィッシャーというBBCの人らしい。

フィッシャー氏は原爆の問題を広く扱おうとしている。その一つの要因は日本の哲学・倫理学者である森岡正博氏が提唱する「死者・被害者の視点」である。

またフィッシャー氏はモーラル・ファウンデーションという用語を紹介して、個人の倫理判断が異なる倫理基準に左右されることを指摘している。

people’s “moral foundations” – how they decide what is right and wrong – are more complex, and crucially, differ according to background, culture and political ideology.

All this suggests that it’s impossible to answer whether the use of nuclear weapons is inherently right or wrong – whether they should be taboo or allowed under some circumstances – because it depends on the moral framework of the individual.
最後に現段階での原爆の規模から考えて、「戦争終結遂行に適しているかどうか」次元の問題から、人類滅亡可能性を左右する段階になっており、根本的な実存に関わる問題として捉えるべきことを指摘して記事を終えている。
“We stand poised on the brink of a future that could be astonishingly vast, and astonishingly valuable,” Ord writes. Yet our power to destroy ourselves – and all the generations that could follow – is outpacing our wisdom. In Ord’s view, the morality of nuclear war looks quite different if you consider it as an existential, species-level threat, rather than through the lens of national conflicts.
いずれにしても原爆についての議論は投下と被爆の当事者国ではかなり開きがあることは無理からぬことだろうが、原爆の道徳性を論じるには広い視野が求められるのではないかと感じている。

【追記 2025/8/19】
こちらの元記事をご覧になるとコメント・セクションも読めます。書いているのは(予想通り)ほぼ全員男性のようです。戦いについて議論するのがジェンダーで差があるのは何か理由があるのだと思います。

2018年5月31日木曜日

(5)ジョン・T・ヌーナン(1926-2017)

散歩のときに講演録など音声ファイル(mp3フォーマット)を聞くことは前に何度か書いた。

  (5)ペテロの役割(マーカス・ボックミュール、オックスフォード大教授)  

  (5)現代の英語圏神学者④、ジョン・B・コッブ Jr.

そんな流れで、最近聞いた中で「一番面白かった」ものを紹介したい。 

 

米国ジョージア州アトランタにあるエモリー大学はメソジスト派の大学でデューク大や南メソジスト大と肩を並べる有名校だ。

そのエモリー大の神学部(キャンドラー神学校※)の『マクドナルド・レクチャー』に2002年招かれて講演したのがジョン・T・ヌーナン(John T. Noonan, Jr.)合衆国連邦控訴裁判所判事だ。(彼は第9巡回裁判所判事という肩書きだが、ややこしいことは置いておく。)

※「神学校」はセミナリーの訳として定着している。それに対し大学院の神学部(ハーバードやデュークだとディヴィニティ・スクール、エモリーや南メソジストだとキャンドラー・スクール・オブ・セオロジー、パーキンス・スクール・オブ・セオロジー)は多少性格が異なる。しかし筆者は大抵の場合それらの学校をセミナリーの意味で「神学校」と訳している。しかし日本ではそのような事情が余り知られていないためか、セミナリーと名がついている学校まで(筆者が行ったアズベリーやプリンストンなど)わざわざ「神学大学院」と訳す方がいるので違和感を感じるのだ。

ヌーナンはカトリックの信徒で、判事としての長いキャリアと共に、大学の法科大学院(ロー・スクール)でもカリフォルニア大バークリー校やノートルダム大で教鞭を取り、法学関係の著作も多い。

その『マクドナルド・レクチャー』は2002年の10月28日~31日にかけて計4回行われたが、「イエスと道徳の専門家たち(Jesus and the Masters of Morality)」と題して

(1)「イエスと裁判官(Jesus and the Judges)」

(2)「イエスと銀行家(Jesus and the Bankers)」

(3)「イエスと姦淫の女(Jesus and the Adulterous Woman)」

(4)「イエスと女奴隷(Jesus and the Slave Girl)」

の順になされた。

ヌーナン講演の面白さは何と言っても「法律家・判事」の専門的知識・関心がいかに(資料である)新約聖書(福音書)を「丹念にセンシティブに」読ませるものか、と云うところにある。

筆者のように牧師としてある程度聖書を研究もし時間をかけて読んでいるつもりでも、イエスの教えに関わる制度的なこと(婚姻、利子、奴隷など)は「背景的なこと」として持ち合わせの一般的・常識的知識を前提に読み過ごしやすい。

しかし、ヌーナンは当時の制度がどのようになっていたのか、そして社会的弱者たちがそれら制度の陥穽にどのようにはまって苦しんでいたのか、その状況を克明に浮き彫りにしようと「行間」まで読むのである。

その究明のプロセスでは、自身の法律的知識はもとより、広範な歴史や神学の知識を総動員させる。その徹底した究明の仕方に、人のいのちや運命を左右する法律家・判事としての凄みを感じる。

詳細は紹介できないが、是非4つの講演を聴いてみる事をお奨めしたい。

※音声ファイルは
から入手できる。(もちろん無料だ)

2017年5月11日木曜日

(4)第6回 日本伝道会議 2

先日アップした(3)救いについての「教理」でもイントロに書いたのですが、昨年の「第6回 日本伝道会議」 の「事後報告その1」を書いた後そのままになっていました。

その続きを書こうと思うのですが「紀行」としての続きはあきらめて、「救いの教理」について書いた流れを受け、「義認論ノート」として書いてみます。

「ライトの義認論」をめぐる神学討論会のために下準備として読んで「メモした材料」が色々あるのですが、なかなかまとめて紹介するのは骨が折れるので、「義認論ノート」として小出しで発表しようと思います。

と云う構想はかなり前からあったのですが、(そしてある程度までは書き溜めたのですが)、たまたまその呼び水みたいな文章を読んで、ようやくアップすることにしました。


以上が「序」とでも言うべき部分です。

次に「イントロ」が待ち構えています。
経緯と云うものがあるので即「義認論」にはまだ入れないのです。残念ながら・・・。


(1)5月27日のライト読書会
の案内をブログにアップしたばかりなのですが、今度読むライトのテキストは

A Royal Priesthood?
The Use of the Bible Ethically and Politically
A Dialogue with Oliver O'Donovan

に入っているのですが、この「Royal Priesthood」論集はちょうど3年前に購入してブログでも記事にしていました。

この「Royal Priesthood」繋がりで、ジョン・ハワード・ヨーダーの
The Royal Priesthood: Essays Ecclesiastical and Ecumenical
を同じ時に購入していたのです。 

と言うか、こちらの方が「ヨーダー読書会」のテキスト用に必要で購入したわけでした。
そして「最初に紹介した方の論集」はRoyal Priesthood」繋がりでついでに購入したのでした。

ヨーダーのThe Royal Priesthood、はその後読書会で少し読み進めたのですが、まもなく読書会自体がストップしてしまい積読状態になっていたのです。
 

先日、5月のライト読書会の準備も兼ねて、Royal Priesthood」繋がりで「ヨーダーの方の論集」を少しページをパラパラやっていたら・・・「義認論」関連の箇所に出くわしました。
Few assumptions have been more widely shared in Protestant thought than the identification of the messages of Paul and Luther with the promise of a new hope for the individual in his subjectivity. Luther in his rejection of the cultural religion of the Middle Ages, ..., raised as his banner the pro me of the forgiven sinner. That God is gracious to me is the good news that Zinzendorf, Wesley, Kierkegaard, and today both Rudolf Bultmann and Billy Graham ... have derived from Luther and have labored to keep unclouded by any effort to derive from it ... a social program or any other human work. To safeguard the pure gratuitousness of grace, any binding correlation with human goals or achievements must be studiously kept in second place.
     This assumption ... is now being dismantled under the impact of the exegetical theology of this century. ... Today such scholars as Markus Barth and Hans-Werner Bartsch are finding as well even in the writings of Paul, yea even in Galatians and Romans, a hitherto unnoticed dimension of community extending even into the meaning of such words as justification. (P.73 下線は筆者)
この論文の初出は1967年ですから、まだ「サンダース、ダン、ライトらの名前が登場するNPP論争」が始まる前です。

(もっともクリスター・ステンダールの『The Apostle Paul and the Introspective Conscience of the West』は1963年ですが・・・。)

前段落では、ルターの「福音の再発見」が極端に個人的・主観的なものであり、それがジンゼンドルフ伯爵、ウェスレー、キルケゴール、そして不思議な縁(?)ですが、(20世紀を代表する聖書学者)ブルトマンと大衆伝道者ビリー・グラハムに受け継がれている、と指摘しています。

ヨーダーにとっての問題関心は、この「極端に個人的・主観的信仰」を純粋に守ろうとするばっかりに「倫理的側面、社会的な脈絡」を切り離してしまう傾向なのですが、(次段落では) 近年のパウロ研究(釈義学)がこの主観的信仰の土台とも思われた「義認(justification)」にまで「共同体」のニュアンスが含まれていることを見出し始めている、と指摘しています。

この「義認(justification)」への適用に関してヨーダーは「イエスの政治」(1972年)で展開している議論を参照するよう脚注で述べていますが、確かに第11章「恵みによる、信仰による、義認」でこの新しいパウロ研究の視点を紹介しています。

「イエスの政治」を購入して読んだ当時はこのあたりの論争点にはまったくと言っていいほど無知でした。
We could in fact most properly say that the word "justification" ... should be thought of in its root meaning, as a verbal noun, an action, "setting things right," rather than as an abstract noun defining a person's quasi-legal status as a result of a judge's decree. To proclaim divine righteousness means to proclaim that God sets things right; that it is of his nature and the nature of his covenant that he is a right-setting kind of God. (P.229)
と、かなりライトの「義認」解釈と重なると言うか、むしろライトが改革派神学との整合性を保持しようとするニュアンスがあるのに対して、「共同体」ニュアンス方向に舵を切っている印象です。 

(2)マーカス・バルトの義認論
(この続きに関しては「義認論ノート」で、次の機会に・・・) 

2016年7月29日金曜日

今日のツイート 2016/7/29

数日来この事件(相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」殺傷事件)についていろいろ考えていたところだ。



連ツイの最後三つだけを紹介したので、文脈を補足すると、この記事に対する批判の必要を感じてのものであることが連ツイの初めに断られている。

筆者の方の「いろいろ」の一つは、事件の重大さ・深刻さを鑑みて速やかに表明されるべき(であった)「アラーム(覚醒)」が明瞭に出なかった、ということ。

事件を起こした個人の特殊状況その他を考慮に入れても、今回の事件が「人間の尊厳」に対する挑戦であることは免れないだろうからだ。

しかしその面に関しての「アラーム(覚醒)」は海外のメディアの方が速かったように思う。

フェイスブックではある「ドイツ在住日本人」女性の方の投稿がこの面に注意を向けるようアッピールしていた(と記憶する)。


かつて『酒鬼薔薇事件』のときであったか、「なぜ人を殺してはいけないのか」に「どのように答えたらいいのか」という問いが立てられた。

学校その他で「いじめ」によっていのちがなくなると「かけがえのないいのちを大切にしましょう」と繰り返される道徳訓のひ弱さ。

直接には繋がりはないが、「いのち」や「人間の尊厳」を根底で支える教えを道徳的権威とともに言明することが躊躇われる何か、が背景の一つのように思われるのだ。

あるノーベル賞作家が、その理由を「人間として守るべき暗黙の了解」のような道徳的価値観(大前提)を「口にしなければならないことへの恥ずかしさ」のようなものを表現していたように思う。

(道徳的であるべき)「人間はそこまで退化してしまったのか」、「そのような悪びれもせず人のいのちを奪うことの出来るような人間を社会は生み出してしまったのか」という改悛に沈んだまま沈黙してしまいたくなる敗北感・・・のような。

そんなムードが感じられた。

今回の事件に際して人々の心の中にある「道徳感度計」が何度を表示するか、「道徳針(モーラル・コンパス)」が何を指すか、はまだまだ見守る必要があるのだろう。



2016年1月13日水曜日

(3)教養の危機かなー

ここ1-2年、ツイッターのTLを眺めながら通奏低音のように響く問題の一つが「教養の危機」ではないだろうか。

グローバリゼーションが叫ばれ、「国際競争生き残り」が至上命題みたいに印象づけられる中、大学の「一般教養」がどんどん解体され、実学志向が明瞭となり、「哲学いらない」「文学いらない」「人文科学もいらない」風になっているようだ。

人文科学って「ヒューマニティー」ですよ。
人を人たらしめる精神的伝統を軽視するんですか。
といっても西洋ルネサンスの態度を、文化を明治期に輸入しただけ、といやそうなのかも知れませんが・・・。

 

今日はたまたまこの本の書評がツイッターで紹介されていた。

[2016/2/28追記 シノドス・ジャーナルで著者の音楽ジャーナリスト・菅野恵理子が「ハーバード大学は『音楽』で人を育てる――アメリカのトップ大学が取り組むリベラルアーツ教育」と題して短い紹介記事を書いている。]

翻って日本の大学は、実学中心へと方向転換しつつあり、「文学部不要論」まで出る始末だ。けれども、ビジネスや外交の場において信頼や共感を得るにも、教養に裏打ちされた人間的魅力は不可欠だと思う。
評者の松村由利子さんは元新聞記者の歌人だ。

「教養の危機」に対するささやかな抵抗を込めたコメント、と受け取った。

さらに以前このブログで取り上げた北川東子氏の教養についての文章を再読したが、「教養の危機」はやはり深まったように思う。
私のセンサーがとらえた兆候のどれもが、「二一世紀的教養」とは、国際的な破壊の流れのなかで生き延びていくための人類的な智慧のことであり、あるいは少なくとも、この智慧を可能とする知的戦略であることを暗示している。

昨年「イチオシ」で取り上げた水村美苗『日本語が亡びるとき』も、インターネット・英語連合軍というグローバリゼーションに対する日本語・日本文学という土着教養伝統の危機を警鐘し、防衛戦略を提示するものであった。


段々組織的な抵抗を考えていかないとなー・・・。

2015年12月10日木曜日

(5)現代の英語圏神学者③、ディヴィッド・ガシー

このシリーズ、スタンレー・ハウアーワスに続いて、二回目にクリスチャン・ワイマン取り上げてから数ヶ月が過ぎました。

[ 2016/5/26追記 があります。スクロール・ダウンしてください。]

日本ではほぼ無名でもそれなりにネーム・バリューのある方は沢山いるわけですが、あえて「福音派」の中で、油が乗っているような方を早めに取り上げようと思い、このたびの選択になりました。

ディヴィッド・ガシー(David P Gushee

は、現在マーサー大学「神学と公共」研究所所長でキリスト教倫理学教授です。
キリスト教倫理学の諸問題やテーマを扱った著書も20冊ほどあるようです。

最近の動向としては、LGBTQ問題に対して福音派としては進歩的なスタンスをいち早く鮮明にしました。

またブッシュ政権下での「拷問」に対しても福音派として最初に抗議の声をあげ5 Reasons Torture Is Always Wrong、クリスチャニティ・トゥデー誌、2006年2月)、その後も人権関連の諸問題と取り組んでいます。

また、北米聖書学会(SBL)と同時開催される全米最大の北米宗教学者・神学者団体、アメリカ宗教学会(American Academy of Religion)で今年副理事長に選出され、福音派の背景を持つ指導者として重要な立場にいます。

と言ったところは、この記事を書くためにネットでちゃちゃと調べた感じてすが、彼を最初に「レーダー」に感知したのは以下の動画でした。

ホィートン大学の神学会義(毎年開かれる)で、2013年は「キリスト者の政治行動(ポリティカル・ウィットネス)」がテーマで、ガシーもハウアーワスやマーク・ノルらとともに講演者として選ばれました。



この講演の冒頭で、プロテスタント福音派が「社会倫理」を議論する土台となる(権威ある)神学的伝統(教説や理論)がないことを指摘している。(カトリックの社会教説やプロテスタント・エキュメニカル陣営と比較して)

いわばちょっとした「キリスト教社会倫理・概論というか入門」となっている。(なかなか手際がよい)

とにかくこの動画でなかなか感銘を受けたのでした。

というわけでこの動画を入口に、ガシーが福音派として「社会倫理」「政治倫理」をどう構築しているのか、というのがちょっとした関心です。


2016/5/26追記
 ガシーの邦訳書の類はないだろうと高をくくっていたらありました。
 グレン・H・スタッセン/デービット・P・ガッシー『イエスの平和を生きる -激動の時代に読む山上の説教-』(出版社: 東京ミッション研究所)・・・教文館の方のリンク。
 

原書はKingdom Ethics: Following Jesus in Contemporary Contextみたいですね。

2015年11月26日木曜日

(4)『霊性』を神学する 1

昨今「霊性」とか、より一般的には「スピリチュアル」とか、すなわち人として生きるときの「内面的生活」の充実が宗教的な伝統から省みられる動向がある。

教会に通う信徒の場合はそれほど意識しなくても、なにがしかの自覚はあると思う。

さらに「熱心なキリスト者」の場合はこの取組みをより自覚的に追求する。聖書を読んだり、祈ったり、いろいろ霊想書を読んだり、いわゆる「デボーショナル」と呼ばれる「個人的敬虔」を訓練するわけである。

筆者はプロテスタントの中で「パイエティズム」と「リバイバリズム」の伝統の強い流れの中で信仰を育まれたのであるが、この年になってその「内面的生活」が様々変化してきたように思う。

どちらかといえば「変わらない」ことが望ましいのであろうが、変化についても積極的に評価できる場合があるのではないかと思う。

そんなことを反省するために、極めてランダム(そしていつもの如く気まぐれにであるが)随想的に「内面的生活」の神学的反省を綴ってみたいと思う。

名付けて「『霊性』を神学する」

別に参考とする本や人物もない。ただこれまでの体験的蓄積を基にして書きつけていこうと思う。(その中には多分に読書や人物観察からくるものがあるだろうと予想する。)

第一回目は「霊性」の定義について。

思いついたポイントは、二千年の教会史の、その時代・時代の異なる(模範的あるいは典型的)「キリスト者生活」をどのようにすれば概観できるか、という問いから出てくる「霊性定義」の問題、を取り扱おうと思う。

※以上のことから明らかなように、この「神学」的よれよれ文章は試論も試論、いや試論の序論程度のものであろう。恐らくその域を出ることは先ずない。

さて、霊性をどのように定義したら二千年の様々なスタイルのキリスト者の内面的生活を、一つの視点から眺めることができるだろうか。

念頭にあるのは4世紀、キリスト教が国教となり「殉教者」という「理想」が非現実的になったときに出てきた「砂漠の荒野への隠遁」による「修道生活」を一方の極に持ち、もう一つの極に宗教改革後の「万人祭司」神学による「世俗内召命」、すなわち「職業従事それ自体が神への奉仕である」という、二千年の歴史の中で二つの対極的なアプローチを眼下に納めるという課題である。

それで試みに、霊性を次のように定義してみることにする。
霊性とは、「生活の深みに達する実践的宗教の訓練(ディシプリン)」のことである。
これを用いて「教会史的発展」を順を追ってまとめると以下のような概略が得られる。
(1)垂直的(神への信仰)なものと、水平的(隣人への奉仕)なものとが「固く噛み合っている(分離していない)」あり方・・・モーセの十戒、トーラー・律法、預言者の社会正義観、山上の垂訓、「律法の要約」、などに現れているものと捉えることができる。
(2)修道的生活、瞑想、神との合一
(3)神秘主義、観想的生活
(4)奉仕と宣教の修道(フランシスコ)
(5)脱修道、宗教改革者ルター
(6)世俗内禁欲、職業の宗教化(カルヴィニズム)
※およそラフスケッチなので、これから論をどうするかまでは考えていない。そのうち展開が見えたら続きを書くことにしよう。

2015年7月30日木曜日

(5)ジャック・エリュール

エングルウッド・レヴュー・オブ・ブックス、という「ネット書評誌」がある。

ツィッターでフォローしているのだが、ときどき「無料」「ディスカウント」の電子書籍案内があるので目が離せない。

先日、たまたま、(今やすっかり過去の人となった観のある)ジャック・エリュール著作入門編みたいな号(2015年5月22日)があったので、いつかブログにアップしようと思っていた。

以下のリストはこの号で紹介している順。

1) The Technological Society

やはり一般的には彼の「代表作」となるのだと思う。筆者もアズベリー神学校での「社会倫理セミナー」で『リコンビナント遺伝子の倫理的問題』を小論文にしたとき、「科学技術」に対するキリスト教思想の一つのアプローチとしてこの本を読んで大いに学ばせていただいた。

2) The Presence of the Kingdom 

残念ながら議論の筋は大方忘れてしまったが、「現代」の政治的・社会的状況でいかに福音を生きるか、その霊的洞察をチャレンジするような書き方だったと思う。

3) The Subversion of Christianity

4) Understanding Jacques Ellul

5) The Meaning of the City

6) Anarchy and Christianity

7) The Humiliation of the Word

5)は『都市の意味』の邦題で出ていたと思うが、他の著作もそうだが、エリュールの著作は半ば聖書神学であり、しかしさらに神学的メディテーションという印象がある。

このリストにはないが、筆者が勝手に「政治」三部作と呼ぶ、『技術社会』『プロパガンダ』『政治的幻想(ポリティカル・イリュージョン)』 などを読みながら感じるのは、現代社会に対する悲観主義的分析、とそれに対する「キリスト者の抵抗」の姿勢のようなものだ。

特に『技術社会』の「テクニーク」の捉え方はかなりユニークで、「デモニッシュなあらわれ」が問題視されていたと記憶する。

だから技術を中立に捉え、道徳的判断が左右する・・・みたいな問題設定にはなっていなかったと思う。

とにかくエリュールは英語圏でもそれほど重要視されていなかったと思うし、日本でもそれほど紹介されてこなかったように思うが、依然として魅力的なキリスト教思想家だと思う。

《補記》   

エリュールについて以前何か書いていなかったかな、と調べてみたら、主に神学ブログ⑦(大杉牧師のブログ)で少し書いていた。

2015年6月28日日曜日

(3)主に神学ブログ⑨

さてさて、昨日は米国で「同性婚」に関する最高裁の判決が出された。

このブログの読者はキリスト教関係の方が多いだろうと思うので、しかも「福音派」と呼ばれる立場の方が多いと思われるので、戸惑ったり、気が重かったりしていることと思われる。

(※ステレオタイプに理解されると多少不本意なので断っておくと、この問題は複雑で難しい要素があり、単純に喜んだり、腹を立てたりできないものと思う。)

この「主に神学シリーズ」を始めて気になっていたことがある。

それは「女性」の神学ブログをなかなか紹介できないでいたからである。

そう言うことで今回初めて女性による「神学」ブログをシリーズに加えることがほっとしている。


地の果てまで福音を

はKinukoさんによるブログだ。

どのような方かはよく知らないのであるが、どうも翻訳をなさっているみたいだ。

かなり頻繁に更新なさっている。

そしてカバーするトピックはかなり限られている。(殆ど遊びのような記事は見当たらない。)

特にパウロ書簡(Ⅰコリント11章1-16節)の「かぶりもの」について、驚くほど丁寧に追求されている。

「主に神学」という基準からいうと、まさにこの問題を聖書解釈、歴史神学、実践神学、と多角的に検証している点が素晴らしいと思う。


さて、冒頭アメリカ最高裁判決のことを持ち出したが、「性」「ジェンダー」をめぐる考え方や態度の混乱が続いているが、日本のキリスト教会においてもこれらの一連の問題に対する対応が緊急性を帯びて迫ってくるのではないかと思う。

筆者の見たところこのブログの立場は「保守的」、いやかなりの人は「超保守的」と捉えるのではないかと思う。

しかし、読んでいくうちに気がつかれると思うが、様々な検証の上に、このような立場を選び選択しようとする態度は、反対の立場の人にも理解されるのではないかと思う。

2015年5月17日日曜日

(5)リチャード・ヘイズ日本講演、3

最初に整理しておきます。

東京説教塾が主催した、2015年4月27日(月)に、キリスト品川教会で持たれた、デューク大学神学部神学部長リチャード・ヘイズ教授の二回の講演についての報告をしています。

今回で東京説教塾分が終わり、その後立教大学キリスト教学研究科での公開講演を報告します。

※講演後に知ったのだが、リチャード・B・ヘイズは、来年神学部長を辞し、サバティカル休暇後教授に戻るとのこと。デューク大学ウェスレー/メソジスト研究者マドックス教授が次期学部長選対委員会を率いる。(デューク大学広報


ヘイズ日本講演、1・・・「信仰のまなざしをもって聖書を読む: 神学的釈義の実践」の前半
ヘイズ日本講演、2・・・「信仰のまなざしをもって聖書を読む: 神学的釈義の実践」の後半

そして、今回「日本講演、3」は、「この世界を覆す:よみがえりを説教する(Turning the World Upside Down: Preaching Resurrection.)」について報告します。

どうやら下になっているテキストは、
Chapter 14. The Resurrection of the Body: Carnis resurrectionem (Roger E. van Ham, Exploring and Proclaiming the Apostles' Creed, pp.260-272)
のようです。

タイトルから分かるように、使徒信条についての本です。

目次を「グーグル・ブックス」でご覧くださると分かりますが、信条の各項目ごとに寄稿者が「解説」と「説教」を書いています。

ヘイズは「からだのよみがえり」の「解説」の方を担当したわけです。

出版年は2004年ですから、少し古いですが、今回のテキストはそれを大きく2点改変しているようです。

(1)「からだのよみがえり」の理解を困難にする「復活」の概念を解説する部分がイラストレーションを入れたりして拡張しています。


上掲書では、By raising the man Jesus、で始まりますが、今回のテキストにはテッド・ウィリアムスと言う有名な野球選手が遺書に残したと言う、「死後身体蘇生」についてのエピソードが冒頭に置かれています。
(ヘイズが言及したボストン・グローブの記事ではありませんが、それから10年後のこの記事にも遺体の冷凍保存などについての経緯が書かれています。)

実際にテキストがないので比較はできませんが、「復活」概念に対する理解の混乱は、
 (A)一方でキリスト教会の中に連綿として受け継がれてきた「死んで天国へ行く」式の非身体的(たましいだけの)永世観があり、
 (B)もう一方では科学的世界観から来る「物質主義」の影響がある、
と指摘します。

※あるいはヘイズはこの時点では、N. T. ライトの、The Resurrection of the Son of God (2003)、はまだ読んでいなかったのかもしれません。

※ちなみに、この講演後の質疑応答でのことですが、復活の身体性についての質問と応答(ヘイズは第一コリント15章の『肉の体』と『霊の体』の対比も使って説明しようとしたが、通訳もポイントを拾いきれなかった印象)後、聴衆に向かって、Do you know N. T. Wright, his Surprised By Hope?と問いかけ、(ほぼ無反応の聴衆に向かって)It needs to be translated.とアッピールして、この辺の理解の混乱に関しては、ライトと彼の復活に関する本が必読であることを指摘した。 

(2)復活の行動化
上掲書は「説教」が別に組まれているので、「解説」までで終わっているようだが、今回のテキストは「実践」として「復活」を教会としてどのように「行動化」するか、と言う課題と取り組んでいる。

最初にウェンデル・ベリーの「Manifesto: The Mad Farmer Liberation Front」と言う詩の最後の部分を引用する。
As soon as the generals and the politicos
can predict the motions of your mind,
lose it. Leave it as a sign
to mark the false trail, the way
you didn't go. Be like the fox
who makes more tracks than necessary,
some in the wrong direction.
Practice resurrection.
ベリーのゲリラ的と言うか、対抗的と言うか、抵抗運動の実践を「復活行動化」と意味ありげに呼んでいるもののニュアンスを、ヘイズは以下のような『(復活と言う将来的なものを今に)体現化』するものとして:
 1. 平和作り
 2. 持ち物の共有
 3. 和解の食卓
を提案する。


これらの復活に基づく(規範習慣的)行動(practices)は、(主に)使徒の働きのナラティブから、「対抗的共同体」の性格として位置づけられる。

論述しないが、ジョン・H・ヨーダーの『社会を動かす礼拝共同体』倫理学に、ライトの「新創造」を付加したような味わい、と言った印象のものだ。


まだまだ「試論」あるいは「素描」の印象だが、(恐らく)ヨーダーやハウアーワスらの倫理学的洞察を透過しながら提示されたこれらのシンプルな「習慣」が、復活を体現する教会としてのアイデンティーティー・マーカーとして『現実』に切り込んで行く時に、その真価を発揮する・・・ということのようだ。 



余り助けにもならない報告かもしれないが、今回はここまで。 

2015年4月13日月曜日

(5)現代の英語圏神学者①、スタンレー・ハウアーワス余録・続(完)

思わぬ展開で、『余録』とその『続編』と言うおまけが付いてしまった。

余り関心のない読者にはマニアックな話題かもしれないがご容赦を。


今回、完結編ではハウアーワスとヨーダーの関係を取り上げる。

現在中断しているのだが、3年ほど前から出席している「ヨーダー読書会」を通して、The Politics of Jesus、を始め何冊かヨーダーの本を読んでいる。

ヨーダーについては、そう言うわけで、「進行中の人物」でもあり、また「(既に故人であるが)渦中の人物」でもあるので、この記事であまりあれこれ書くことは控えたい。

今回はただハウアーワスとの繋がりで浮上する幾つかの「点と線」について・・・。


ご存知のように、ハウアーワスはヨーダーとともに平和主義者であり、ハウアーワス自身は合同メソジストのメンバーでありつつ、神学的スタンスはメノナイトの伝統から影響を受けている。

ハウアーワスの平和主義神学に最も大きい影響を与えているのがジョン・ハワード・ヨーダーと言って差し支えないと思う。

・・・以上は「点」について。


20世紀の北米「神学と倫理」シーンにおいて、一個人が「平和主義者」であるか、それとも「義戦(正戦)論」に立つ、あるいは「現実主義」に立つ「戦争容認者」であるかは到底「イデオロギーを巡る対立的立場」で済まされる話ではない。

以下に紹介するハウアーワスの師匠(メンター)であった「ポール・ラムゼイ誕生100年記念」パネル・ディスカッション動画にある通り、多くの者たちは「平和主義者」として青年期を過ぎた後「現実主義者」に転向する(せざるを得ない)、と言う曲折を歩んでいる。


※3人のパネラーが、最初、三者三様の「ラムゼイ回顧」をするが、ハウアーワスがラムゼイ若かりし頃の「平和主義」シンパのエピソードを語っている。
 次に「平和主義者」だったジェフリー・スタウトが、イェール大神学部時代にラムゼイの本を読んで自身の平和主義理論武装を「ぶっ壊された」エピソードを紹介している。
※このスタウトの回想スピーチには、アカデミックな世界の人間模様についてかなり赤裸々で感情的なエピソードが含まれていて、幾らか内部事情を知っている者にとっては思わず「胸キュン」となる。筆者が見てきたユーチューブ動画の中でも「ベスト5」に入る内容豊かな一本。秘蔵版だ。

このスタウトの回想後、ハウアーワスが補足を継いでいる部分(35分40秒過ぎ)にヨーダー絡みのものが入っている。

ヨーダーが「キリスト教倫理学会」会長を務めていた時(1987-88)、晩餐会で「To Serve God and Rule the World」と題した(黙示録からの)会長スピーチをした。

ポール・ラムゼイが一緒に席についていたハウアーワス夫妻に、That man was hiding his light under a bushel. と評するコメントをした。

義戦論者で学会の重鎮であり、もう死期も近づいていたラムゼイが平和主義者ヨーダーへの賞賛の言葉として語ったこのコメントが、ハウアーワスには格別思い出深いものだったわけだ。

※ポール・ラムゼイ(Paul Ramsey)については神学遍歴⑨をご参照ください。
ちなみにそこで言及した「・・・デューク大学に寄贈された『ポール・ラムゼイ・コレクション』・・・」について、この動画でハウアーワスがその消息を紹介している。何とプリンストン大学も神学校も寄贈に応じなかったのでデューク大が頂いちゃった、とのことだ。へえー、そんなもんか・・・である。


議論を待つまでもなく、ヨーダーの神学的遺産はやはりThe Politics of Jesusなのだろう。以下にそのテーゼが要約されているように、イエスの倫理と教会論が一体となったキリスト教倫理へのアプローチは当時はユニークで画期的なものであったと言えよう。
His thesis, simply put but thoroughly and eloquently argued, was that Christian ethics begins not by finding ways to set aside the radicalness of Jesus' ethics, but rather by finding ways in community to take those ethics seriously. In other words, the church is to bear the message of the gospel by being that message.... (Mark Nation, John Howard Yoder: Mennonite Patience, Evangelical Witness, Catholic Convictions, p.25. からの引用。元はDavid Weiss, "In Memory of John Yoder...")
ヨーダーのインパクトは最近邦訳されたリチャード・B・ヘイズ『新約聖書のモラル・ヴィジョン』の


第3章「キリスト教倫理に対する史的イエスの意義」などでも取り上げられていますが、N.T.ライトとの関わりについては以下のように述べています。
 第3点ですが、ライトの研究にとって、イエスの関心を現実の世界史の中につなぎ止めることは本質的に重要です。ライトによれば、イエスが思い描いていた未来は、この世界から遊離した天国における彼岸的運命ではありません。それは、イスラエルの民の、この地上で継続する生における具体的な政治的未来なのです。
 その他の点でもそうですが、この点においてライトの構想は、ジョン・ハワード・ヨーダーが『イエスの政治』で描いた描写と深く結びついているように思われます。興味深いことにライトは、ヨーダーについて特に論じているわけでも、彼と対話しているわけでもないようです。(106ページ)
さてヘイズのこの観察にコメントするというよりも、ライトとヨーダーのアプローチに関する大雑把な印象として思うことなのだが・・・。

 ご存知のようにヨーダーはカール・バルトのもとで博士をやったのだが、ヨーダーにとっての「倫理」は教義学と倫理学のような関係(バルト)と言うより、もっとイエスの生とその延長と言うアナバプティスト神学的伝統に基づくものだったのではないか。

 その点においてライトの史的イエスの探求が歴史的・神学的・教会実践的総合の中で提示するあり方と、より近い相貌を帯びたのではないかと思う。

 最後にウォルター・ブルッゲマンとの絡みについても一言。

 ブルッゲマンが『預言者』から取り出そうとしている「モデル」は、「教会の文化幽閉」問題に対する批判であり、カウンター・カルチャー志向であったのではなかろうか。

 彼の場合は旧約聖書学者であったため『預言者』が最も有効なモデルとして提示されたのだが、ヨーダーの場合は『イエス(の政治)』の方が当然より高位のモデルとして位置づけられるだろう。
 
 (蛇足だが、ライトの場合は最早『イエスの政治』はモデルではなく、神の国宣教の終末的実現と、聖霊に推進された使徒・教会の遂行となるわけだろう。)


※長くなりました。これにて完。ようやく「二人目の神学者」を物色できます。

2015年3月4日水曜日

(5)現代の英語圏神学者①、スタンレー・ハウアーワス

先の冬季オリンピックでスキー・ジャンプの葛西選手が「レジェンド」と騒がれていました。

普通は存命中はまだ「レジェンド」まで行かないものなのでしょうが、最近では物事の変化が早過ぎるので生きているうちでもどんどん「レジェンド」にしておかないと忘れられてしまうのですかね。

ところで色々連載(中断)中のもあるのですが、今度また「(現代の英語圏)神学者」シリーズを“適当に”始めようかと・・・。

そうですね、かなり偏見と独断による「この人の名前、覚えておくといいかも」と言った感じでしょうか。

中には著書が邦訳されている人もいますが、全然無名に近い人もいるかもしれません。(そこが却って面白いところかもしれません。)

で、トップバッターに選んだのは

スタンレー・ハウアーワス(Stanley Hauerwas)。

日本語で何か紹介しているのを探そうと、「スタンレー・ハウアーワス」で検索したところ筆者が書いたものしか見当たらないではないですか。

なるほど「スタンレー・ハワーワス」に変えたら出てきました。

なかなか日本語表記の問題は難しいですね。
一応英語圏でこの名前を言う時には「スタンレー・ハウアーワス」 の方が幾分近いですよ、とは言っておこう。

※このポストのタイトルもこれで行きます。検索に引っかからなくてもいいや。

ところでなぜハウアーワスがトップバターかと言うと、彼がちょうど旬なのです。

先ごろ(2013年)デューク大学神学部を定年退職なされたのですが、つい先日ハウアーワスが英国スコットランドのアバディーン大学でパートタイムで教えることになった、とアナウンスされました。

大学側の発表はハウアーワス教授を最大級の賛辞で歓迎しています。
つまり彼が来ることでアバディーン大学神学部はワールドクラスと言う箔が付く、と言うことらしい。

さて、これだけのキャリアの人を紹介しようとするとあれもこれも大変なので、ごく私的な紹介に留めます。

筆者が米国留学時からハウアーワスは既に評価されていたのですが、当時は必ずしも幅広く支持を得ていたと言うより、「キャラクター倫理」「共同体倫理」「教会論」等のアプローチをするキリスト教倫理学畑の人として際立っていた印象があります。

しかし筆者の個人的なイメージでは「主流ではなく、アウトロー的」でした。

その後彼が神学者としてアメリカの重鎮となるに従い、皆の見方が変わってきたような印象があります。

彼の神学アプローチの背後にある(神学者ではありませんが)重要な哲学者であるAlasdair MacIntyreも覚えておかなければならないでしょう。

特にマッキンタイアーのAfter Virtueは学際的な影響を及ぼした古典的名著です。


ハウアーワスがノートルダム大学にいた時、マッキンタイアーが同僚だったわけですが・・・。

さてそろそろ長くなってきたので、ハウアーワスがマッキンタイアーについて書いている記事を紹介して終わります。

Alasdair MacIntyre is also a constructive thinker who has sought to help us repair our lives by locating those forms of life that make possible moral excellence. 
(アラスデア・マッキンタイアーはまた建設的な思想家でもある。彼は建徳的指標が備わった「生の営み」がどこにあるかを示し私たちがそれらを再建する助けを提供しようとした人だ。)

(※何か半分はアラスデア・マッキンタイアーの紹介記事のようになってしまった。実はそれも目的だったりして・・・。)

と、終えたはずなのだが、ついでに読んだこの記事が面白かったのでオマケ。
(ハウアーワスの出生に関するエピソードについて。)

There are good reasons for me not to be a Christian. Hannah's Child begins with the story of how I came to be. My mother, who came from dirt poor Mississippi folk, and my bricklaying father married late. They had trouble having a child. My mother had heard the story of Hannah and Samuel, so she prayed that if God would give her a son she would give that son to God. That was a perfectly appropriate thing for her to do, but as I observe she did not have to tell me she had made such a promise. In particular, she did not have to tell me when I was six. That she told me was surely grounds sufficient for me to have nothing to do with Christianity.



2015年2月23日月曜日

(5)マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか、④

前回、マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか、③では、図書館から借りてきたダニエル・ボヤーリンの『ユダヤ教の福音書』3章から、動画では分かりにくかった議論のポイント、特に、『コシェル』な食物規定『浄・不浄』規定、を何箇所か引用しながら多少説明することができたのではないかと思う。

残念ながら、この本は貸出期限が来たので既に返却してしまった。

今回はメモしてあった引用部分を使って、ボヤーリンの議論の筋を大掴みに提示してみようと思う。


(1)パリサイ派は「汚染された適正な食物」に関する規定を拡大し、さらにそのような食物で「汚されないために」儀礼的洗手の慣習を設けた。

 聖書の枠組み(・・・)は、この二組の規則を厳密に区別している。ユダヤ人は適正(コシェル)でない食物を食べなかったが、汚染された適正な食物に関する規則はそれを食べる人の様々な状況に応じて定められており、それを食べる人の身体を直ちに不浄にするわけではなかった。パリサイ派の伝統は汚染された適正食物を食べることの禁令の範囲を広げ、それを食べる者を汚れた者とみなしていたようである。・・・こうして彼らは、手がパンをけがさないために、パンを食べる前に手に水を注ぐ儀礼的な洗手の慣習を設けたのである。(126ページ、強調は筆者)

(2)イエスはパリサイ派のトーラー拡大解釈に対して抗議している。
イエスは人間の身体(腹)の中に入る食物はその身体をけがさないと主張することによって、これに[エルサレムからやってきたパリサイ派が自分たちの拡大解釈したトーラー規定を受け容れさせようとするのに]抗議しているのである。身体から外へ出るもののみが汚染する力を持っている。従って福音書が描いているのは実は、清浄に関する法を、その元来の聖書に固有な基盤を離れそれを超える形でパリサイ派が拡張することに対して、抗議してそれを拒絶しているイエスである。イエスはトーラーの規定やそれに基づく慣習を拒んでいるのではなく、それらを支持し擁護しているのである。(126-7ページ、強調と[]内のコメントは筆者)

既に①で紹介した動画で、ボヤーリンは、マルコ7章1-23節を「一繋がりの文脈」として捉え、パリサイ派とイエスがトーラー解釈とその適用を巡って対立する構図を浮き彫りにして、「イエスは基本的にトーラーを否定していない」ことを論証しようとする。
(これがで整理しようとした「大きな文脈」のことで、まだ解説には至っていなかった。)

ボヤーリンは『ユダヤ教の福音書』3章ではマルコ福音書記者が、当時のユダヤ人の宗教的慣行について詳細な知識を持っていると指摘している。

(※7章3-4節の挿入的説明や、特にその中に出てくる「念入りに手を洗う」と新共同訳ではなっている「念入りに」のギリシャ語プグメイは、意味不明のためRSV=アメリカ標準訳では訳出されなかったほど。ボヤーリンはこの語が、「片方の手を拳に丸め、もう片方の手で洗う」姿を描写したものであり、同語源で「拳を振り上げて怒鳴る」を表す言葉に受け継がれている、と説明している。つまりマルコ福音書記者はユダヤ人の習慣描写に関して信憑性が高く、それ故1-23節のうち一部を後代の挿入であると取るような説明のしかたは不自然であると見ているようだ。)

当然『コシェル』な食物規定『浄・不浄』規定の違いについても弁えている、と見ている様だ。

動画では『コルバン』については果たしてそのような習慣が当時あったかどうかについてその信憑性については保留しているが、「イエスとパリサイ派の対立の構図」を左右するほどものではないと見ているようだ。


さてここまでの説明ではまだまだ不十分だが、長くなったのでまとめることにしよう。

問い:「マルコ7章16節はなぜ『抜けている』のか?」

この問いを立てて動画の内容を理解しようとし、それではなかなか理解できなかったので、『ユダヤ教の福音書』の関連部分を読んでみたのだが、ボヤーリンの答えは、初代異邦人クリスチャンが16節を消し去った、となる。

つまり、異邦人キリスト者は、自分たちがユダヤ人たちの食物規定(コシェル)に縛られず、これまで通り自由に何でも食べられるようにその根拠・権威を「イエスの言葉・教え」に求めたが、15節「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」のイエスの言葉に注目し、それを文字通り、「人の身体に入るもの」を「(すべての)食物」と理解し、それを根拠に、イエスは「すべての食物はきよい」とし、最早コシェル、さらに言えばトーラーは拘束しない、と解釈した・・・と言うのだ。

そうすると、15節はイエスが出した言わば「トーラーからの解放令」のような位置づけとなるが、16節が指示する「たとえ」は15節の明示的な意味を曖昧にしてしまうため「消し去った」、つまり「陰謀」によるもの、ということ。


ボヤーリンの反論は、外堀から埋めるもので、
(1)イエスはトーラーを否定しなかったし、当然コシェルも守っていた。

 もし「すべての食物をきよいとした」(19節が異邦人クリスチャンたちの意図に合致するように訳された場合の意味)が、「最早トーラーは無効になった。(これからは)何を食べても良い。(『コシェル』な食物規定の撤廃)」と言うのがイエスの意図であったなら、なぜ7章前半でイエスは「祖先たちの言い伝え」に対して「トーラー」の権威を主張することが出来ただろうか。(それではイエスは論理矛盾を起こすことになり、パリサイ派に対する論難は意味をなさない。 )

(2)15節は「文字通り」コシェル規定を守ることによって初めて「比喩的」な意味・適用が成立する。

 イエスはコシェルを破るように教えたのではなく、コシェルを遵守するよう教えたからこそ、トーラーの適用範囲を拡大解釈して、トーラーに対して祖先たちの「言い伝え」を優先させる者たちの「心」が「悪い教え」を出すのだ、と言う「比喩的」な意味がなりたつ。

と、短くつづめるとボヤーリンの議論は大体こんな風になる。


さて16節は本文批評的問題から言えば、「16節が本文から除去されたのは、異邦人クリスチャンたちの陰謀による」とは必ずしも言えないように思う。

7章は解釈上難しい問題が様々あり、それらの諸問題を解決するのはなかなか難しい。

一方7章全体の文脈的意味は、「トーラー」対「先祖たちの言い伝え」の構図を捉えればそれほど難しいとも言えない。

15節と19節は、取り方によってはコシェルを否定している(最早食べ物にきよい/きよくないの区別はない)とも受け取れるが、異邦人クリスチャンが仮に「イエスはコシェルを無効にした」と断定するほどには明示的ではないのではないか。

結論としては、ボヤーリンが提示した解釈はマルコ7章におけるイエスのトーラーに対する態度と、特にコシェルに対する態度を考える場合の「可能な解釈の幅」に入るものとして検討に値すると思う。

※長くなりました。ここまでのお付き合いありがとうございました。


2015年2月2日月曜日

(5)マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか、③

さて、ここまで

マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか①
マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか②
とダニエル・ボヤーリンの動画を紹介してきた。

しばらく前、図書館からダニエル・ボヤーリンの『ユダヤ教の福音書』を借りてきた。


既にこの本についてはこの記事で紹介していました。
ようやく手中にしたわけです。

(実はある人との会話で、この本を凄く推薦されたので、購入しようと思っていました。ところがそんな時この動画に出会い、そして購入しようかどうか迷っているうち図書館にこの本を見つけたので先ず借りて読んでみようと思ったのです。)

結論から言うと、「早くこの本を読んでおけば、こんなに悩まなくてよかったのに・・・。」

かと言ってすべての疑問が解けたわけではないのですが。


この動画で解説されていることは、この「ユダヤ教福音書」の(第3章)『イエスは(コシェルを守って)法規定に照らして適正な食物を食べていた』、でより十分に取り扱われているので、その分「なるほど」は増えたましたが・・・。

では先ず肝心な「『コシェル』な食物規定と、それとは別に『浄・不浄』規定がある」と言う指摘の箇所を引用しておきましょう。
 ある食物をコシェル(適正、清浄)と呼ぶことは、(旧約)聖書と後代のラビ文献に照らしてユダヤ人がそれを食べてもよいこと(あるいは食べてはいけないこと)を意味する。・・・ある食材の処理法とそれが他のどのようなものと接触した可能性があるかによって、コシェルであるか否かにかかわらず、どのような場合に食物が清浄であるか否かに関して、別個の一連の規定がある。(123-4ページ、強調は筆者)
引用は長いので、一息つくために中断します。
お読みのように「コシェルを実践しているユダヤ人でないと混乱するような箇所がマルコ7章だ」と言う指摘のようです。

マルコの7章を理解するには、
 『コシェル』な食物規定と、
 『浄・不浄』規定の、
 二つの関連するが異なる規定がある
ことを認識するのが肝心だ、と言うわけです。

筆者ももちろん大してよく分かっていないので混乱したままになっているわけですが・・・。


と言うわけで認識のために、二つの規定のうち、先ず「コシェルとは何か」について記述しているところを引用しましょう。
 一方でトーラーは、決して食べてはいけない様々な種類の鳥や魚や海洋生物や陸上動物の名前を列挙している。
 トーラーはまた坐骨神経を食べること、他の点ではコシェル(適正)な動物のある種の脂肪分の摂取、血を飲むこと、子ヤギをその母の乳で煮ることをも禁止している。
 これらの規制をまとめたものがユダヤ教の食物規定(コシェルの規則)を構成している。
 前記のようにそれらはどこでもいつでもすべてのユダヤ人にあてはまる。(125ページ、強調は筆者)
今引用した部分は、理解のためにわざと改行したのですが、『コシェル』な食物規定
 ①動物の種類、
 ②動物の部位、
 ③処理(調理)法、
の少なくとも3段階で考えられている、と言うことですね。

次に『浄・不浄』規定について説明している部分を引用します。
 浄と不浄ないし汚染[ヘブル語省略] は、これとは異なる生活領域に関わる規則と規制からなる全く別個のシステムで、人間の死体や、人間の死体に触れた後で適切な仕方で身を清めていない人間と接触した様々な物に関する法規と、皮膚病や経血と精液(糞尿は除外)といった体液の流出のような不浄をもたらすその他の原因(これらはトーラーによれば人を「不浄」な状態にするが、道徳的倫理的な非難は招かない)に関する法規からなる。(125ページ、強調は筆者)

さて、この後いよいよマルコ7章、イエスとパリサイ派の論争の「文化・時代的背景」を説明するわけですが、長くなったので次回に譲ることにします。

※またまた終わらなくてすみません。 

2015年1月13日火曜日

(5)マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか、②

さてマルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか①から一週間が経ってしまった。

今回は動画でのボヤーリンの解説を紹介することになっている。
まだ十分咀嚼出来たとは言えないが、「まあこんなもんだろう」的なものに結局なるであろう。


United Bible Societies編のギリシャ語新約聖書では16節を本文から削除しているわけであるが、ボヤーリンは明らかに「16節はもともと本文に含まれていた」との見地から(『陰謀説』を含めた)議論を展開している。

そのことを先ず肝に銘じておく必要があるだろう。

議論・解説は大ざっぱに言うと、2つの部分からなっている。

一つは7章全体(実際は1-23節の部分と思われるが)の受け取り方について。
もう一つは15節と17節を繋ぐべき16節の意義について。

※ボヤーリンは戦略的に「大きな文脈」から自説を展開するが、ここでは「小さな文脈(15-17節)」から見てみよう。

①小さな文脈(7章15節から、17節辺りにかけて)
外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。(新共同訳7章15節)
そして「消えた16節」が続き、17節
イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
では、とボヤーリンは問いかける。
一体「たとえ」はどこにあるのか、と。

ここで16節を見てみようではないか、とボヤーリンは提案する。
聞く耳のある者は聞きなさい。
ボヤーリンは、これが「たとえ」を導入する時の定型句であることを強調する。
それ故ボヤーリンは結論する。「15節はたとえだ。たとえに違いない。」

※さてこれに続く説明が理解に苦しむものとなるので、果たして読者の皆さんを納得させられるか甚だ自信がないが、とにかくやってみよう。

以下先ずはその部分を逐語筆記したたものを提示する。
The literal sense is exactly what it says in the book of Leviticus and the book of Deuteronomy.
A person does not become impure by putting things into the body but by the things that come out from the body.
And then he says, "Let him who has ears to hear hear," which means this is a parable and has a figurative meaning.
 「その後イエスは弟子たちに『まだこのたとえが分からないのか』(と言い)
and he explains, the things that go into the body don't make us impure but the only things that come out to TEACH US SOMETHINGS, namely, to teach us the MORAL and RELIGIOUS POINTS that when we think evil thoughts...when we do evil things, when we speak evil things, that we are behaving in a wrong way.
となっている。

ボヤーリンが言わんとしているのを推理してみると・・・、
(1)(15節の言は)レビ記と申命記にある通りの意味だ。
(しかしイエスのポイントはそこで終わらず、それを梃子にして・・・)
(2)イエスが指摘しようとした比喩的な意味は、(人の中に入るものではなく)人から出るもの・・・人を教える道徳的や宗教的教え・・・が「悪い思い・行い・言葉」となって出る時、それらは間違ったものとなる。

と言う風になっているようだ。

この辺でもうこんがらかってきたので、次回に譲るが、(1)の「レビ記と申命記にある通り」は何を指すのかがちょっと疑問だ。

恐らくレビ記11章、申命記14章の「汚れた動物」とそれに関連する「食物規定(カシュルート)」のことだと思うのだが、その場合
「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
という言はこれらの二つの箇所に「そのままある」のではなく、「字義通りの意味」として、レビ記11章、申命記14章に見られる「食物規定」が指すとおりのものである、と言うことではないかと思う。

補足すれば、・・・おっとこれでは歯止めがかからないのでヤメ。

次回に。





2014年11月6日木曜日

(3)マーク・アムスタッツ『エヴァンジェリカルズ アメリカ外交を動かすキリスト教福音主義』

マーク・R・アムスタッツ
エヴァンジェリカルズ アメリカ外交を動かすキリスト教福音主義』(ヒストリカル・スタディーズ11、太田出版、2014年11月)


はどうやら、
Amstutz, Mark R. Evangelicals and American Foreign Policy (New York: Oxford University Press, 2014).


の邦訳のようだ。


本書がアムスタッツの初邦訳とある。

著者のマーク・R・アムスタッツは、福音派の牙城、ホィートン大学の政治国際関係学部・政治学の教授だ。
この本は彼の最近刊となるらしい。

内容は以下のようになっている。(少し面白そうな章だけトピックを表示)

第1章 キリスト教と外交政策

第2章 福音派の本質と起源
 福音主義の発展
 福音派の信徒を特定するには?
 福音派の台頭とメインラインの衰退
 福音主義の組織化
 将来の福音主義
第3章 福音派のグローバルな展開の起源――宣教活動

第4章 福音派の政治倫理

第5章 福音派とアメリカの対イスラエル外交政策
 聖書とイスラエル
 クリスチャン・シオニズムとイスラエルの建国および維持
 アメリカ人とイスラエル
 福音派のイスラエルへのアプローチ
第6章 福音派と世界の貧困

第7章 福音派の外交政策アドボカシー
 国際的な信教の自由
 人身売買への取り組み
 北朝鮮の人権への取り組み
 スーダン和平プロセス
 HIV/エイズの世界的流行
 福音派の政治的アドボカシーについての予備的結論
第8章 福音派の外交政策アドボカシーの欠陥
 気候変動
 アメリカの移民改革
 強制的尋問と対テロ戦争
 核兵器の削減
 結論
第9章 より効果的なグローバルな関わりへ
 教会の政治関与
 より効果的に政治に関わるための原則
太田出版も翻訳者の加藤万里子も聞いたことがないので、それで調べてみる気になり、今回の記事となった。

日本の福音派系キリスト教出版社ではとても手が出そうもない(?)ものを訳してくれていることになるのだろうか。

ホィートン大学のアムスタッツ教授のプロフィールでは、この本は以下のように説明されている。
His most recent publication is "Evangelicals and American Foreign Policy" - a book that describes and assesses the role of Evangelicals in global affairs.

著者は国際関係の諸問題を倫理的枠組みで捉える研究をしているようだ。
In 2005 he published a study, The Healing of Nations, which addresses the challenges of confronting and overcoming regime human rights abuses.

ホィートン大学の「放送局」でこの本の出版に関してインタヴューしたものがある。

※アムスタッツ教授は自身宣教師の子供として海外で育ち、英語を習得したのは高校くらいからだったとのこと。ホィートン大学ではもうかれこれ40年教えていると言う。

この本が取り上げているのは、外交と言っても、広い意味での(福音主義)キリスト教の様々な海外宣教活動のことで、その観点から「福音主義キリスト者は米国の最初の『国際主義者(インターナショナリスト)』であることを主張しているようだ。
Evangelicals were active in foreign affairs since at least the nineteenth century, when Protestant missionaries spread throughout the world, gaining fluency in foreign languages and developing knowledge of distant lands. They were on the front lines of American global engagement--serving as agents of humanitarianism and cultural transformation. Indeed, long before anyone had heard of Woodrow Wilson, Evangelicals were America's first internationalists.(アマゾンから)
確かにリンクにあるインタヴューでもこの点が本書の強調点である、と言っている。

しかし、宣教師たちの活動が福音宣教とともに様々な人道的社会改善の影響を与えたとともに、植民地的主義的(コロニアリズム)影響ももたらしたのではないか、と言う点についてもインタヴューでは討論している。

もう一つ「イスラエル問題」については、福音主義キリスト者のイスラエル支持が高いと思われているが、さにあらず。米国市民一般のイスラエル支持比率の方が福音主義者のそれよりも5ポイント高いそうである。

また、福音主義者のイスラエル支持の背景に前千年王国説があると言われることがあるが、これも統計資料的には余り根拠のない指摘とのこと。


さて太田出版の方の本書説明では、
アメリカは宗教で動いている
◆アメリカ国内に推定1億人の信者を持ち、アメリカ最大の宗教勢力とも言われるキリスト教福音派。聖書の教えを絶対視する保守系キリスト教徒である彼らは、宣教活動やロビー活動、そして草の根の政治運動を通じてアメリカ外交に大きな影響を及ぼしている。
◆彼らはなぜ「アメリカは他国より質的に優れている」と信じ、「世界中で善を実現する特別な任務を持つ」と自負しているのか。なぜイスラエルを支持し、核兵器を持ち続ける北朝鮮に対して人道的支援を行うのか。
福音派の信仰と政治的信条を歴史的に解き明かし、アメリカ外交において果たしてきた役割を示す。
となっている。

近年、(特にブッシュのイラク侵攻辺りから特に?)「キリスト教原理主義」と米国の福音派が近親的に語られる傾向があるが、アメリカの保守的キリスト教勢力が政治的に一色ではないことは、日本のような外の場所から見ていると分かりにくい面はあるのだろう。

この説明を一瞥して、福音派を「未知の一大宗教勢力」とイメージして、潜在的恐れ(threats)を仄めかし、その背景を知っておかなければならない(インテリジェンス)、と言う設定の仕方は幾分「購買関心を引き出す」ためのレトリカルな文面に読める。

少なくとも本書の半分は福音派の「世界に影響を与える」根拠は右派的な価値観だけでなく、人間の尊厳、人権、などリベラルな価値観も含んでいることを主張することで、よりバランスの取れた「米国福音派理解」に繋がるかもしれない、との思いはある。

いずれにしても、本書が一般読者を対象にしている、と言うことで、日本の福音派系キリスト教出版社では出来なかったかもしれない、「距離を置いた関心」を生むことが出来るのはいいかもしれない。

2014年6月13日金曜日

(3)雑想 2014/06/13

 最近は少し集中力を欠いてきたのでなかなか更新するまでに至らない。

 かと言って放置しておくのもなんだから、宗教と社会 小ロキアム@巣鴨で導入し始めた《ダイアリー》方式みたいなものをこちらでも。

 名称は《雑想》と言うことにしよう。実は既に《断想》と言うラベルも設定してあるのだが・・・。


 現在ツイッター、3アカウントで呟いている。

 左サイドバーでご覧頂いているように、@SugamoSeisen
それから個人的な関心領域(木工、宗教社会学、等)なことを呟くために始めたが現在は宗教と社会 小ロキアム@巣鴨関連に特化しつつある、@yamakoete 、そしてN.T.ライト読書会専門の、@NTWdokushokaiだ。 

 そう言う訳で、ツイッターから捕捉する情報がやや多いため、それらを適切に各関連ブログにフィードしたい時もあるのだが、最早なかなか記事にするまでの時間も集中力もない。

 現在でも人によって「ツイート→フェイスブック」や「ツイート→ブログ」で纏めているケースがままある。(しかし殆ど羅列で終わっているのもある。)

 《雑想》ではせめていくばくかの「文脈」を与えることでスレスレ「簡略記事」にしたいのだが・・・。


 では今朝の《雑想》トップ
 20世紀リベラル・プロテスタントの指導的牧師であった、Dr. Harry Emerson Fosdick (1878 - 1969)が1926年にリバーサイド教会に着任した。それから90年弱かかって初女性主任牧師が誕生したわけだ。※現在では「荘厳な結婚式が出来るウェディング教会」として日本人の間では知られているようだ。


次の《雑想》もニュー・ヨークで関連付け。

 リバーサイド教会のご近所にある、これまた由緒ある、リベラルなプロテスタントの牙城となってきたユニオン神学校でも、初(厳密には2番目)の女性学長となったセリーン・ジョーンズ氏が先ごろ重大発表をした。
 100億円超のエンドーメントと呼ばれる学校運営を支える全寄付金(詳しく説明するのは難しいがこの記事に少々言及あり)の内から、石油関連ものをなくして行く、と言うもののようだ。それによって進歩的神学校の道徳的リーダーシップを発揮する、と言う意思表示。

2014年5月10日土曜日

(4)最近購入した本とか

また(暫くぶりにかどうか) アマゾン(北米)から本を購入した。

今回は2冊中古本でした。
アマゾン(北米)で中古本を注文したのは初めて。 
Oliver O'Donovan, The Ways of Judgment (Bampton Lectures)
Condition: Used - Good
 
ハードカバーで値段は12ドル。
結局送料・手数料が高くついて、計3900円ちょっと。

4/27に注文確定して、昨日5/7届いた。

まっいいか。

その翌日、今度は中古と言うより新古書かな。
Craig Bartholomew, Jonathan Chaplin, Robert Song, Al Wolters, A Royal Priesthood?
A Dialogue with Oliver O'Donovan
Scripture and Hermeneutics Series, V. 3
これは次に紹介する殆んど同名タイトルの本をネットで検索していてたまたまヒットしたもの。ラッキー!
John Howard Yoder, Michael G. Cartwright, The Royal Priesthood: Essays Ecclesiastical and Ecumenical
これは某所でのヨーダー読書会で今月から読むテキスト。
早く入手できてよかった。
 
つまりこういうこと。
ヨーダーはキリスト教社会倫理で「非戦・平和」の立場を取るメノナイト神学者の勇であったが、彼が論敵としたキリスト教リアリズムのラインホルド・ニーバーとは少し違うが、オリバー・オドノバンは、脱キリスト教化する欧米にあって『キリスト教圏・界(Christendom)』の神学的遺産を言わば修復的に用いようとする点で、ヨーダーの批判者になるわけだ。
 
バーソロミュー等編者がどの程度それを含意してタイトルにしたのか・・・。
ただの偶然の一致なのか・・・。
非常に興味深いところだが、(暫定的に)結論から言うと多分後者。
 
インデックスを見た感じではヨーダーへの言及は殆んど見当たらない。
 
まっ、でもオドノバンに関しては昔から関心あったので、それにこの論文集の中に、N.T.ライトのものも入っているので、よしとしよう。
 
そしてついにそのライトのマグナム・オパス(主著)、
N. T. Wright, Paul and the Faithfulness of God
入手した。
2分冊で1600ページが5600円余。安い、お値打ち。
 
最後はユダヤ人の新約聖書学者、
Pinchas Lapide, The Resurrection of Jesus: A Jewish Perspective 
この人のことは、ライトが『神の子の復活』で文献評に載せていたので気になっていた。薄い本なのでそれほどのものとは思っていないが、少なくとも立場がはっきり異なる人がナザレのイエスの復活の史実性を打ち出しているので、それが肝心かと。
 
さて他にも色々借りてきたり頂いた本などがあるので、どれだけ集中して読めることやら・・・。 

《追記》
一晩寝てから思い出した。
もう1冊あったのだ。
James K. A. Smith, Imagining the Kingdom: How Worship Works (Cultural Liturgies)
カルヴィン大学の教授だが、ここは例のニオ・カルヴィニズムの方々とは少し違った雰囲気を持つ大学のようだ。
かなり前からN.T.ライトを講師に、それも繰り返し招いている。
 
スミスは最近では(福音派)キリスト者に、カナダの(カトリック)社会哲学者、チャールズ・テイラーの「世俗化の時代」を噛み砕いて紹介しようとしている、なかなか開明的な方と見受ける。 
 
 
 

2014年4月24日木曜日

(4)英国はキリスト教国

 昨日「英語圏ブログ紹介⑫」で埋め込んでおいた、英国キャメロン首相のイースター・メッセージに反発の声が上がった模様だ。

 それを受けてキャメロン首相はChurch Timesに見解を提出した。
 先ず要旨を見てみよう。

 「世俗化した社会でこのような発言は不適切ではないか」、との意見に対し
I completely disagree. I believe we should be more confident about our status as a Christian country, more ambitious about expanding the role of faith-based organisations, and, frankly, more evangelical about a faith that compels us to get out there and make a difference to people's lives.
以下この要旨に沿って見解を展開している。

 特に゛政治的中立」に関して、
People who, instead, advocate some sort of secular neutrality fail to grasp the consequences of that neutrality, or the role that faith can play in helping people to have a moral code. Of course, faith is neither necessary nor sufficient for morality.
Many atheists and agnostics live by a moral code - and there are Christians who don't. But for people who do have a faith, that faith can be a guide or a helpful prod in the right direction - and, whether inspired by faith or not, that direction or moral code matters.
単に社会的安定を保つためではなく、社会改善と変革の力の源と見做している。
THIRD, greater confidence in our Christianity can also inspire a stronger belief that we can get out there and actually change people's lives, and improve both the spiritual, physical, and moral state of our country, and even the world.
この後自身の英国国教会の信徒としての信仰が名前だけ(ノミナル)ではないことをアッピールしている。

 このキャメロン首相の見解発表を受けて、カンタベリー大主教、ジャスティン・ウェルビーはキャメロン首相擁護のメッセージを発表した。

 「中世の異端審問の再来」のようなイメージをちらつかせる反対者たちに対し、ウェルビー大主教はモンティー・パイソンやイースター直後によくあるようなトンデモ話題を引き合いに出しながら極めて冷静に事態の推移を見ているようなコメントを出している。
It's all quite baffling and at the same time quite encouraging. Christian faith is much more vulnerable to comfortable indifference than to hatred and opposition. It's also a variation on the normal "Sword and Grail discovered" stuff that seems to be a feature of Easter week news. - See more at: http://www.archbishopofcanterbury.org/blog.php/20/a-christian-country#sthash.P4tWUg6h.dpuf
It's all quite baffling and at the same time quite encouraging. Christian faith is much more vulnerable to comfortable indifference than to hatred and opposition. It's also a variation on the normal "Sword and Grail discovered" stuff that seems to be a feature of Easter week news. - See more at: http://www.archbishopofcanterbury.org/blog.php/20/a-christian-country#sthash.P4tWUg6h.dpufIt's all quite baffling and at the same time quite encouraging. Christian faith is much more vulnerable to comfortable indifference than to hatred and opposition. It's also a variation on the normal "Sword and Grail discovered" stuff that seems to be a feature of Easter week news.
It's all quite baffling and at the same time quite encouraging. Christian faith is much more vulnerable to comfortable indifference than to hatred and opposition. It's also a variation on the normal "Sword and Grail discovered" stuff that seems to be a feature of Easter week news.
世俗化がより進んだヨーロッパで、そして声高な無神論者が人気を博す英国で、キャメロン首相が発した「英国はキリスト教国」メッセージは、普段は冷ややかにキリスト教に対している国民(の一部)に反発を起こしたことをむしろ歓迎しているかのようである。

 この雰囲気から言うと、昨日のジェームズ・クロスリーの分析はいささか表面的な印象とならざるを得ないのではないか。

2014年4月16日水曜日

(5)主に神学ブログ⑦

 こちらのシリーズも大分更新が停滞している。

 今回紹介するのは今最も旬な話題を取上げ、それを「サタイアー」を効かせた小説の形で表現し、しかも矛先を「キリスト教会の牧師養成問題」としてパロディー化すると言う、結構念の入った記事を発表し終ったところのブログである。

 伊那谷牧師の雑考は、日本同盟キリスト教団伊那聖書教会の大杉至牧師のブログ。

 大杉牧師とはツイッターで相互フォローしているが、自教会と教団の仕事でお忙しいのか、余りツイートにもお目にかからないし、ブログの方も(ちゃんと定期的に巡回しているわけではないが)それほど更新がなかったように記憶する。

 それなのに2014年4月、一挙にブレークしましたね。

 小説 冲方晴男(うぶかたはるお)牧師 1

 実は少し遅れて読ませていただいたのですが、改めて大杉牧師が「生命科学研究者」として仕事をしておられたことを再確認させられました。

 たまたまと言うわけではないですが、今回のオボカタ事件に関し人並み位の興味しかなかったのですが、伊那谷牧師の次の記事で眠っていたものを少し覚醒させて頂きました。

 問うべきこと

 筆者のアズベリー神学校時代の話、神学遍歴⑥、でも書いたように、「キリスト教倫理」のクラスで遺伝子操作技術(リコンビナントDNA)について小論文を書いたのですが、その後いわゆる「生命科学倫理(bioethics)」については休眠したままになっていました。

 今回の伊那谷牧師の記事で少し目が覚めた感があり、以下のようなコメントを書かせていただきました。
 多分初コメントとなると思いますが、一言。
 ご指摘の通り様々なレベルでの問題を内包していることはある程度分かります。(生命科学者や、牧師や、様々な立場で、この問題が孕む哲学的・神学的・倫理的含意を類推できる範囲は異なりますが。)
 一般に先端科学は倫理的問題(それが問題として構成されるにはそれなりの哲学的・神学的掘り下げが必要になりますが)を解決してから次に進むと言う手順を待ってはいられないと思います。
(その時々の大枠は作られますが、それは絶えずそのような実験が可能になったり、実施されたりしてから後になってしまいます。)
  やはり「科学者」と「哲学・神学・倫理学者」との不断の対話、情報交換、さらには受益者となる「パブリック」との間の橋渡しをする役割(の人たち、やはり 一種の専門家)が確立して行かないと、今回のような「周辺的な話題」が先行して報道され、問題の核心にまで立ち入らないまま問題が雲散霧消、と言うことに なる恐れは十分あるのだと思います。
現在の生命科学の技術についてはおよそ門外漢となっている筆者が下手なことを言うことは出来ない。今の段階では筆者は「パブリック」の一人、マスメディアに煽られる一人に過ぎないのである。

 しかし、今日理研の笹井会見が行われている時、イトケンさんのツイートではっとさせられた。

 このSTAP細胞技術が生命倫理問題にどの程度関わっているのか、上のコメントではただ漠然と感じていたものが、このツイートで「至近距離に来ているかも」との予感がしたわけである。

 筆者の印象ではメディアは実験過程や結果についての様々な疑惑については識者のコメントを求めているが、この細胞生成技術の生命倫理的側面については殆んど追跡していないように思い、早速

 stem cell research obokata ethical question
でググってみた。

 今のところ目ぼしいのはこれだけか・・・。
 Why Easy Stem Cells Raise Hard Ethical Questions

Yet these cells have a troubling potential. One of the surprising features of these cells, which Obokata has called “stimulus-triggered acquisition of pluripotency” cells, or STAP cells, is that they are not only able to develop into all embryonic tissue types—they can also contribute to the development of a placenta. Neither embryonic stem cells nor iPS cells can develop into placental tissue. In fact, this has often been seen as a defining difference between embryonic stem cells and actual embryos: embryonic stem cells cannot, on their own, develop into adult organisms the way an actual embryo can, in part because they cannot grow the extra-embryonic placental tissues needed for fetal development in the womb. If STAP cells can indeed support fetal development, clusters of these cells may actually be embryos. If so, the creation of these cells would be tantamount to human cloning.

But the wide range of developmental potential these cells have does not necessarily make them embryos. There’s an old motto in biology, attributed to the great seventeenth-century anatomist William Harvey: “omne vivum ex ovo,” or “all life from eggs.” In the animal kingdom, this doctrine still holds true; embryos are fertilized egg cells, and the egg cell provides a great deal of material necessary for the embryo’s early development. Just because an adult cell has been “reprogrammed” to a state of developmental immaturity that allows it to branch off into any of the different cell lineages, that does not mean that it will be able to undergo the highly coordinated development of an embryo on its own, or even together with other such reprogrammed cells.

We should still take the possibility seriously, however, that this new method of reprogramming might make embryos. Rumors are already circulating that scientists have attempted this in mice. According to a story in the New Scientist, one of the co-authors of the study, Charles Vacanti, said that he asked an unnamed collaborator to transfer a spherical cluster of STAP cells to a mouse. Vacanti reports that the cells began to develop as a fetus, but that halfway through the pregnancy, the fetus stopped developing normally. According to Vacanti, “There was some sort of glitch—which is probably a good thing due to the ethical issues that would occur if we were able to create a live clone.” But if it is true that these cells are able to develop as embryos, then the fact they develop defectively is not reassuring. Okotaba, for her part, said that her team was interested in regenerative medicine, not human cloning.
昨年5月、既にクローニング技術で人のES細胞形成が成功している(らしい)ことがネーチャー誌に報じられている。


 はてさて現在クローニング技術でES細胞などを作っている研究者たちは「冒険家(ヴァカンテイー)」な面を持っているかも・・・だったり、「先生には内緒でクローンマウスをつくってい」た、理研の若山研究員の話を聞くと、倫理的な資質に???が感じられ、少し恐いシナリオもあり得るのかな、と思ってしまうのであった。

 とにかくキャッチアップ(する気があるかは分からないのだが)が大変そうだ。