⑧改めて被害者の方々、犠牲者の方々に、心よりお見舞いと連帯の気持ちを申し上げます。既に犠牲になった方々に対して、このような表明は遅きに失するものでしかないかもしれません。しかし戦後最悪の私人による殺傷事件に際して、犠牲者の方々に対する人間的な追悼が少ないことが気にかかっています。— 大野 更紗, Sarasa Ono (@wsary) 2016年7月28日
⑨患者さんや障害のある方々を深く傷つけ、自らの人間性をも殺し、全ての人の多様な在り方を否定する行為を、断固として非難します。わたくしたちは、人間に対して価値評価をすることはできません。困難な状況におかれている方々に対して、資することができるよう研究に努力することしかできません。— 大野 更紗, Sarasa Ono (@wsary) 2016年7月28日
連ツイの最後三つだけを紹介したので、文脈を補足すると、この記事に対する批判の必要を感じてのものであることが連ツイの初めに断られている。⑩どのような理由があろうとも、社会状況にあろうとも、人間の尊厳を軽視する方向に進むことはできません。わたくしたちは、そのために努力します。— 大野 更紗, Sarasa Ono (@wsary) 2016年7月28日
筆者の方の「いろいろ」の一つは、事件の重大さ・深刻さを鑑みて速やかに表明されるべき(であった)「アラーム(覚醒)」が明瞭に出なかった、ということ。①普段、個別の記事に批判を加えることはしませんが、この論説には多くの問題が含まれていると思います。まずもって、今日の障害者支援の現場の感覚とはかい離している、そして優生思想に甘い姿勢を取っていると解釈されかねないことです。知的障害の領域で前時代的な運営方針があることは事実です。— 大野 更紗, Sarasa Ono (@wsary) 2016年7月28日
事件を起こした個人の特殊状況その他を考慮に入れても、今回の事件が「人間の尊厳」に対する挑戦であることは免れないだろうからだ。
しかしその面に関しての「アラーム(覚醒)」は海外のメディアの方が速かったように思う。
フェイスブックではある「ドイツ在住日本人」女性の方の投稿がこの面に注意を向けるようアッピールしていた(と記憶する)。
かつて『酒鬼薔薇事件』のときであったか、「なぜ人を殺してはいけないのか」に「どのように答えたらいいのか」という問いが立てられた。
学校その他で「いじめ」によっていのちがなくなると「かけがえのないいのちを大切にしましょう」と繰り返される道徳訓のひ弱さ。
直接には繋がりはないが、「いのち」や「人間の尊厳」を根底で支える教えを道徳的権威とともに言明することが躊躇われる何か、が背景の一つのように思われるのだ。
あるノーベル賞作家が、その理由を「人間として守るべき暗黙の了解」のような道徳的価値観(大前提)を「口にしなければならないことへの恥ずかしさ」のようなものを表現していたように思う。
(道徳的であるべき)「人間はそこまで退化してしまったのか」、「そのような悪びれもせず人のいのちを奪うことの出来るような人間を社会は生み出してしまったのか」という改悛に沈んだまま沈黙してしまいたくなる敗北感・・・のような。
そんなムードが感じられた。
今回の事件に際して人々の心の中にある「道徳感度計」が何度を表示するか、「道徳針(モーラル・コンパス)」が何を指すか、はまだまだ見守る必要があるのだろう。
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