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2014年5月27日火曜日

(3)ことば/コトバ考:聖書と文学 3

今回3回目となります。

ご案内してきた「ヨナ書の表現よみ」と言う催しが、間近になりました。
※まだお席あります。今すぐ、予約どうぞ!!!(詳細は上のリンクをクリック!!!)

2014年5月30日(金)、午後2~3時半
巣鴨聖泉キリスト教会
今回は「表現よみ」をしてくださる、ゲストの渡辺知明さんへのインタヴュー記事です。

*  *  *  *  *  *  *  *

(1)渡辺さんがよく「表現よみ」している文学作品と比較して、『ヨナ物語り』は何か共通しているものがありますか。
(2)あるいは「違和感」はありましたか。あったとしたらどんなところでしょう。
――もちろん文学としての共通性はありますが、表現よみはおもに小説を読みます。ヨナの物語は、物語ですので寓話のような傾向があります。違和感というよりも、このあたりが基本的なちがいでしょう。

(3)渡辺さんは作品を声に出して「表現」することを「表現よみ」と呼ばれていると思うのですが、その際「解釈」が様々な形で反映されると思います。
「ヨナ物語り」を「表現よみ」するに当たって特に工夫した箇所などありましたか。
――物語の場合には、小説とは違って、人物の「内言(内面の言葉)」の表現があまりありません。ですからリアルに読むためには、人物の感情に「はいる→なりきる→のりうつる」という表現の工夫が必要だと思います。
(4)ヨナ書では、ヨナの預言と呼べるようなものは3章4節の「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」くらいで殆どありません。
だからヨナ物語り、などとよく呼ばれるのだと思いますが、現代社会で「預言」と言ってもぴんと来ませんね。
むしろ大川隆法のような怪しげなものになってしまいます。

現代では人々が「はっ」と我に帰って生き方の方向を大きく変えるような警句とはどんな形で「来る」のでしょうか。

私が昔好んで聞いたサイモンとガーファンクルの歌に「預言者のことばは地下鉄(駅)の壁に書いてある(サウンド・オブ・サイレンス)」と言う歌詞がありましたが・・・。
――キリスト教においては「預言」が神からの指令のような意味を持つのでしょうか? 現代においては自らの意思による自主的な行動になるような気がします。そのための前提になるのが、真実の認識と情報の開示なのでしょうが、マスコミによる秘密がそれを妨げているような気がします。
(5)「表現よみ」はパブリックな場でのスピーチやシュプレヒコールのようなものにはどんな意見を持つでしょうか。

「特定秘密法案反対」と賛成できるものであっても大抵一本調子で絶叫タイプで、「表現」としてかなり稚拙、非洗練ではないかと思うのですが。

またヘイトスピーチも、そして政治の場での「発言」も、しばしば絶叫・罵声・罵倒・怒声になってしまうのはどう思われますか。

政治の場、パブリックな場での「表現よみ」の適用は何かありますか。
――表現よみの基本は「オーラルインタープリテーション」だと考えています。つまり、ことばを理解するための自分にとっての表現です。表現を目指すことによって理解が深まるという考え方です。
ですから、他者に向けた言葉の表現においても、自らの認識やモラルが問われるのだと思います。
(6)今回「文語訳」で「表現よみ」なさることにしたのはどんな意図でしょうか。現代語訳では不足があると思われますか。
――「文体そのものがは思想のかたちである」という考えが前提です。現代語訳と文語訳では、厳密に言うと思想がちがのだと考えています。それは情報伝達のレベルではなく文学思想の微妙なところです。
(7)文学作品を「表現よみ」なさる場合もそうだと思うのですが、その作品がどのような視点(誰の視点、主人公の視点、第三者の視点、一人称、三人称、などなど)で語られているか、と言うのを意識することが大事だと思うのですが、ヨナ物語りはどうだったでしょう。
――聖書というものの語り手の立場を考えました。ある意味で「説教」ということになります。日本の文学で言うなら、芥川龍之介「蜘蛛の糸」などは典型的なものです。次に問題になるのが、作品構成における聞き手の設定です。だれがだれに向かって語るのかということが、いわゆる「視点」の立体化になると思います。
(8)今まで「表現よみ」なさった作品の中には、ヨナ物語りのように「一定のメッセージ、教訓、道徳訓」のようなものを内包するものがありましたか。
――作品の教訓というよりも、関連する作品をいくつか思い浮かべました。
太宰治「人魚の海(新釈諸国噺)」での船が荒れる場面。
丸山健二『白鯨物語』(2013眞人堂)にヨナの物語の引用があります。もともと「白鯨」に書かれているものでしょう。
また、中島敦「文字禍」は、アッシリアやニネベを舞台にした話です。
*  *  *  *  *  *  *  * 

④で、「キリスト教においては「預言」が神からの指令のような意味を持つのでしょうか?」、とありましたので簡単ながら・・・。
「預言」はどちらかと言うと旧約聖書で主要なものです。新約聖書(キリスト教)はその「預言」が成就した、と言うところにポイントがあります。

「預言」は、予言のこともありますし、指令のようなこともありますが、そのような具体的内容に関わらず、起源が神の言葉である、と言うことがポイントだと思います。

ですので「預言」、つまり「神の言葉」を預けられた預言者は、自分の好きなようにその言葉を改変することが出来ませんし、また都合が悪いので言わないでおくと言う選択肢もありません。
彼は「預言」せざるを得ないのです。たとえその内容が聞く民に怒りを引き起こし、預言者を殺そうとするような厳しい警告のような性格のものであっても。
丸山健二『白鯨物語』(2013眞人堂)・・・と言うご指摘は日本現代文学に全く疎い筆者にはありがたいものです。
当初「ヨナ書」を題材にした日本現代文学は、丸谷才一の『エホバの顔を避けて』しか見当たりませんでした。(一応読みました。)

確かにメルヴィル『白鯨』はヨナ物語の引用どころか、重要なモチーフになっています。
それもこれもヨナを飲み込んだ魚が鯨と想定されているからですが。

メルヴィルは北米東部地方の捕鯨船の船乗りたちの逸話などを集めて物語を作ったようですが、その中には、
「鯨の胃液でヨナは生き延びれなかったはずだ。」
「地中海で鯨に飲み込まれたとして、イラク付近で吐き出されるまでには三日以上かかったはずだ。」
「鯨の回遊路としては喜望峰を回ってインド洋に入る方が自然だ。 (その場合さらに日数がかかったはずだ。)」
と言ったようなヨナ書を史実に基づいた物語として読んだ場合の難点が物語の中で議論されているのだそうです。

また船に乗り込んだマップル神父がヨナ物語りを聴衆に回想させながら、ヨナが鯨に飲み込まれる前の様子を、詩篇18篇を引用して描写しているくだりがあるそうです。
ほむべき方、主をわたしは呼び求め/敵から救われる。
死の縄がからみつき/奈落の激流がわたしをおののかせ
陰府の縄がめぐり/死の網が仕掛けられている。
苦難の中から主を呼び求め/わたしの神に向かって叫ぶと/その声は神殿に響き/叫びは御前に至り、御耳に届く。(詩篇18篇4-7節、新共同訳)
※以上は、Moby-Dick Summaryウェブサイトの「各章要約」を参照。

以上、渡辺さん、『インタヴュー質問』への回答ご協力ありがとうございました。
当日の「表現よみ」と対論のお相手もよろしくお願いします。

2014年4月20日日曜日

(3)ことば/コトバ考:聖書と文学 2

今回2回目となります。

既にご案内したように、

2014年5月30日(金)、午後2~3時半
巣鴨聖泉キリスト教会
で「ヨナ書の表現よみ」と言う催しの下準備、のような記事です。

さて、現代《ことば》考、の後半となります。(2回に分割)

B.平田オリザ『対話へ』

「ぼくは、人間と人間の対話を書きたい。家族や同僚といった、 互いに理解し合っている前提で交わされる会話ではなく、 お互い分からないという前提で始める対話です。
 そもそも日本語は、他者に対して自己を説明する場面では非常に弱い言語なのでは、という感じがある。それでよかったんですね、ムラ社会では」

  「常に違うものを見ているという前提にたった人が、いっしょに思考実験に参加し、 同じものを見た、同じ時間を共有したという確証をもって考えることが大事なんです。 サンテグジュペリに『愛することは、参加することだ』という言葉があります。 同じように思うことではなく、同じものを見ること。 そこから差異を確認し、なぜ違うのか、という対話が生まれるわけです」
  (1998年1月5日朝日新聞夕刊、「伝えるということ①」)
この段階(今から16年前)の平田の関心は、まだ「公共圏を司ることばは、『お互い分からないという前提』でなされる対話から紡ぎだされるもの」 と言う認識で推移していると言っていいだろう。

 しかし平田の演劇を通しての思考実験は今やアンドロイドと言う人工知能ロボット進化系と人間との対話へ、と進んでいる。例えばここここ


 恐らくこれを演劇として楽しんでいる人は殆んどいないと思う。
 観客は平田と石黒の思考実験にお金を払って協力している、と見た方がいいだろう。
 全体としては「近未来」における人間とロボットの共存態を推理することに意義がある、と言うことを「了解する」ことで観客は何らかのリターンを見出しているのではないか。

 それにしても一番きついのはロボットと共演させられる役者ではないか。
 
 将棋ロボットに関して言えば、ゲームとしての「パラメーター」が限られているので、かなりのプロ高段者でも既に勝てなくなっている。ここ

 しかし、演劇は日常言語空間を飛び越えた「虚構」の世界だ。
 ロボットが果たして「演技」を意識できるだろうか。

 このアンドロイドを使った思考実験は、そこを問うているわけではない。
 進化して行くロボットに人間側がどう対応していくのか、を問うているのだろう。

 役者がきついのはロボット相手には「演技が通じない」というところだ。

 脚本を書く平田は別なレベルで楽しめるからまだいい。(彼は自分の思考空間で組み立てる創造性を発揮できる。しかし役者は反応の種類やスピードがひどく限定されたロボット相手には演技を工夫することはかなり難しい。ただのモノの方がよっぽど対話相手にできるだろう。自分の意図の中で動かすから。)

 まさに「フィード」がなければロボットからの「フィードバック」はない。

 ヨナ書は「ヨナ物語り」とも呼ぶくらい、その文学的ジャンルに関する疑問が前面に出てくる。

 史実に基づく物語なのか(その場合高度にテーマ化、thematized、されている、と言わねばならないだろう)、それともフィクションなのか。

 しかしヨナ書を解釈するにあたって(この書を『表現よみ』する渡辺さんにとって)、史実かフィクションかは「決定的な問い」ではないかもしれない。

 恐らく「コトバ/ことば」を「使う」ということは、世界を対象化し、主観に統合する過程で、高度に複雑な作業を行なうことであり、それがヨナ書のような「かなり雄大な言語空間」として結晶された場合、それを読み解くことは様々な文脈を総合的に判断して、その意味を選択的に提示することになるだろうからだ。
 (哲学的に過剰に聞こえたらすみません。ごく初歩的な考察を言っているに過ぎません。)

 ※次回へ続く。 

2014年4月13日日曜日

もしお呼びいただければ・・・

説教奉仕/講師にお呼びください、と言うことですね、一応。

 私(小嶋崇)が牧師として仕えている、巣鴨聖泉キリスト教会は年2-3回礼拝を休みます(汗)。
 驚かれるかも知れませんが、日曜以外の集会(元旦礼拝、イブ礼拝、など)との兼ね合いで無理のないよう配慮した結果です。

 さて牧師である私はこれらの日曜を他教会での礼拝参加に用いるようにしました。(例えば昨年末と今年頭、教会巡り
 礼拝式のかなり異なる教会の礼拝に参加することも良い学習だと思っています。(学習は二次的なもので、礼拝に行ったわけですが。)

 今年はただ礼拝に参加するのではなく、説教の奉仕に呼んでもらえたら行きたいな、などと考えています。

 ①2014年8月10日(日)
 ②2014年12月28日(日)


の2回が当方の礼拝休みの日曜です。

 これをお読みの方で、これらの2回の日曜に礼拝説教、あるいは「聖書の学び」講師、に私を招いてくださる教会があれば、どうぞお問合せください。(2回とも同一教会、と言う意味ではありません。

《説教奉仕》
 礼拝説教は基本謝礼は必要ありません。(交通費などの経費は支給してくださると助かります。)
 
《「聖書の学び」講師》 
 以下の三つの本の主題やトピックからお話できます。
 ①ポール・マーシャル「わが故郷天にあらず
 ②スコット・マクナイト「福音の再発見
 ③リチャード・ボウカム「イエス入門
・時間としては1時間枠、私が話す時間は35-40分、残りが質疑応答です。(90分枠に延長もできます。)
 ・講師謝礼として「3000円/時間」を目安としていただければ幸いです。
 ・上記の本、①②③、の「販売コーナー」を用意して頂けると感謝です。
  当然ながらいずれもお勧めの本です。
  本の趣旨を理解して頂くことも「講師として呼ぶ」かどうかの有力な判断材料となることと思います。 

《限定事項》
 ・私が行ける教会(集会)は、JR(山手線)巣鴨駅を起点に、公共交通機関を用いて1時間程度で行ける範囲として頂ければありがたいです。
 ・2主日とも「繁忙期」なため、時間的にゆとりを持って行ける範囲となりますことをご了承願います。
 ・言うまでもなく、「日帰りできる」教会と言うことになります。

《問合せ》
 ・なるべくメールでお願いします。
  小嶋崇、sugamo_seisen(*)yahoo.co.jp
     (*)の部分をアットマークに変えてください。 
 ・①②のいずれも当日から数えて一ヶ月前までに「依頼・双方の要望確認・受諾」が終了するようお願いします。

以上色々条件をつけて申し訳ありません。
よろしくお願いします。

2014年4月11日金曜日

(3)ことば/コトバ考:聖書と文学 1

先日もご案内したように、
2014年5月30日(金)、午後2~3時半
巣鴨聖泉キリスト教会
で「ヨナ書の表現よみ」と言う実験的催しをします。

ヨナ書は短いですから、読むだけなら10分もあれば終わってしまうでしょう。

それで『聖書テキスト』を読むと言うことがどう言う意味合いがあるのか、「表現よみ」をしてくださる渡辺知明氏と、小嶋とで、対談しようと言うことになりました。

テーマは「コトバ/ことば」を巡る対論、です。

渡辺氏は「文学のコトバ」、小嶋は「聖書のことば」
と言う、カタカナの「コトバ」とひらがなの「ことば」でニュアンスの違いを整理しながら対論を進めて行こうと思っています。

それで対論のポイントを探って行くために、「ことば/コトバ考:聖書と文学」 と言うシリーズを設け、当日の対論までのスパーリングをしてみたいと思います。

先ず初回は、過去に小嶋が巣鴨聖泉キリスト教会での「修養会」プログラムで書いた文章、現代《ことば》考、から振り返ってみます。(2回に分割)
 「ことば」は空気と同じように大切なものでありながら反省することの少ないものではないだろうか。ちょうど(朝日)新聞紙上で《ことば》に関連のあるシリーズが掲載された。その中の二つの記事とどのようなクリスチャン的「対話」が可能か探ってみよう。

 先ず、詩人(長田弘)と演劇作家(平田オリザ)もともに現代人の《ことば》に対する態度を批判しつつ、あるべき方向性を探っているのだ、ということを見ておきたい。

A.長田弘『思いて取る』

「今の日本人は、言葉を、人間の配下のようにこき使えると考えて いるのではないか。しかし、実際は言葉の方が人間より大きいのです。 言葉の力が怖いから、すぐに言葉を放りすててしまおうとする」
  「伝えるというのは、実は、自ら読むということです。伝えることの本質は、どう読むかという伝えられる側の一方的な努力の中にあります」
  「この社会を生き延びるには、言葉の力をとりもどすほかない。 今の言葉はとても疲れた、脆(もろ)いものになっていて、 お互いの結びつきを表現できなくなっています。 それだけに、言葉を確かにしていく個々の一方的な努力が、 いっそう求められているのではないか」
 (1998年1月6日朝日新聞夕刊、「伝えるということ②」)

長田さんの言いたいことは以下の三つに要約できるだろう。
  • 言葉と人間の位置・力関係の転倒、
  • 読む側の努力を要請する「伝えられたもの」、
  • 人間の絆を繋ぐ言葉の力を回復するために「言葉を鋳直す」ことが必要。
クリスチャンにとっては、神の《ことば》である聖書の《ことば》との触れ合い方への警鐘として取り上げることができるだろう。
 多量の情報を処理することを必要としている現代生活で、「含蓄のある言葉」は困りものである。テレビやマスメディアのような「消費」しやすいことばに慣れさせられると、自ら深く 読む作業はしんどく感じられる。テクノロジーの革新によって「聖書」は活字として簡便に個々人の目の前にあるようになった。しかし「わたし自身が」読む作業を簡単便利にするものはないようである。それぞれが「読み手」として深くなるようなプロセスを積み重ねる、そのことが要請されている。
こんなことを書いたが、もう15年は前のことだ。
 今振り返って何を感じるか・・・。

 長田さんの新聞記事から僅か三箇所引用しただけなので、今読み返すと前後の脈絡を大分忘れてしまっていることに気付く。
 読み返してみて目に留まったのは「一方的な努力」 と言う表現が違う場所で繰り返されていること。

 かなり大雑把に読み替えると、以下のような構図に見えなくもない。
 日常会話の中に「言葉の体系」として堆積された『法律』『格言』『唄』『昔話』『○○のやりかた』等々、つまり社会が世代を超えて存続するために伝承される様々な「知恵」や「教え」や「決まり」、つまり「文化」と一括りで言われるところのものは、そのポテンシャルを「今」に最大限に活かすためには、単に文字情報を再現してなぞるだけでは到底無理だ。
 言葉を通して蓄えられた様々な文化財は、「読む作業」を重ね深めて行くことでしか、「今を生きる世代」の社会に活かすことは出来ない。
と、こんな風になるのではないか。

 ※何らかの「リフレクション」は次回以降に持ち越し。




2013年8月21日水曜日

真実と平和を愛しなさい

2013年8月18日(日)の主日礼拝にゲスト・スピーカーとして山口希生兄弟(プロフィール)を招きました。

山口さんのご両親とお姉さまも礼拝に参加され、また聖泉連合・荒川教会のA夫妻も参加され、プラスN.T.ライト読書会関係のMさんも加わり、いつもと大分雰囲気の違った礼拝となりました。



聖書朗読は、ゼカリヤ書7:1-14、8:16-19を司会をする筆者が朗読する。
その後奨励をする山口兄を簡単に紹介して、バトンタッチ。



以下は「真実と平和を愛しなさい」のアウトライン。




1.本日の聖句の歴史的背景について
①紀元前587年5月9日・・・『ソロモン神殿』がバビロンの攻撃により破壊され、消失。

  
②バビロンに捕虜として連行されたユダヤ人たちは、この神殿の消失を嘆き悲しんで、それから70年もの間、毎年5月に断食を行った。

③バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちは、ソロモン神殿に代わる新たな神殿の建設に着手した。その完成が間近に迫った紀元前518年が、本日の聖句の語られた時である。

2.ゼカリヤを通じて、主のイスラエルへの戒め

①神殿の完成が近づいたので、ユダヤの人々に一つの疑問が浮かんだ。
「今まで神殿の喪失を悲しんで断食を行ってきたが、新しい神殿もそろそろ完成するので、こんどはお祝いをすべきではないのか?」

②人々の問いに対する、ゼカリヤを通じての主の言葉は意外なものだった。
「あなたがたは、一体何のために断食をしてきたのか?断食を始めた、そもそもの原因が分かっているのか?」
  
③主によるイスラエルへの叱責
「あなたがたは、貧しい者、弱い者を顧みなかった。だから、あなたがたが苦難にある時、私もあなたを助けなかった。あなたがたが嘆き悲しむべきなのは、先祖たちが正義と憐れみを怠ったことではないのか?」

④将来のビジョン
「断食を祝宴に変えるために必要なことはこれである。真実と平和を愛しなさい。そうすれば、あなたがたの断食は祝宴の時となる」

3.断食を祝宴に変えた主イエス

①しかし、ゼカリヤを通じて語られた主の輝かしい将来のビジョンは、その後のイスラエルの500年間の歴史を通じて実現しなかった。ユダヤの地は次々と襲いかかる諸外国の植民地となり、民は苦しめられた。そして断食はずっと続けられた。

②しかし、ゼカリヤの時代から550年の後、主イエスはバプテスマのヨハネの時代まで続けられた断食をやめて、祝宴を始められた。そして「真実と平和を愛すること」を教えられた。

③だが、多くのユダヤ人たちは主イエスの平和の教えに従うことを拒んだ。「敵、つまりユダヤの地を支配する外国の帝国であるローマを愛しなさい」という教えを受け入れることができなかった。かえって敵への憎しみから、ローマとの絶望的な戦争に突入し、再び国と神殿とを失ってしまった。

4.わたしたちへの教訓

①主イエスの示された平和への道は、決して安易なものではない。かえって多くの困難や犠牲さえ伴うものである。

②ローマへの戦争に参加することを拒んだユダヤ人のクリスチャンたちは、同国人のユダヤ人から憎まれ、排斥されていった。私たち日本人クリスチャンにも、あるいは同様のことが起きるかもしれない。

③しかし主は、ご自分に忠実に歩まれる民を見捨てることはない。ここに信仰が必要とされる。

ちょっと難しいかな???、と思いましたが、礼拝後の感想としては「断食」のこととか「バビロン捕囚」と言う歴史的背景のこととかをまとまって聞くことが出来てよかった。
などという感想でした。