2012年11月30日金曜日

主に神学ブログ 2

さて前回シリーズ1は筆者が時々巡回しているブログを紹介した。
今回は新しくこの連載のために探索した「主に神学ブログ」になる。
交互に紹介して行く予定だ。

リサーチして見るとガチに「神学ブログ」それほど多くなさそうだ。
と言うわけで余りジャンルに拘泥すると紹介できなくなってしまうので、連載タイトルはあくまで目安と思っていただきたい。

しかしこんなことをやり始めてしまってから思うのであるが、ひと様のブログを勝手に紹介するのは土足で人の家に上がるみたいなことにならないかしらん、との心配もある。

失礼なことを言わないためにはそれなりに中身を見なければならないから多少時間がかかる。
まっどっちにしても「野次馬根性」に近いので、もしご本人に知られてしまった時はご勘弁を、と言うことにしておこう。

前置きが長くなった。

教会・礼拝・聖書・説教・伝道・神学
は日本基督(キリスト)教団柏教会の牧師、春原禎光(すのはら・よしみつ)先生によるブログだ。

かろうじて最後に神学が入っているのでご紹介しても構わないだろう。
2010年3月に始めたブログのようだから当ブログより少し古い位。まだ新しい。

一見して日本の教会の牧師が仕事を通して関心ありそうなことを色々取り上げている。
余り趣味とかすっ飛んだ話題はないようなので(ことに牧師のような)読者には安心して読めるブログではないか。

ご本人が読んでいる本のメモなどもけっこうあるので、書籍紹介のような便利さもある。
特に筆者のようなキリスト教関係書籍でも日本語のものはめったに購入しない者にとっては助かる。

記事の長さは適当で、余り混み入ったことは書かないポリシーのようだ。
それもブログ巡回する者にとっては助かる。

「ミニストリー」誌の八木谷涼子さんの記事を特集した『ミニストリーの八木谷』と言う連載があって、これがこのブログの持つ重要な目線の一つかもしれない。
教会運営の実際面に対する関心が高いと言えるだろうか。

牧師が書くブログは色々あるだろうが、このブログなどは日本の牧師がどんなことを関心持ちながら、考えながら、仕事をしているのかを垣間見ることのできる言ってみれば(こんな表現失礼かもしれないが)「定点観測」用ブログではなかろうか。
筆者にとってはアンテナの役割を果たしてくれそうである。

以上簡単な紹介で申し訳ありません。

2012年11月29日木曜日

誰に聞く?

今回は全くのずぼらなエントリーです。

何の脈絡もなく(全然ないわけではないが、それは筆者個人の中だけで、読者の皆さんには見当たらないと言うこと)以下のような疑問がわきました。

「仏教」について誰に聞くと言えば「中村元」を思いつく。
「イスラム教」と言えば「井筒俊彦」。
ではキリスト教と言えば誰に聞く。

もちろんお二人の名前を挙げたように、日本人でと言うことです。

筆者も(ブログにも少し書いたことがあるかもしれないが)お二人の各宗教の原典とも言える「スッタニパータ」と「コーラン」に(さーっと)目を通したことがある。

二宗教については門外漢の筆者でもお二人の碩学は何となく分かるような気がした。

実際筆者のような疑問を殆んどそのままネットに投稿された方がある。(ここをクリック

最初に「何の脈絡もなく」と書いたが、実は今日図書館から借りてきた河合隼雄と柳田邦男の対談本『心の深みへ』(講談社、2002年)の中で、河合がこんなことを言っている。

そう、日本人の自己実現ということを考えてもいいと思う。そして、日本の自己実現にとってもっとも重要になるのが、もっとキリスト教を知るということ。日本人はキリスト教のことを知らなさすぎます。(54ページ)
なんで河合隼雄かはここには書かないでおこう。
ちょっとだけ言えばもともと「面白い」と思っていたのだが、図書館で手ごろなものを探していた時たまたま河合の対談集(何冊もあるみたいだ)の一つに村上春樹が入っているのを目にした。それがたまたま面白かったので柳の下の何とやらで手にしたのがこれ、と言うわけ。

最近雑誌などで「キリスト教」が特集されたり、2012年新書大賞に「ふしぎなキリスト教」が選ばれたりしている。
筆者も実は「ふしぎなキリスト教」をわざわざ買って読んだ。
わざわざが不遜に聞こえるとあれなので説明しておくと、筆者が買う本は殆んどキリスト教神学書に限られている。しかも英書。キリスト教関係書籍であっても日本語のものは殆んど買わない。

と書くとやっぱり不遜か・・・。失礼。

てなわけで「ふしぎなキリスト教」はやはりわざわざ買ったのである。
で内容には大体においてがっかりした。
かなりな放談で終始している。(これが漫才だったらそれなりにスピード感があっていいのかもしれないが。)

そんなご時勢だからますます「キリスト教に関してだったら(日本人の学者だったら)誰に聞く」と言う疑問は切実なものがある。と筆者は思う。

誰も思いつかないのである。

仏教も、イスラム教もそれぞれ長い歴史の過程で今日まで一大文明圏を形成し保ってきた。
その文明的意義を把握しつつ原典に依拠しつつその真髄を語ることは並大抵の知見ではできないことだ。

キリスト教は古代ユダヤ教に淵源し、二千年に渡って今や地球上のほぼ全域でその影響を見るほどに拡がってきた。
その間幾つかの大きな流れ(カトリック、東方教会、プロテスタント)に分岐したので、総合的にキリスト教を論ずることは仏教やイスラム教を語ることと同じかそれより難しいことかもしれない。

もっとも河合の言った意味は西洋近代が作り上げた「近代的自我」との関係で「自己実現」を考えるためにキリスト教をもっと知らなければならない、と言うことだろう。

さて読者の方でこれは、と言う方がいたら教えて欲しい。

蛇足になるが、Christianity scholarで検索していたら、20 Most Influential Christian Scholarsをヒットした。
以前目にしたことがあったものだが、N. T. ライトもノミネートされているので載せておこう。



2012年11月26日月曜日

一騒ぎ

12月7日発売予定のA・H氏による物騒なタイトルの本の情報がTLに流れてきた。
(TLとはTwitterのタイム・ラインのことだ。)

あえて本のタイトルは伏せるが、一見して「何だとんでもないタイトルだな」と言うことでついリアクションしてしまった。つまりツイートしてしまった。

一応本のタイトル名で検索して、本の目次をチェックし、著者の背景も少し調べてからツイートしたのだ。

すると知己の間柄である某氏がリツイートとしてくれた。

それだけのことでよかったはずだったが・・・。

翌日のヤフーニュース記事にそのツイート内容の一部が拾われてしまった。

こちらは実名でツイートしているので、立場や肩書きまで入れられて。

この本の批判的なコメント群に加えられてしまった。

筆者がネット上に書いたもので「炎上」になったものはないが、自分のあずかり知らぬところで「炎上」させる方に入れられる格好になってしまった。

何か決まり悪い心地であった。

でもネット社会は刻々とホットな話題は移り変わる。
明日になればもう雲散霧消。

と言うわけには行かなかった。
その週の土曜日午後、電話が鳴って取ると、某週刊誌の者だという。

例の本についての電話取材であった。
あらまー。

また不意打ち・・・の感じがしたが、とにかく聞かれるままに色々答えては見た。
が、なかなか自分の思うようには意が伝えられなかった。

翌週その記事が載った某週刊誌の最新号が郵送されてきた。

一応内容をチェックして見ると、自分が取材されたものに関しては、確かに発言通りになっているところと、少しこちらの意とは沿わないまとめになっているところとあった。

さて12月7日はまだだが一件落着してくれるといいのだが。

2012年11月24日土曜日

明日の礼拝案内

収穫感謝 主日礼拝

11月25日 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 14:8-18
説 教 題 「成長を祝福される神」
説 教 者 小嶋崇 牧師


※礼拝後昼食会があります。

2012年11月21日水曜日

主に神学ブログ 1

神学、と短縮形で言ってしまうと宗教多元主義の文脈では厳密ではなく、不遜に映ってしまう危険がある。
キリスト教神学の短縮形とご理解いただきたい。

日本語で読める「主に神学ブログ」のトップバッターに選んだのは、東京にある教会の牧師職を辞されて今は北海道の余市で生活をなされている後藤敏夫先生の
どこかに泉が湧くように 
である。
(まだ先生と呼んだ方がいいのか、それとも最早そのような呼称には何の未練もないのか、筆者には何とも言えないのだが、ここでは便宜上「先生」と呼ばせていただく。)

もともとはこの「主に神学ブログ」の連載でも取り上げることになるだろう、
のらくら者の日記
に何本か北海道での生活ぶりや神学的随想などを寄稿していたのだが、ご自身でブログを開設される事になり、以後続々とこれまで書き溜めた(?)説教敲やら、随想やらをアップなさっている。

2012年2月に開設して、既に160本以上のエントリーがあると言う極めて充実したブログである。

筆者もその一部しかまだ読んでいないのだが、僭越ながら「牧師の先輩」として学ぶばせていただくことは多いと思っている。
もちろんそれは神学に限らない。

さて最近の記事で関心を持って読んでいるのは「『神の国の証人ブルームハルト父子』覚書」 シリーズである。

後藤先生が「井上良雄先生」と言うブログ・カテゴリーを用意しているように、大いに影響を受けている方であるその井上良雄氏の『 神の国の証人ブルームハルト父子』(新教出版社:1983)について後藤先生が30年前に書いた文章がブログに再録された訳である。
はじめに
Ⅰ 敬虔主義から出て敬虔主義を越える
 1 敬虔主義の特質
 2 決定的転回点——ゴットリービン・ディトスのいやし
 3 敬虔主義を越える特質
Ⅱ 終末論をめぐって
Ⅲ 父ブルームハルトに対する幾つかの疑問
おわりに
 という構成になっているので、目下連載の途中である。

筆者はバルトも殆んど読まないし、ブルームハルト父子についても殆んど知らないが、暫く前
FEBC 
で井上良雄氏の「ブルームハルト父子」についての講演のようなものを聴く機会があった。
(期間限定なので今は見つけられないようだ。)

後藤先生の「覚書」の文章から読み取れるのは、ブルームハルト父子が敬虔主義の伝統の中から、「神の国」の福音のリアリティーを牧会経験を通して回復していくプロセスである。

また余白に後藤先生自らの福音派の伝統に対する反省的省察が挿入されている。

このあたりのことは書かれたのが30年前とは言え、日本の福音派の現状を考える時、依然として有効であると思う。

少し長くなるが引用する。
それよりもまず私たち福音派にとって重要なのは、福音を「神の国の到来」と理解すること から、先に述べたような敬虔主義を越える父ブルームハルトの特質が生まれたということである。著者も言うように、これは敬虔主義には終末論がないというの ではない。「『最後の事物の問題』の再発見は、敬虔主義においてこそ起こった」(182頁)とバルトもその事実を認める。しかし、著者はすぐに続けて、 「ただし、それは、千年王国説という形における終末論であった」(182頁)と言う。この指摘は、敬虔主義的伝統に立つ教会の終末論に対して、今日でもほ ぼそのままあてはまるだろう。

現在福音派に支配的な終末論的関心は、主に究極的終末に至るシナリオをめぐるものであり、そこでは、今も含めた「歴史」は、 まったくと言っていいほどに関心の対象とはならない。「歴史」が問題となるのは、人々に救いの時を与える舞台としてであるか、終末論的シナリオの成就とし てである。もちろん、福音派諸教会の終末論を大雑把に一つに語ることは、歴史的にも神学的にも厳密さを欠くことではある。しかし、そのようなものが福音派 に支配的な終末論的雰囲気であることは確かなことのように思われる。

これは福音派の教会において、「神の国」について語られないということではない。もちろん、そういうことはあり得ない。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ 6:33)という御言葉が引用される機会は少なくない。しかし、多くの場合、それは、「神さまのことをまず第一にする」というように、「私」の生活の優先 順位のこととして語られる。それが大切なことではないというのではない。すべての神奉仕は人間奉仕であるべきだというような「気の効いた逆説」(18頁) が、活ける神への畏れを忘れさせ、単純にキリスト者としての生活があるということさえあいまいにするとしたら、そこで見つめられているものは一体何だろ う。だがしかし、私たちが「神さまのことを第一に」と言うとき、そこで言われている「神さまのこと」とは何だろう。神の国をまず求めるということが、ほとんど「私」の生活におけることだとすれば、神の義をまず求めるのは、神の国のためだろうか、それとも「みな与えられる」ためだろうか。(以上「覚書」5から。アンダーラインは筆者。)
先日久し振りに「日本福音主義神学会」の東部部会研究会講演に行って来た。テーマは「キリスト者と原発」である。
このようなトピックが選ばれたこと自体は喜ばしいことだが、神学的分析の切り口(「キリスト教の科学観」や「文化命令」)がいささか旧態然と感じた。
「主イエス・キリストの主権」や「神の国」と言う新約聖書の福音メッセージとは殆んど切り結ばれていなかったような印象を覚えた。


最後の一文は乱雑な感想で蛇足だが、日本の福音派も少しは後藤先生の30年前の分析より一歩進んだかもしれない、と言うことの例証として言及しただけ。


いささか尻切れトンボのような感じだが、とにかくまずは日本語で読める神学ブログの紹介をスタートさせたことでよしとしよう。

2012年11月20日火曜日

主に神学ブログ 序

先日「日本のクリスチャンブログ」と言う記事を投稿した。(ここ

中澤信幸牧師の中澤信幸的なクリスチャンブログ・ベスト10にいささか触発されて書いたわけだが。

その後中澤牧師からコメントを頂いた。

ぜひ、やってくださいよ、「小嶋牧師的クリスチャンブログ・ベスト10」。
と言うことであった。

暫く考えていたのだが、何せ「ベスト10」とか銘打つには余りにも巡回している日本語圏の「クリスチャン・ブログ」の数が少なすぎる。
少し違った切り口からでないと無理だな、と考えていた。

それで「聖書や神学」の話題が多いブログに絞ろうと思ったわけである。

とは言え「クリスチャンブログ」の中で「聖書及び神学」のトピックに専門化したブログが果たしてあるかと言うと、当方の情報不足もあり今のところなかなか見つけられないでいる。

いきおい自分が普段巡回しているブログを中心に紹介するこことなるだろう。

と言う訳で日本のクリスチャンブログ事情を少しリサーチしながら連載(になるといいんだけど)してみようかと思う。

何分最近は更新が滞っているのでゆるいペースになると思うが、お付き合い願えれば幸いである。

当分の間、自分がある程度知っていて巡回しているブログと、リサーチしながら見つけ出したブログを交互に紹介していければ、と思っている。(やりだしてから変わるかもしれないが。)

なお始めるにあたってお断りしておくと、中澤牧師が選んだブログで、筆者も良く知っているブログを取り上げないかもしれないが、それは「選に漏れた」と言うようなことではない。

最初に言ったように「聖書や神学」を主な話題としているブログに絞った結果だ、とご容赦願いたい。


2012年11月17日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

11月18日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:11-18
説 教 題 「主イエス・キリストの恵み」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(96)
ガラテヤ人への手紙(84)
・6:11-18 締めくくりの言葉
(A) 6:11-13 割礼を受けさせようとする者たち 
(B) 6:14-17 大事なのは新しい創造
(C) 6:18   最後の祈り

2012年11月14日水曜日

オウム真理教ノート 2012/11/14

オウム真理教に関しては三ヶ月振りくらいとなる。

読書の秋と言うことで最近また図書館に本を借りに行く機会が増えた。
村上春樹のものをまた読んでみようと思ってたまたま書架にあった「アンダーグラウンド」を借りてきた。

地下鉄サリン事件に遭遇した市井の人々の中から何とかインタヴューに応じてくれた人60人の「物語」である。
700ページ弱に及ぶインタヴューの一つ一つを読むのはそれほど苦痛ではなかった。

最後に村上自身が「地下鉄サリン事件」に対する、またこの本を企図した背景などをまとめた文章が載せられている。
さすがに文筆家、平易な文章でサリン事件の意義を掘り下げている。

村上がこのような本を企図した背景には、マスコミの事件の取り上げ方が一方的で、一面的なものであったことに対する違和感があったようだ。
オウム真理教は「悪」で、その被害に遭った市民、そして「私たち」は「善」と言う二分項的ないささかステレオタイプな処理の仕方に「これで果たして事件を終わらしていいのだろうか。風化させてしまうのではないだろうか。」と危機感を持ったみたいである。

オウム真理教ノート 2012/7/23で、森達也の『A』を取り上げたが、これも事件を別の視点から見てみようとするもので、その意味で村上の違和感と相通じる問題意識を背景としていると言えるだろう。

村上は巻末の「目じるしのない悪夢」--私たちはどこに向かおうとしているのだろう?で「自我の欠損」とそれを補おうとする「物語」の視点からオウム真理教と教祖麻原彰晃のことを書いている。
麻原彰晃という人物は、この決定的に損なわれた自我のバランスを、一つの限定された・・・システムとして確立することに成功したのだろうと思う。・・・彼はその個人的欠損を、努力の末にひとつの閉鎖回路の中に閉じ込めたのだ。(中略)
 オウム真理教に帰依した人々の多くは、麻原が授与する「自律的パワープロセス」を獲得するために、自我と言う貴重な個人資産を麻原彰晃という「精神銀行」の貸金庫に鍵ごと預けてしまっているように見える。(698-699ページ)
村上が見るところオウム真理教が投げかけている問題は「物語」と言うことだ。
 それがオウム真理教=「あちら側」の差し出す物語だ。馬鹿げている、とあなたは言うかもしれない。・・・
 しかしそれに対して「こちら側」の私たちはいったいどんな有効な物語を持ち出すことができるだろう?麻原の荒唐無稽な物語を放逐できるだけのまっとうな力を持つ物語を、サブカルチャーの領域であれ、私たちは果たして手にしているだろうか?
 これはかなり大きな命題だ。私は小説家であり、ごぞんじのように小説家とは「物語」を職業的に語る人種である。だからその命題は、私にとって大きいという以上のものである。(703-704ページ)
収録された60人の物語の中で特に重い後遺症を負った「明石志津子」さんと、亡くなった「和田栄二」氏夫人「和田嘉子」さんのインタヴューは村上にとってひときわ印象深いものだった。
その和田嘉子さんの記事の中にこういうくだりがある。故人の記憶をビデオで思い出そうとしている、と言うくだりだ。
 少しはビデオとかも残っています。スキー旅行の時とか、ハネムーンのときとかに撮ったやつですね。 そういうのは声も入っているから、もうちょっと大きくなったら[子どもに]見せてあげようと思っています。(中略)私も段々この人の顔の輪郭とか、思い出せなくなってくるんです。特徴があって、この人ね、眉のところのホネが角ばっていたんですよ。そういうのがね、最初の頃は手でこうやってなぞっているとね、はっきり思い出せたんです。それがだんだん思い出せなくなってきて・・・・・
 ごめんなさい。なんか・・・・・
 なんか・・・・・、肉体がないと・・・・・、肉親でも思い出が薄れていっちゃうんですね。肉体ないとね・・・・・。
喪失感が二重(肉体とその記憶)に迫ってくる部分だ。

記憶と言えば「私たち」と「地下鉄サリン事件」の関係はどうだろうか。
収録されたインタヴュイーの中にも事件のことを忘れ去ろうとしている人は少なからずいたようだ。
事件に遭遇せずマスメディアの記事として触れた大方の「私たち」はどうだろうか。

村上はサリン事件被害者に事件を物語らせることによって、それをよすがにして、忘れ去るのではなく記憶することを促しているようだ。
それは「私たち」現代日本を生きる者のアイデンティティーが漂流・喪失することに歯止めをかけ、事件を物語ることによって生ずる癒しを期待してのことなのだろう。

筆者はなぜ「オウム真理教ノート」を続けているのだろう。
別に自分の物語の中に取り組もうとしているわけでもないのだが・・・。

今のところまだこれと言った目的も動機もないが、まだ暫く続けていこうと思う。


2012年11月11日日曜日

最近購入した本

段々書棚も一杯になってきて、ここ1,2年に買った本は、机の上や床の上に放置されるようになってきた。
と言うことで新しい本を買うのはいささか控える傾向にある。

とは言っても全然買わないわけにも行かない。
暫く買わなかったがもう買う頃だ。

と言うことで今日紹介する本をアマゾン(米国)に注文した。
それまでは注文してから3週間くらいで到着していたと思うが、今回はどうしたわけか6週間もかかってしまった。

N. T. ライトのものは継続して買っているが、前回はHow God Became Kingを初めてキンドル版で購入した。
このプログでも紹介したがフェイスブック上での読書会用である。
How God Became King 読書会

HGBKのコンパニオン・ボリュームのようにして同時期に発刊されたのが、
N. T. Wright, Simply Jesus: A New Vision of Who He Was, What He Did, and Why He Matters.
である。

さすがに今回はキンドル版はやめた。
やはり読み返したりする時不便なのである。
紙媒体の方があっちこっちランダムに移動する時格段に楽だ。

ライトのものはもう一冊購入した。
N. T. Wright, Evil and the Justice of God.
献呈の辞が
In memory of those who died
in New York and Washington on September 11, 2001,
around the Indian Ocean in December 2004,
in New Orleans and the Gulf Coast in August 2005,
and in Pakistan and Kashmir in October 2005
となっているように、巨大スケールでのテロや天災を目撃した現代人の脳裏に去来する「悪の問題」を取り上げたタイムリーな本だ。

この本でも参照されている

Miroslav Volf, Exclusion & Embrace: A Theological Exploration of Identity, Otherness, and Reconciliation.
は筆者にとって2冊目のヴォルフの本だ。

William J. Abraham, The Logic of Evangelism.
はスコット・マクナイトの「キング・ジーザス・ゴスペル」が展開している“新しい”福音観とどの程度親和性があるか、ちょっと気になって購入してみた。
聖書的『福音』観ー二派に分離?でもちょっと述べたが、「(個人的)救い」を中心とする「福音」の見方に対してよりナレーティブな聖書理解に基づく「福音」の見方が新約学者の中に出てきている。
神学者であるアブラハムは「福音」に対してどのような切り口を持っているのかこの本から見てみるつもりだ。

Henri J. M. Nouwen, The Wounded Healer: Ministry in Contemporary Society.
は筆者にとって(意外に思われるかもしれないが)初めてのナウエンである。

ナウエンの名前は大分前から知っていた。
日本でも暫く前から多くのクリスチャンに読まれていることも知っていた。
しかしなぜか関心を持てなかった。

早速読み始めているが、簡潔な英語の文章に知性と温かみがこもっている、そんな印象である。


もう一冊
Henri J. M. Nouwen, In the Name of Jesus: Reflections on Christian Leadership. を注文したのだが、こちらは在庫切れだった。

Charles R. Ringma, Catch the Wind.
こちらは、「ヨーダー読書会」の三冊目のテキストである。「イエスの政治」「社会を動かす礼拝共同体」に続くものだが、「教会の変革」を示唆する本である。

以上6冊が新たに加わり、積読状態、途中まで読んだ状態の本たちと筆者の関心を引こうと競うこととなる。

2012年11月10日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

11月11日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:11-18
説 教 題 「神のイスラエル」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(95)
ガラテヤ人への手紙(83)
・6:11-18 締めくくりの言葉
(A) 6:11-13 割礼を受けさせようとする者たち 
(B) 6:14-17 大事なのは新しい創造
(C) 6:18   最後の祈り

2012年11月7日水曜日

尹東柱 詩の朗読会

二十七歳で獄死した
韓国の国民的詩人・尹東柱を謳う
(尹東柱、立教大学時代、1942年)

朗読:
女優 松岡みどり
チョン スソン(韓国語)
ペ ミヨン(韓国語)

特別出演
ビオラダガンバ演奏 品川聖 


日 時:2012年11月23日(祝・金)
    午後1時30分開場、2時開演
場 所:巣鴨聖泉キリスト教会
入場料:3000円(飲み物付き)

◎問い合わせ TEL/FAX 03-3392-2205
jadehottaer(アットマーク)i.softbank.jp

会場アクセスはここをクリック 
   

2012年11月3日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

11月4日 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 13:1-20
説 教 題 「捨て身の愛」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。