2015年1月31日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年2月1日(日) 午前10時30分


朗読箇所 Ⅰコリント 11:17-34
説 教 題 「起点と参照点」
説 教 者 小嶋崇 牧師
 
※聖餐式があります。

2015年1月25日日曜日

(個人対象)講座案内

教会HPにも案内していますが、こちらの方にも少し拡大版案内を。

聖書やキリスト教に、また宗教や信仰に、関心のある個人を対象とした講座を開いています。

曜日、時間、内容等は受講希望者と面談の上決めています。


(講座に使われている会堂隣の活水工房ティールーム)
しかし、大体以下の二つの種類に分けています。
 (1)キリスト教入門講座
 (2)クリスチャン入信講座
 
 
(1)キリスト教入門講座は、 「キリスト教とはどういう宗教なのか」、
 「聖書はどういう風に読めば分かるのか」、
 「教会」とはどんなところなのか、
その他キリスト教にまつわる様々な疑問や質問を扱います。

しかし、過去の例ですと殆どの講座受講者は「聖書についての学び」を選択しています。

また聖書の中でも殆どの場合が、新約聖書、その中でも福音書、その中でもルカの福音書の学びをしてきました。

上の方に掲げた疑問・質問は、その聖書の学びの中で折に触れ発することが出来ますので、やはり聖書の学びが、キリスト教入門講座の最も基本的なものだと思います。

またこの学びは特にキリスト教という「宗教に入る」ものとは違い、(一般の人が考える)キリスト教という宗教に関心がある方のためのものですので、客観的な学びであり、講座受講者に入信を勧めたり、特定の聖書解釈や教えを推奨したりすることはありません。
※もちろん講座を指導する牧師の個人的な解釈や考えは反映されることになりますが、その場合でも、他の解釈や考えとどのように違うのか、と言う比較の上で紹介いたします。

(2)クリスチャン入信講座は、
 「イエス・キリストとはどういう方か」、
 「クリスチャンになるとはどういうことか」、
など、主に「キリスト教への入信」を考えている方のための講座です。

※この講座を終了後、受講者の希望があれば「洗礼」準備に入ります。


以上ですが、平均して講座1セッションは1時間から1時間30分程度。

また曜日や時間帯は、週日(火・水・木・金)の午前中が多いです。

講座は無料です。(講師となる牧師への謝礼お礼についての心配は要りません。)

※(以上を読んで)ご関心のある方は以下のアドレスまでメールでお問合せください。
小嶋崇(牧師)、sugamo_seisen@yahoo.co.jp

2015年1月24日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年1月25日(日) 午前10時30分


朗読箇所 マルコの福音書 4:1-20
説 教 題 「半世紀を経る」
説 教 者 小嶋崇 牧師 
 
礼拝後、定時教会総会。

2015年1月18日日曜日

(1)うどんより歌

日曜夜はどちらかと言うとゆるくなる。

そのついでに今日は役員会があったのだが、帰っていく役員の一人とグルメ談義になり、「評判のラーメン」についてあれやこれや。

その余韻が残っていたのか、何気なくユーチューブで「美味しい立ち食いそばや」で話しかけて出なかった「鰹出汁のきいたツユ」の店を探していた。

多分これは、と言うのを探し当てた後、ついでにぶらぶら「うどん」も見ていたら・・・。

これに行き当たった。



もちろん最初はうどんを眺めていたのだが・・・。

終わり頃になって歌の歌詞が沁みてきた。
森へ行こう
いのちかがやく
自由な森へ
へーなかなか感じいい。

サウンドも心地いい。


誰が歌ってんだろ・・・。

でも、リワインドしても画面には歌のクレジットは出てこない。


と言うことで、少し歌詞で検索してみた。

大貫妙子「森へ行こう」

何か名前は結構聞く感じだけど・・・。

しかしこの曲がゲーム音楽の一曲だったなんて。


劇場版「どうぶつの森」オリジナルサウンドトラックのサイトで視聴できます。


あら、もう9時過ぎちゃった。

ではまたいつか・・・。

2015年1月17日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年1月18日(日) 午前10時30分


朗読箇所 コロサイ人への手紙 1:9-23
説 教 題 「御子は教会の頭(かしら)」
説 教 者 小嶋崇 牧師

 
コロサイ(13)/パウロ書簡の学び(130)

「いぶせき」考 2014クリスマス 追記

先日、クリスマス礼拝の様子を少しだけご紹介しました。

その後、演奏してくださった北方さんがご自身のサイトでご紹介くださったので、リンクをお知らせします。

クリスマス礼拝(巣鴨聖泉キリスト教会)を終えて

色々な角度から撮られた画像が8枚もあります。

建物や庭の様子、ステンドグラスのことなど、色々と解説や感想を書き加えてくださっています。

改めてありがとうございました。

2015年1月15日木曜日

(4)『作品』をめぐっての会話

昨年末、帰日中の在米・音楽関係の仕事をする友人と築地のカフェでの会話。

話がたまたま(か、ちゃんと脈絡があったかは覚えていない)指揮者のことに及んだ。

友人は面白い話を聞くのもするのも大好きな人物。

早速指揮者に関するジョークを紹介してくれた。

元が英語なので少し翻訳に手間取ったが・・・。

ここでは聞いた通りをお話しすると少し説明的になるので、ネットから入手した(多分同じジョーク)のリンクを貼っておく。

以下のように始まるので『検索』をかけてもいいかもしれない。
昔々、めくらのウサギと蛇がいて、お互いに近くに住んでいた。
ある気持ちのよい日に、めくらのウサギはうちに帰るために通りを軽い足取り跳ねていた時、誰かとばったりと突き当たってしまった。
要するに友人がこのジョークを紹介したポイントは、いかに指揮者が楽団員からは複雑な感情で遇せられているか、ということ。


そうだ、思い出した。

その時話していたのは「村上春樹」の作品について。

村上と小澤征爾の対談本があるが、その話題がいつの間にか「指揮者とは如何にエゴイストか」みたいな方向に行ったのだった。

友人曰く。(大分デフォルメすることになるが。)
指揮者はオーケストラを纏める時に、やたらと楽譜の背後にある作曲家の思想とか生涯のエピソードとか薀蓄を傾けることがあるが、私に言わせればそんなの無駄だ。楽団員はそんな指揮者の話など聞いてやしない。
(楽団員だってそれなりに音楽の勉強をしてきたんだ。今更現場に臨んで音楽理論について滔々と講釈を垂れるのを聞かされるのはかなわない。)
指揮者はただ、楽譜を使って、如何にその場で音楽性豊かに楽団に表現させるかだけ考えていればいいのだ。

とこの辺りで『作品』解釈を巡る会話になった。
(こちらは幾分茶々を入れるつもりで、)「あなたの楽譜の取り扱い方はポストモダンだね。」
(友人)「それはどういう意味だい。」
(筆者)「楽譜に作者の思想や歴史的背景を極力入れないで解釈すると言うのは、authorial intentionを否定する方向に見えるからポストモダンと言ったんだ。」
(筆者)「それに楽譜を独立した作品として(指揮者も含め)演奏者の自由な解釈に委ねる方向はreader-responseと言う点でもポストモダンだね。」
と言った会話が続いたのだが、それほど話は深まらなかった。

解釈を巡っては、聖書をホームフィールドにする牧師である筆者と、スコアを相手にする演奏家とかなり次元が異なるのかもしれないが、それなりに刺激されることがある。

その後も「ダブル・エクスプレッソ」を頂きながら会話は多岐に及んだが、いつの間にか夕食の時間となり、丸の内に場所を移してその夜は過ぎたのだった。



2015年1月13日火曜日

(5)マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか、②

さてマルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか①から一週間が経ってしまった。

今回は動画でのボヤーリンの解説を紹介することになっている。
まだ十分咀嚼出来たとは言えないが、「まあこんなもんだろう」的なものに結局なるであろう。


United Bible Societies編のギリシャ語新約聖書では16節を本文から削除しているわけであるが、ボヤーリンは明らかに「16節はもともと本文に含まれていた」との見地から(『陰謀説』を含めた)議論を展開している。

そのことを先ず肝に銘じておく必要があるだろう。

議論・解説は大ざっぱに言うと、2つの部分からなっている。

一つは7章全体(実際は1-23節の部分と思われるが)の受け取り方について。
もう一つは15節と17節を繋ぐべき16節の意義について。

※ボヤーリンは戦略的に「大きな文脈」から自説を展開するが、ここでは「小さな文脈(15-17節)」から見てみよう。

①小さな文脈(7章15節から、17節辺りにかけて)
外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。(新共同訳7章15節)
そして「消えた16節」が続き、17節
イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
では、とボヤーリンは問いかける。
一体「たとえ」はどこにあるのか、と。

ここで16節を見てみようではないか、とボヤーリンは提案する。
聞く耳のある者は聞きなさい。
ボヤーリンは、これが「たとえ」を導入する時の定型句であることを強調する。
それ故ボヤーリンは結論する。「15節はたとえだ。たとえに違いない。」

※さてこれに続く説明が理解に苦しむものとなるので、果たして読者の皆さんを納得させられるか甚だ自信がないが、とにかくやってみよう。

以下先ずはその部分を逐語筆記したたものを提示する。
The literal sense is exactly what it says in the book of Leviticus and the book of Deuteronomy.
A person does not become impure by putting things into the body but by the things that come out from the body.
And then he says, "Let him who has ears to hear hear," which means this is a parable and has a figurative meaning.
 「その後イエスは弟子たちに『まだこのたとえが分からないのか』(と言い)
and he explains, the things that go into the body don't make us impure but the only things that come out to TEACH US SOMETHINGS, namely, to teach us the MORAL and RELIGIOUS POINTS that when we think evil thoughts...when we do evil things, when we speak evil things, that we are behaving in a wrong way.
となっている。

ボヤーリンが言わんとしているのを推理してみると・・・、
(1)(15節の言は)レビ記と申命記にある通りの意味だ。
(しかしイエスのポイントはそこで終わらず、それを梃子にして・・・)
(2)イエスが指摘しようとした比喩的な意味は、(人の中に入るものではなく)人から出るもの・・・人を教える道徳的や宗教的教え・・・が「悪い思い・行い・言葉」となって出る時、それらは間違ったものとなる。

と言う風になっているようだ。

この辺でもうこんがらかってきたので、次回に譲るが、(1)の「レビ記と申命記にある通り」は何を指すのかがちょっと疑問だ。

恐らくレビ記11章、申命記14章の「汚れた動物」とそれに関連する「食物規定(カシュルート)」のことだと思うのだが、その場合
「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
という言はこれらの二つの箇所に「そのままある」のではなく、「字義通りの意味」として、レビ記11章、申命記14章に見られる「食物規定」が指すとおりのものである、と言うことではないかと思う。

補足すれば、・・・おっとこれでは歯止めがかからないのでヤメ。

次回に。





2015年1月12日月曜日

(3)野呂芳男著「ウェスレーの生涯と神学」売ります

このブログでは初めての「売ります」です。
※この記事をアップしたところ早速「買います!!」の手が挙がりました。既にウレマシタということで以下お読みください。


知人の古本ですが、
野呂芳男著「ウェスレーの生涯と神学」
(1975年、日本基督教団出版局)
4千円で!!


友愛書房では、8740円です。

野呂芳男の本を古本で手に入れようの調査では
 一番高値をつけているのは、『ウェスレーの生涯と神学』で、33.760円です。最安値でも8,000円。日本のウェスレー研究の基礎を気づいた名著で、ウェスレーに関心のある人なら一冊は持っておくべき本です。近所の古本屋で5,000円くらいで売っていたら、それは迷わず「買い」でしょう。
となっています。

どうやらこのお値段だとかなり「お得」かもしれません。

なお他に送料手数料(500円)を頂戴いたします。

お問い合わせは
sugamo_seisen@yahoo.co.jp
まで、
①氏名
②住所
③電話番号
を明記の上お申し込みください。





2015年1月10日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2015年1月11日(日) 午前10時30分

 
朗読箇所 マタイ福音書 28:16-22

説 教 題 「今クリスチャンであること」
説 教 者  小嶋崇 牧師


『現代キリスト教入門』(1)

2015年1月6日火曜日

(5)マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか、①

いやー、あらためて指摘される見てみると本当だね。
今まで殆ど気にも留めなかった。

先ず「マルコ福音書7章16節が抜けている」ことにどうして改めて気づいたのかを説明しよう。


先日マイケル・バードが以下のツイートをした。
で、リンクを辿ってみると(当たり前だが)バード/ウィリッツのユーアンゲリオン・ブログの記事であったが、ただ単に「ダニエル・ボヤーリンのモスクワでの講演動画」が置いてあるだけだった。

で、15分足らずの動画を見た。(面白かったが、腑に落ちない部分がかなり残った。)


と、長い話を短くすると、その後この動画を何度か繰り返し見たのだが、(ボヤーリンの「マルコ福音書7章16節が抜けているのは陰謀だ」説は置いておいて)、彼の解説はある程度説得的だが、イマイチ飲み込めないのである。(全体の流れを理解できないでいる、と言った方が正確だが。)


ここでボヤーリンの動画は一先ずおいて問題箇所を見てみよう。

(1)新共同訳聖書
7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
7:16 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。
7:17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。

(2)新改訳
新改訳では15節の脚注に「後代の写本に16節として、『聞く耳のある者は聞きなさい』を加える」とある。

新共同訳で「底本」、「異本」辺りのことについて追加すれば、
(3)United Bible Societies編のギリシャ語新約聖書
では、16節の欠落については「B」判定となっていて、(この判定を解説する)メッツガー編のA Textual Commentary on the New Testament、では
This verse, though present in the majority of witnesses, is absent from important Alexandrian witnesses... It appears to be a scribal gloss (derived perhaps from 4.9 or 4.23), introduced as an appropriate sequel to ver. 14.
と解説している。

つまり大多数の写本では「16節は欠落していない」が、「重要なアレクサンドリア写本で欠落している」ため、アレクサンドリア写本の信頼性を取った、と言うことである。

また欠落の説明として「写本筆者士による注記ではないか」とある。
写本筆者士が4章9節や23節のように、(本文では15節で無造作に終わって17節へと繋がっていくのを)、15節の後「聞く耳のある者は聞きなさい。」と(16節を)挿入して体裁を整えようとしたのではないか、との推察である。


※次回はボヤーリンの解説を取り上げてみよう。

2015年1月4日日曜日

(2)教会巡り2015年

教会巡りについては昨年第1弾を書いて報告いたしました。

今年もこの「教会巡り」が初めての投稿になりました。

で、先ずはご挨拶。

新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
この年末年始も、巣鴨聖泉キリスト教会は主日礼拝が3週連続でお休みとなりました。
 12月24日夜のイブ礼拝を挟む、12月21日と28日の2回。
 元旦礼拝を越えた4日(今日)。

では順にどの教会へ行って礼拝を守ったかご紹介。


12月21日は、日本キリスト教団滝野川教会へ。

滝野川教会は、いつもの散歩コースを少し外れる程度の場所にあり、散歩を兼ねた教会行としてはちょうどいい感じ。

ちょうどクリスマス礼拝でした。

会衆は普段より多いのだろうか、大体一杯という感じ。

ダークスーツ姿の熟年男性が少し目に付いた。

とにかく暖房がかなりで少しのぼせ加減。

おととし本郷弓町教会のクリスマス礼拝でも聖餐式があったが、こちらも。

阿久戸牧師の説教は聖書箇所のストーリーラインから場面を取り出し、聞く人に印象的に響くように適度に情景描写、説明、オススメを加える手法。

どちらかというと下町的なくつろいだ雰囲気の中にも「礼拝」に集中する感じ。


12月28日は文京区方面に反転して、日本キリスト教団西片町教会へ。

ここは昔教会学校に通っていた生徒の親が会員だったり、小嶋とは親戚のような関係のおばあさんが教会裏手に住んでいたり、と言うことで少しイメージはあったが、実際に行ったのは初めて。

(老朽化とまでは言えないが)貫禄の佇まいの教会堂に少し早くに着いた。

どちらかというと空席が目立つ。
山本牧師の説教もそんな雰囲気を感じさせる。
ちょうど葬儀があったばかりということで、やはり「寂しさ」の雰囲気が漂う。

(帰り際ボールペンのキャップを外して飛ばしてしまったのを気づかず帰ってきてしまった。)

帰り道、その裏手のおばあさんを訪問したがあいにく不在であったが、息子さんと顔を合わすことが出来、最近の消息を聞いて帰宅することが出来た。


1月4日はいろいろ迷ったがついに、日本キリスト教団巣鴨教会へ。

「巣鴨教会」は同じ「巣鴨」なので、時々間違って問い合わせを受ける教会で、前から関心はあったのだが、つい近過ぎて後回しになっていた。

礼拝開始時間が、10時15分と少し早いのもいい。(礼拝から帰ってちょうど良い時間に昼ごはんにできる。笑)

礼拝の雰囲気は昨年末に行った駒込教会に似ていた。
実に淡々とした感じ。

ここでも聖餐式に与ることができた。

帰り際、渡辺牧師とゆっくり会話が出来た。
初めてだったが最近の教会事情についても少し意見交換が出来た。

「今朝は礼拝がお休みで」と説明すると、「うらやましい」と返されたのは去年と少しちがっていた。


今回の教会巡り3回は、いずれも「日本基督教団」になった。
どうも典礼的に一番レベルが合う感じなのだろうか・・・。
今回も2回聖餐式に与った。

さて、各教会の礼拝に出席しながら、色々と筆者が奉仕する教会の今後のことを考えたり振り返るきっかけもいただいたように思う。

次の「教会巡り」は「新しいところ」を開拓するとなると、少し枠を広げなければならないなー・・・。