2014年5月30日(金)、午後2~3時半で「ヨナ書の表現よみ」と言う実験的催しをします。
巣鴨聖泉キリスト教会
ヨナ書は短いですから、読むだけなら10分もあれば終わってしまうでしょう。
それで『聖書テキスト』を読むと言うことがどう言う意味合いがあるのか、「表現よみ」をしてくださる渡辺知明氏と、小嶋とで、対談しようと言うことになりました。
テーマは「コトバ/ことば」を巡る対論、です。
渡辺氏は「文学のコトバ」、小嶋は「聖書のことば」
と言う、カタカナの「コトバ」とひらがなの「ことば」でニュアンスの違いを整理しながら対論を進めて行こうと思っています。
それで対論のポイントを探って行くために、「ことば/コトバ考:聖書と文学」 と言うシリーズを設け、当日の対論までのスパーリングをしてみたいと思います。
先ず初回は、過去に小嶋が巣鴨聖泉キリスト教会での「修養会」プログラムで書いた文章、現代《ことば》考、から振り返ってみます。(2回に分割)
「ことば」は空気と同じように大切なものでありながら反省することの少ないものではないだろうか。ちょうど(朝日)新聞紙上で《ことば》に関連のあるシリーズが掲載された。その中の二つの記事とどのようなクリスチャン的「対話」が可能か探ってみよう。こんなことを書いたが、もう15年は前のことだ。
先ず、詩人(長田弘)と演劇作家(平田オリザ)もともに現代人の《ことば》に対する態度を批判しつつ、あるべき方向性を探っているのだ、ということを見ておきたい。
A.長田弘『思いて取る』
「今の日本人は、言葉を、人間の配下のようにこき使えると考えて いるのではないか。しかし、実際は言葉の方が人間より大きいのです。 言葉の力が怖いから、すぐに言葉を放りすててしまおうとする」
「伝えるというのは、実は、自ら読むということです。伝えることの本質は、どう読むかという伝えられる側の一方的な努力の中にあります」
「この社会を生き延びるには、言葉の力をとりもどすほかない。 今の言葉はとても疲れた、脆(もろ)いものになっていて、 お互いの結びつきを表現できなくなっています。 それだけに、言葉を確かにしていく個々の一方的な努力が、 いっそう求められているのではないか」
(1998年1月6日朝日新聞夕刊、「伝えるということ②」)
長田さんの言いたいことは以下の三つに要約できるだろう。
クリスチャンにとっては、神の《ことば》である聖書の《ことば》との触れ合い方への警鐘として取り上げることができるだろう。
- 言葉と人間の位置・力関係の転倒、
- 読む側の努力を要請する「伝えられたもの」、
- 人間の絆を繋ぐ言葉の力を回復するために「言葉を鋳直す」ことが必要。
多量の情報を処理することを必要としている現代生活で、「含蓄のある言葉」は困りものである。テレビやマスメディアのような「消費」しやすいことばに慣れさせられると、自ら深く 読む作業はしんどく感じられる。テクノロジーの革新によって「聖書」は活字として簡便に個々人の目の前にあるようになった。しかし「わたし自身が」読む作業を簡単便利にするものはないようである。それぞれが「読み手」として深くなるようなプロセスを積み重ねる、そのことが要請されている。
今振り返って何を感じるか・・・。
長田さんの新聞記事から僅か三箇所引用しただけなので、今読み返すと前後の脈絡を大分忘れてしまっていることに気付く。
読み返してみて目に留まったのは「一方的な努力」 と言う表現が違う場所で繰り返されていること。
かなり大雑把に読み替えると、以下のような構図に見えなくもない。
日常会話の中に「言葉の体系」として堆積された『法律』『格言』『唄』『昔話』『○○のやりかた』等々、つまり社会が世代を超えて存続するために伝承される様々な「知恵」や「教え」や「決まり」、つまり「文化」と一括りで言われるところのものは、そのポテンシャルを「今」に最大限に活かすためには、単に文字情報を再現してなぞるだけでは到底無理だ。と、こんな風になるのではないか。
言葉を通して蓄えられた様々な文化財は、「読む作業」を重ね深めて行くことでしか、「今を生きる世代」の社会に活かすことは出来ない。
※何らかの「リフレクション」は次回以降に持ち越し。
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