2015年1月15日木曜日

(4)『作品』をめぐっての会話

昨年末、帰日中の在米・音楽関係の仕事をする友人と築地のカフェでの会話。

話がたまたま(か、ちゃんと脈絡があったかは覚えていない)指揮者のことに及んだ。

友人は面白い話を聞くのもするのも大好きな人物。

早速指揮者に関するジョークを紹介してくれた。

元が英語なので少し翻訳に手間取ったが・・・。

ここでは聞いた通りをお話しすると少し説明的になるので、ネットから入手した(多分同じジョーク)のリンクを貼っておく。

以下のように始まるので『検索』をかけてもいいかもしれない。
昔々、めくらのウサギと蛇がいて、お互いに近くに住んでいた。
ある気持ちのよい日に、めくらのウサギはうちに帰るために通りを軽い足取り跳ねていた時、誰かとばったりと突き当たってしまった。
要するに友人がこのジョークを紹介したポイントは、いかに指揮者が楽団員からは複雑な感情で遇せられているか、ということ。


そうだ、思い出した。

その時話していたのは「村上春樹」の作品について。

村上と小澤征爾の対談本があるが、その話題がいつの間にか「指揮者とは如何にエゴイストか」みたいな方向に行ったのだった。

友人曰く。(大分デフォルメすることになるが。)
指揮者はオーケストラを纏める時に、やたらと楽譜の背後にある作曲家の思想とか生涯のエピソードとか薀蓄を傾けることがあるが、私に言わせればそんなの無駄だ。楽団員はそんな指揮者の話など聞いてやしない。
(楽団員だってそれなりに音楽の勉強をしてきたんだ。今更現場に臨んで音楽理論について滔々と講釈を垂れるのを聞かされるのはかなわない。)
指揮者はただ、楽譜を使って、如何にその場で音楽性豊かに楽団に表現させるかだけ考えていればいいのだ。

とこの辺りで『作品』解釈を巡る会話になった。
(こちらは幾分茶々を入れるつもりで、)「あなたの楽譜の取り扱い方はポストモダンだね。」
(友人)「それはどういう意味だい。」
(筆者)「楽譜に作者の思想や歴史的背景を極力入れないで解釈すると言うのは、authorial intentionを否定する方向に見えるからポストモダンと言ったんだ。」
(筆者)「それに楽譜を独立した作品として(指揮者も含め)演奏者の自由な解釈に委ねる方向はreader-responseと言う点でもポストモダンだね。」
と言った会話が続いたのだが、それほど話は深まらなかった。

解釈を巡っては、聖書をホームフィールドにする牧師である筆者と、スコアを相手にする演奏家とかなり次元が異なるのかもしれないが、それなりに刺激されることがある。

その後も「ダブル・エクスプレッソ」を頂きながら会話は多岐に及んだが、いつの間にか夕食の時間となり、丸の内に場所を移してその夜は過ぎたのだった。



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