既にご案内したように、
2014年5月30日(金)、午後2~3時半で「ヨナ書の表現よみ」と言う催しの下準備、のような記事です。
巣鴨聖泉キリスト教会
さて、現代《ことば》考、の後半となります。(2回に分割)
この段階(今から16年前)の平田の関心は、まだ「公共圏を司ることばは、『お互い分からないという前提』でなされる対話から紡ぎだされるもの」 と言う認識で推移していると言っていいだろう。B.平田オリザ『対話へ』
「ぼくは、人間と人間の対話を書きたい。家族や同僚といった、 互いに理解し合っている前提で交わされる会話ではなく、 お互い分からないという前提で始める対話です。
そもそも日本語は、他者に対して自己を説明する場面では非常に弱い言語なのでは、という感じがある。それでよかったんですね、ムラ社会では」
「常に違うものを見ているという前提にたった人が、いっしょに思考実験に参加し、 同じものを見た、同じ時間を共有したという確証をもって考えることが大事なんです。 サンテグジュペリに『愛することは、参加することだ』という言葉があります。 同じように思うことではなく、同じものを見ること。 そこから差異を確認し、なぜ違うのか、という対話が生まれるわけです」
(1998年1月5日朝日新聞夕刊、「伝えるということ①」)
しかし平田の演劇を通しての思考実験は今やアンドロイドと言う人工知能ロボット進化系と人間との対話へ、と進んでいる。例えばここやここ。
恐らくこれを演劇として楽しんでいる人は殆んどいないと思う。
観客は平田と石黒の思考実験にお金を払って協力している、と見た方がいいだろう。
全体としては「近未来」における人間とロボットの共存態を推理することに意義がある、と言うことを「了解する」ことで観客は何らかのリターンを見出しているのではないか。
それにしても一番きついのはロボットと共演させられる役者ではないか。
将棋ロボットに関して言えば、ゲームとしての「パラメーター」が限られているので、かなりのプロ高段者でも既に勝てなくなっている。ここ
しかし、演劇は日常言語空間を飛び越えた「虚構」の世界だ。
ロボットが果たして「演技」を意識できるだろうか。
このアンドロイドを使った思考実験は、そこを問うているわけではない。
進化して行くロボットに人間側がどう対応していくのか、を問うているのだろう。
役者がきついのはロボット相手には「演技が通じない」というところだ。
脚本を書く平田は別なレベルで楽しめるからまだいい。(彼は自分の思考空間で組み立てる創造性を発揮できる。しかし役者は反応の種類やスピードがひどく限定されたロボット相手には演技を工夫することはかなり難しい。ただのモノの方がよっぽど対話相手にできるだろう。自分の意図の中で動かすから。)
まさに「フィード」がなければロボットからの「フィードバック」はない。
ヨナ書は「ヨナ物語り」とも呼ぶくらい、その文学的ジャンルに関する疑問が前面に出てくる。
史実に基づく物語なのか(その場合高度にテーマ化、thematized、されている、と言わねばならないだろう)、それともフィクションなのか。
しかしヨナ書を解釈するにあたって(この書を『表現よみ』する渡辺さんにとって)、史実かフィクションかは「決定的な問い」ではないかもしれない。
恐らく「コトバ/ことば」を「使う」ということは、世界を対象化し、主観に統合する過程で、高度に複雑な作業を行なうことであり、それがヨナ書のような「かなり雄大な言語空間」として結晶された場合、それを読み解くことは様々な文脈を総合的に判断して、その意味を選択的に提示することになるだろうからだ。
(哲学的に過剰に聞こえたらすみません。ごく初歩的な考察を言っているに過ぎません。)
※次回へ続く。
0 件のコメント:
コメントを投稿