2019年8月31日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2019年9月1日(日) 午前10時30分

朗読箇所 マタイ 4:23-25、9:35-38
説 教 題 「伝道と牧会、救霊者と羊飼い」 
説 教 者 小嶋崇 牧師

「聖泉連合創立50周年」を記念して(2)

2019年8月24日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2019年8月25日(日) 午前10時30分


朗読箇所 エペソ 4:1-16
説 教 題 「『一つ』をベースに」
説 教 者 小嶋 崇 牧師


エペソ書講解(19)

2019年8月17日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2019年8月18日(日) 午前10時30分

朗読箇所 マタイの福音書 7:24-27
説 教 題 「礼拝と詩篇」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2019年8月15日木曜日

(4) 2019「終末論」ノート③

今年6月10日の日本福音主義神学会・東部部会研究会に端を発したフェイスブック上の意見交換が「終末論の勉強会」に発展した経緯を書いてきた。(2019「終末論」ノート①(4) 2019「終末論」ノート②)


勉強会に参加したのは筆者も含め3人。7月25日(木)の午前中、約2時間をかけてなかなか中身の濃い学びができた。
焦点は「千年王国」であったが、それだけにこだわらずなるべく広く浅く「終末」に関わる疑問や関心を話し合った。
(※ちなみにこの三人はもともと同じ教会グルーブに属し、かつては何回か神学の勉強会をした仲である。)

さて今回の勉強会では「千年王国」に多大な関心を寄せるK氏にメインの発表をしてもらい(と言っても20分ほどの短いプレゼン)、筆者が応答するという形をとった。

この記事には内容の詳述も紹介もしない。

と言うのもK氏はもともと「携挙」やそれに伴う「レフト・ビハインド」のイメージにかなり影響を受けてきたのが、前述したとおり大きく改変中の最中である。
「罪から救われて後は天国行き」のような「あの世」的キリスト教のパラダイムで生きてきたのが、ライトのような「この世」で積極的に生きるキリスト教のパラダイムに転換しつつあり、その文脈の中で「千年王国」の重要性に気づいたという経緯がある。

しかし筆者の方はと言うと、前述したように(本末転倒したようなと思える)終末論諸説を忌避し距離を取ってきた。

つまり、両者とも終末論に関しての聖書知識にしても、神学的把握にしても浅薄な段階ではまともな議論は無理だと思うのである。
(終末論に関して)知るべきことのせいぜい2~3割程度の者たちが勉強会でできることと言えば、幾らかでも大胆に自分の無知さ加減や疑問を披歴し、有益な著作や情報源を交換し、そのようにして今後の研鑽を相互に促すことだろうと思う。

K氏に関しては現時点での「千年王国」に力点を置いた「終末論」を自身のブログに掲載しているのでそれを参照されたい。

筆者の方でここに提供しておきたい資料としては、
 ①G.B.ケアード、Jesus and the Jewish Nation.
 割合短い論文だが、イエスの神の国宣教がイスラエルという民族国家を対象にした迫りくる国難回避の一大キャンペーンの性格のものであったことを論証している。

Oskar Skarsaune, “Jewish Christian Sources Used by Justin Martyr and Some Other Greek and Latin Fathers.” P. 412. Ch. 13 of Oskar Skarsaune and Reidar Hvalvik, eds. Jewish Believers in Jesus. Hendrickson, 2007
 近年、初期キリスト教史における「ユダヤ人キリスト者の影響」研究が盛んになってきた。オスカー・スカルサウネは以下の様に「メシア王国」への期待がオリゲネスの時代以降にも生き残っていたことを例証している。
           Having surveyed the material in Justin and Irenaeus in this brief fashion, it remains to add some words on the development of the millennial tradition more generally. I use “millennial” here in a rather loose sense, and should perhaps talk about “literal fulfillment of the messianic prophecies on this earth” as the topic of primary interest in our context. Whether this fulfillment is conceived to take place according to a one-step eschatological model (life eternal taking place on earth, and being inaugurated at Christ’s return), or a two-step model (a millennial period on earth prior to life eternal) is of less importance. According to both models, fulfillment of messianic prophecies is taken to be both literal and earthly, with a renewed (earthly) Jerusalem in its center.
          From Origen onwards, this way of thinking about the realization of the biblical prophecies was branded “Jewish.” Such was the influence of Origen that most of the Fathers followed him in his denunciation of “Jewish” eschatology. “Millennialism” was gradually marginalized. It did not disappear, however, and may have been stronger “on the ground” than our rather selective sources will make us believe. ……In the latter half of the fourth century, Jerome quoted and combatted a strikingly Jewish interpretation of messianic prophecies that amounted to a remarkable millenarian scenario in which the millennium would be the messianic reign of Christ among a restored Jewish people in Jerusalem. Jerome’s unnamed source for this is probably Apollinaris of Syrian Laodicaea.

以上でひとまず終了することとする。

2019年8月13日火曜日

(4) 2019「終末論」ノート②

今年6月10日の日本福音主義神学会・東部部会研究会がきっかけとなり、「終末論」についての意見交換がフェイスブック上で始まったことについて書いた。(2019「終末論」ノート①)

既にライトの『驚くべき希望』も読み、最近「終末」や「福音」についての理解が大きく変化してきたと言うK氏(フェイスブック友達でもある)。
「ではライトは『千年王国』についてはどういう位置づけなのか」、と言う問いを出された。

なるほどライトは(前回書いた「終末論の整理」でいうと)、(1)個人的終末論、と(3)宇宙的終末論の正しい関係については関心を示すが、(2)民族的終末論に関係する千年王国については『驚くべき希望』ではほとんど何も言及していない。
(※「千年王国/黙示録の解釈問題」は『神の子の復活(The Resurrection of the Son of God)』で多少扱われているのは確認した。)

最初はスルーしようかとも思ったのだが、改めて考えてみて「これは学びの良い機会」「終末論の整理の良い機会」になるのではと思い「『終末論』の勉強会」を企画することにした。


筆者は(日本の福音派の中で)ホーリネスと言う流れに属するが、実は「千年王国」に関しては殆ど関心を持たずに来てしまった。(そのことはフェイスブックにはコメントしておいた。)
だから「再臨」が「千年期」の前・後・無のどれになるのかの諸説については殆ど知ろうともしなかったし、ましてや「携挙」があるなし云々など考えるだに忌避していた。
ところが筆者の周りでは案外これらの諸説に関して熱っぽい関心を持っている方がいて「やれやれ」と思うことも多く、筆者が本末転倒と考えるこれらの終末論諸説のせいで終末論自体に長い間距離を取ってきたと言える。

1 「神の国」とメシア、福音書の意味の地平
忌避し距離を取ってきた「終末論」だが、礼拝の学びで「共観福音書」を講解するようになりそうも行かなくなった。(もうだいぶ前の話)

「神の国」とは何か。
初歩的なワードスタディでもがいているときにたまたま友人から寄贈されたG・B・ケアードの『新約聖書神学』が開眼を与えてくれ、さらにケアードの指導のもと博士論文を書いたN・T・ライトの特に『イエスと神の勝利(Jesus and the Victory of God)』が明確なアプローチを示してくれた。
(※このあたりの経緯については、自伝的「新約聖書学」最近研究状況レポート、 N・T・ライトを中心に、に書いた。)

さて質問をくれたK氏はかなり変わってきた自身の福音理解を現時点でパッケージにすると以下のようになるという。
今では、私の理解する福音は、1十字架での罪の赦し、2朽ちない体への蘇り、3キリストの来臨と悪の清算、4キリストのこの地上での千年間の統治、そして5新天新地の永遠の秩序、というパッケージです。
これに対してまず筆者が思ったことは、(終末に起こるとされる様々な出来事を整合的に順序づけることよりも)いかにしてナザレのイエスによる「神の国」の福音が使徒たちの宣教に継続・展開していったかを知ることの方が大事ではないかということ。
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイの福音書28章18-20節、新共同訳)
それは神学的にも歴史的にも「イエスの宣教」「使徒たちの宣教」を理解することであり、イエスのガリラヤ宣教から、使徒たちのユダヤ人伝道・異邦人伝道へと展開していく内在的論理を把握するということである。

すなわち「千年王国」というような「メシアの統治による王国」が、イエスの宣教においても、使徒たちの宣教においても、少なくとも表面上はバイパスされてユダヤ人伝道そして異邦人伝道へと継続・展開していったか、を理解することであった。

(このバイパス展開を示唆するものとして以下の箇所を掲げておく。)
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒の働き1章6-8節、新共同訳)
ご存知のようにメシアと期待したイエスがローマによって十字架刑死させられ、一旦は崩壊したと見えたイエスの神の国運動であった。イエス運動支持者たちの心中が端的にルカ24章のエマオ途上の弟子の一人によって表白されている。
わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。(ルカの福音書24章21節、新共同訳) 
すなわち、イースター後の弟子たちは依然として「イスラエル復興」への期待を保持しており、復活前にイエスによって予告されていた「旧約預言者たちが語っていた『神の国』の(隠された)ストーリー・ラインは、キリストの(十字架の)死と復活によって成就する」ことをまだ十分に理解していなかったのであった。
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。 (ルカの福音書24章44-48節、新共同訳)
K氏の疑問である『千年王国』の「終末の歴史的位置付け」の問題は、単にライトによって回避されているだけでなく、「メシア王国の現世的・政治的実現」がイエスの宣教においても、また使徒たちへの宣教命令においても、表面上は一旦脇に置かれていることを確認する必要があるだろう。

(共観)福音書が描く、一世紀当時顕在的・支配的であった『神の国』シナリオは、「メシア」がもたらす「イスラエルの民族的・国家的回復」として国際政治的文脈上に実現するはずのものであった。具体的にはローマによる支配からの脱却・解放であった。
おそらくイエスの弟子たちもこのシナリオの延長線上でイエスの「神の国」宣教を理解しようとしていたのであった。

しかしイエスはこのような顕在的支配的神の国のシナリオではなく、十字架復活聖霊と(ユダヤ人と異邦人による一つの)教会、という神の国の隠れた(アポカリプティックな)展開を聖書から読み取っていた、と筆者はそのように思うのである。


さて本論に入り始めたがとてもとても一回では書ききれなかった。次回に続けることにする。

2019年8月11日日曜日

(4) 2019「終末論」ノート①

今年になって数カ月に一回くらいの「(新)コンテンツ」掲載ペースだが、今回は最近の学びのことを取り上げてみたい。

学びのテーマは「終末論」。
※何回かに分けて連載することになるみたいだ。

1 「終末論」とは何か
「終末論」をまず簡単に説明してみよう。

「創造論」や「キリスト論」「救済論」「教会論」などがある《キリスト教(組織)神学》の一項目だ。

英語では"eschatology"「The Last Things(終わりの事柄)」についてのことだ。

トピックとしては「永遠のいのち」「最後のさばき」「天国と地獄」などが標準的であるが、「世の終り」や「ハルマゲドン」「携挙」「千年王国」など人によって関心の高いトピックも含む。


2 きっかけ
もう2か月前になるが、日本福音主義神学会・東部部会の研究会があった。その時のテーマが「キリスト者の希望」であった。

キリスト教神学で言う「終末論」に整理されるテーマであるが、新約聖書の表現でもあり又より平たい表現として「キリスト者の希望」と言うテーマで案内がされた。

この講演会が終わってから、今回の学びの背景ともなっているN・T・ライト『驚くべき希望』を出版したあめんどうのオブチさんがフェイスブックに小さなレポートを投稿した。
そのレポートを筆者が「シェア」して「コメント」したのがきっかけと言えばきっかけだ。

3 「終末論」の勉強会に発展
フェイスブックに載せた筆者のコメントでその後の勉強会に発展する元となったのが「終末論の整理」として掲げた、(1)個人的終末論、(2)民族的終末論、(3)宇宙的終末論であった。

6月10日の研究会ではライトの『驚くべき希望』が背景にあったにも関わらず、聴衆の関心は「個人的終末論」に終始していた感があった。(その要因は多少は論者の方にもあったように思う。)

つまり最初に「終末論の主要な範囲」として「個人的終末論」以外のものも視野に入れておかないと、長年の思考習慣でどうしても個人的終末論に終始してしまうようになることは予測しておかなければならなかったと思っている。

4 ライトの『驚くべき希望』のアプローチ
ライトが描く終末論は上に紹介した「終末論の主要な範囲」でいうと何よりも「(3)宇宙的終末論」の強調にあると言っていいだろう。

「キリスト者の(将来の)希望」である復活(使徒信条の「からだのよみがえり」)は個人的な救いの完成として完結するのではなく、あくまで宇宙的終末論である「新しい創造」のピースとして重要なのである。

『驚くべき希望』の《第Ⅱ部 神の将来の計画》5章「宇宙の将来・進歩、それとも絶望?」の導入でライトは以下の様に断っている。
このトピック【将来の希望・刷新】について議論する上で、私が切だと思う順番で話を進めていく。
個人への約束を最初に取り上げ、そこから被造物の刷新へと進むのでなく、聖書的な将来の世界像、すなわち現在の宇宙が、創造主であり贖い主である神によって上から下まですべて刷新されるというヴィジョンから始めたい。イエスの「再臨」や、その後の体を伴う復活については、その文脈の中でこそ適切に語ることができるのだ。(152-3)
ライトが「適切だと思う順番」とは、「(3)宇宙的終末論」の視野を確立し、そしてその視野の中で「(1)個人的終末論」を論ずること、と言えるだろう。

ライトの終末論のチャレンジは、キリストの復活の意義を論ずるにあたって「救済論」の次元で終始してしまい、なかなか「認識論的・世界観的」意義にまで掘り下げていない状況へのチャレンジでもある。
(以下は4章「2.イースターと歴史」の「(2)認識論的・世界観的挑戦」における『新しい創造の挑戦』からの引用。)
イエスの復活は、キリスト者や神学者にだけでなく、歴史を学ぶ者にも科学を学ぶ者にも、いまのこの世界で起こった非常に奇妙な出来事としてではなく、そこから始まった世界の特徴を現す、じつに典型的で基本的な事柄として差し出されているということだ。それは古い世界で起こった不合理な出来事ではなく、新しい世界の象徴であり出発点なのである。キリスト教内で推進された主張、すなわちナザレのイエスがもたらしたものは、単なる新しい宗教の可能性や新しい倫理や新しい救いの方法ではなく、新しい創造であるという主張は、それくらい重要なことだった。(134)
ライトが主張する「聖書全体のナラティブ/ストーリー」の強調は、「キリスト者の希望」にしても、その根拠となる「イエスの復活」にしても、「創造から新創造」の宇宙論的文脈に位置付けることにあると言えるだろう。

さて前置きはそこまでにして、次回実際にどんな「『終末論』の勉強会」になったかレポートしてみたい。

2019年8月10日土曜日

明日の礼拝はお休みとなります

巣鴨聖泉キリスト教会での明日、

8月11日の主日礼拝

はお休みとなります。

どうぞお間違えありませんようにお願い申し上げます。


※(東京は)猛暑日が続き、暑さが厳しい日々です。熱中症等 健康にはくれぐれも留意してお過ごしください。

2019年8月3日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2019年8月4日(日) 午前10時30分

朗読箇所 Ⅱテモテ 1:1-14
説 教 題 「委ねられた良いもの」 
説 教 者 小嶋崇 牧師

「聖泉連合創立50周年」を記念して(1)