2010年10月31日日曜日

教理的ケアー

先日ポストした「聖書と教理」、当教会の「宗教改革記念セミナー」のテーマであると紹介し、準備中の『舞台裏』の様子を紹介しました。

その後どうなったのか。
今日当日を迎え、先日のポスト内容とは大分趣向を変えてセミナーを行いました。

一読者から「ブログで紹介して」との要請もあり、ポスト内容とも大分変った結果ともなったので、その経緯も少し含めて、今日のポストといたします。

先日のポストでは、「如何に『聖書』と『教理』とを区別するのか」「なぜ区別するのか」に苦心している様子を書きました。
その後考えを進めて行くうちに、その読者のコメントを読みつつ、「なるべくシンプルに行こう」と思い直しました。

ある程度問題意識を共有しているのでなければ、こちら(牧師)側が説明に終始してしまう、と危惧したからです。言葉を尽くして説明したとしても、あまり理解してもらえないような内容であれば建設的ではない、と考え直したわけです。

それで、宗教改革時の「聖書と教理」の問題はバイパスして、礼拝では使徒の働きから、原始教会での「教え」の側面に注意を向けました。

導入は、ギリシャ語「エクレシヤ」が日本語で「教会」と訳されるようになるについての一くだり。
字義からは、教会は「教える会」、つまり「何かを教えそれを学ぶ集まり」と言うことになります。
明治期の宣教師がChurch をそう訳したのでしょうか。Churchと言う語はチュートン系民族に共通していて、ギリシャ語の「ギリヤコン」あるいは「キリヤコン」に源を持つようです。その意は「主の家」。建物を意味する語だったようです。
新約聖書では、教会は「エクレシヤ」、ギリシャ語で「集会」の意ですが、キリスト教的には「主に召集された『神の民』」です。
ここでは、日本語で「教会」が“教えを中心とした集まり”との印象を与えやすいのではないか、と指摘しました。
対照的に原始教会はどうであったかを、次に考察しようとしました。
使徒の働きでは、ペンテコステに聖霊が降臨し、主の弟子たちに加わった信者たちの様子が映し出されています。簡潔な描写から垣間見られる原始エクレシヤの姿は「主イエス・キリストに対する信仰を基盤にした〝生活共同体〟」。まだ神殿が破壊される前でしたから、「神殿」での礼拝と、共同体の生活における信仰生活とが、一体となっていた様です。
つまり「教える」と言う面は、ペンテコステ後の教会、「信仰と生活が一体となった共同体」の一側面であったことを指摘しました。

次に「教える」と言う働きはどのようなものであったかを考察してみました。
それは筆者の表現では、使徒たちによる、新しく加わったキリスト者たちへの〝教理的ケアー〟(使徒の働き2:42)ではないか、と指摘しました。
どんな教理的ケアーだったのでしょうか。
既にバプテスマを受けた信者たちですから、メシヤ・イエスに対する信仰告白の基礎に立つ「教え」であったでしょう。ペンテコステ説教の内容から逆に推測しますと、メシヤ・イエスが、聖書に証しされている通り、神の御心に従って受難と復活を通して贖いを成就されたこと、そしてその成就の上に、約束された「罪の赦し」と「御霊の賜物」が信者たちに受領されていること、を確認させる堅くする確信させるものであったと思われます。

と言うわけで、従来の「教理」と言うと何かお堅い学び、既に決まった内容のものを暗記する(教理問答書)、ようなイメージに傾きやすいのですが、そうではなく、教理的教えとは、もっと牧会的な配慮から出てくるものなのだ、と言うことを確認しました。

筆者にとって教理を教えると言うことは、信者の信仰育成ケアーなのだ、と言うのが今回の学びでの“新たな気付き”になった感じがします。


(その後の「学び」では、皆さんが「聖書」からの学びと、「教理的な教え」をどう整理されているかをお話してもらいました。筆者はひたすら聞く側に回りました。)

2010年10月30日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

10月31日 午前10時30分

説教箇所 使徒の働き 2:37-47
説 教 題 「教会と教え」
説 教 者 小嶋崇 牧師



《宗教改革記念セミナー》
10:30-11:10 礼拝「教会と教え」
11:20-12:00 学び「聖書と教理」

※当教会の「オープンチャーチ」いよいよです。
11月3日(水)、午前11~午後3時。
気軽にお茶しに来てください。

2010年10月29日金曜日

教理と政治歴史的文脈

最近読み出した、「松ちゃんの教室 ブログ」の10月28日エントリーが興味深かった。

「犠牲の論理」に警鐘と言うエントリー題で、

『殉教と殉国と信仰と』  高橋哲哉・菱木政晴・森一弘著  (白澤社発行・現代書館発売、1680円)

と言う本の、出版記念講演会の報告がなされている。
文章は短いが講演会の内容、そして質疑応答の様子も伺える。

筆者には講演者の高橋哲哉氏の名前は初耳なのだが、どうやら「靖国神社」に関する本で論壇に登場し、その後も政治的な発言、行動も行っている学者さんらしい。

殉教と殉国の類似性から、聖書の記述やキリスト教教理が、国家の戦争行為と言う政治的目的に援用された、あるいは援用される可能性がある、と言う関連の発言が幾つかなされたようである。

筆者が一番驚いたのは、
 講演の冒頭、イエスの十字架上の死を贖罪の犠牲としてとらえることに疑問を呈した同氏の主張に対して、「贖罪論はキリスト教信仰の核心だから譲れない」 との反響があったことを紹介し、「欧米の神学者の間にも批判的な議論が存在してきた。贖罪論なしに信仰が成り立たないかどうかは、もはや自明のことではな い」と反論。
と言う部分。(アンダーラインは筆者)

これはかなり踏み込んだ意見だと思う。

神学者間で「贖罪論」のキリスト教教義的中心性が議論されることは構わない。
(筆者の狭い知見では、「贖罪論」丸ごとそっくり不必要だ、と言うような議論は余り聞いたことがない。「贖罪論」の様態や構成要素のある部分が不適切であるとか、中心ではないとかの議論はよく耳にするが・・・。)

しかし、政治的な文脈で「イエス・キリストの死に贖罪的犠牲の意味があるかどうか」を云々することは、過去の政治的文脈での援用の事実を鑑みても、「政治学者(?)」の域を逸脱しているのではないか。

聖書(また教理)の援用・悪用は色々な時代の色々な問題にあった。(例えば奴隷制、あるいはこの前のポストで書いた「エコロジーと聖書的人間観の問題」、等々)
しかし、聖書の教理的解釈に政治的含意まで含めて問題にしなければならない、とも取れる提案は一つのポストモダン的聖書解釈の問題性にも繋がるものではないか。

聖書釈義の基本は、宗教改革者の原則で言えば、「聖書記者の意図した意味」であって、即ちその時代・文化の意味地平が「解釈の一定の巾」を提供する。
勿論、聖書は今を生きる者にも意味を持つものとならなければならない。
しかしそれは「読者」の「関心」を無原則に聖書テキストに読み込むことを容認するものではないと思う。

高橋氏はそこまでの提案をしているのではないにしても、「信仰者の解釈」を超えてまで、テキストの意味を政治的に方向付けようとすることは勇み足と言わねばならないのではないか。
これは聖書と言う文書が宗教者、非宗教者を問わず共有されている文書であり、不特定の聖書読者のテキスト解釈を制限しようと言う意図ではない。

松ちゃんの報告には、まだ幾つか示唆的な解釈問題が含まれているが、筆者としてはこのポストに取り上げるのは「贖罪論」云々までにしておく。

先日「公共政策と神学」と言うポストを書いたが、「松ちゃんの報告」で、キリスト教信仰に関連すること、しかも中心教義までもが、政治と言う「公共の文脈」で解釈される、あるいは「公共に提供する意味合い」を持つことを改めて考えさせられた。

筆者の属する「ホーリネス派」は第二次大戦中牧師たちが多く検挙されたが、治安維持法で検挙されるまで、キリスト教教理の政治的文脈性に殆ど気付いていなかった。
日本国家においてキリスト者は政治的にも少数者である。
が、少数者だからと言って政治的無関心であってはならないと思う。
本来のキリストの福音は「政治的含意」を濃く持っていたことを改めて考えてみたい。

※上掲書の書評(「追悼と顕彰は別のもの」松村由利子 歌人)を参考にされると少し内容が分かりやすくなるだろう。)

2010年10月28日木曜日

聖書と教理

10月31日は宗教改革記念日です。
今年はちょうど主日に記念日を迎えます。
当教会では大抵10月最終主日は、「宗教改革記念セミナー」として礼拝と学びの時を持っています。

今年のセミナーのテーマが「聖書と教理」です。
既にこのテーマは年頭に決まっていて、その時には学ぶべきことは大体掴んでいる、予想できる、とつい最近まで思っていました。
ところがいよいよその日が近づいてきて、事はそんな簡単ではないのでは・・・と思い始めているのです。

まー今頃そんなこと言ってももう遅いんじゃない。何しろ数日後に迫っているんだから。
確かに。
どうしたらいいんでしょ。

(「何をそんなに悩んでいるのかしら、この牧師さん。)
と言う読者の声に答えて、悩みを打ち明けましょう。
筆者の話を聞いてくださるうちに、もしかしたら何かヒントが掴めるかも知れませんのでお付き合いください。

①問題・・・筆者の浅はかな考え
要するに「聖書」と「教理」を簡単に区別して、「教理」より「聖書」が優先することを命題として準備していたのでした。

例えば「信条」「信仰告白」「カテキズム(教理問答書)」「公教要理」のようなの次元の公同文書になっている「教理」もあれば、神学者が著作する「組織神学」的な本の次元の「教理」もあります。
さらに牧師や、教会学校の先生が礼拝やクラスで教えている中にも「教理」はあります。

ですからそういうモノとしての「教理」は「聖書」と同一ではない、とは言えると思います。
問題はこれらの「教理」と「聖書」との関係から言って、「聖書」が優先する、と主張することにどれほどの意義があるのか、・・・が段々疑問に思えてきたのです。

「教理」は基本的に「聖書が“教えている”(と理解している)」ことを一定の枠組み(例えば「神・罪・救い」のような)に従って、簡潔にまとめたり、分かりやすく順序立てて解説しているもの、と言えます。
つまり「教理」は殆ど広義で「聖書的である」とみなされているのが普通なのです。
ただ宗派や教派の違いで、強調点や視点が異なるけれども、広義の「聖書的である」ことには相互に異論がない、のだと思います。
(勿論このような寛容な態度はつい最近までは能天気なものだったのです。何しろ教理的解釈の違いで対立・抗争するは、分裂・分離するは、大変な歴史を潜り抜けてきたわけですから。そんな歴史を考えると、今や「教理」に命をかける信仰者は少数派になっているかもしれませんね。)

②問題・・・ではなぜ区別するのか
口で説明するのはある程度できるのですが、聞く人に納得してもらうのはかなり難しそうなのです。でもまあトライしてみましょう。

「聖書(箇所)」を“解釈する”、と言うことを考えてみてください。
実は聖書を解釈する、あるいはもっと簡単な言い方でも良いですが、聖書を読むと言う場合、私たちは実に様々な読み方をしています。「教理的解釈」はその一つです。
創世記で「族長物語をはらはらどきどき読む」こともあれば、「創造論を解釈する」こともあれば、「アブラハムの信仰を教訓にする」こともあります。
「詩篇」で「慰め」を受けたり、「ヨブ記」で「不条理な苦難」を文学的に味わったり、「福音書」で「イエスの宣教生涯」を学んだり、「パウロ書簡」で「義認や教会」の教理と「信仰者の生活」の倫理を学んだりします。

つまり聖書は「教理化する」以上の様々な要素を孕んでいます。
これが先ず一点。

そしていよいよ本論と言うか、筆者の悩みの中心部分に入って行きますが、ちょうど宗教改革原理である「信仰義認」を取り上げてみます。
「信仰義認」は特にパウロの書簡である「ローマ人への手紙」と「ガラテヤ人への手紙」の中心教理とされてきました。実際「義と認められる」(ギリシャ語のディカイオス、ディカイオスネー関連語彙)と言う表現が用いられています。
ここである読者が(義認の)教理的関心で「ガラテヤ人への手紙」を読む場合、既に「義認の教理」をガラテヤを基礎に教えられている方は、その枠組みで、“従来の教理的理解”を補強するように該当箇所を理解するようになる、と考えられます。
ところがガラテヤ人への手紙には「異邦人」が「ユダヤ人のようにならなければ、正式な神の民の一員ではない」、と言う実際問題が背景にあることを、単なる教理にまつわる歴史的エピソードとして読み過ごす危険があります。
義認の教理だけを「歴史的文脈から抽出してしまう」危険です。教理が抽象的な教えになる危険です。

これは一例に過ぎません。

聖書は創造から新創造に至る一大歴史ドラマです。
アブラハムとその子孫、全民族、全被造世界の贖いの完成を目指す現実のドラマです。
もし教理が聖書を源泉とするものならば、歴史的背景を捨象するのではなく(非歴史的抽象的真理に転化する傾向)、その歴史的背景と神の民のドラマの準備と完成を展望する物語を内包する必要があります。

そう言う訳で「聖書」と従来の論理的・抽象的に叙述された「教理」は今のところ緊張関係にある、と筆者は見ています。
「教理」はもっとこの「神の贖いの一大ドラマ」に寄り添った叙述に向かうべきものだと思います。

さて、何かしら筆者がもどかしく思っている点が通じたでしょうか。
それとも、「何のことやら・・・」でしょうか。
まっ、まだ二日あるのでさらに考えてみましょう。

ここまでお付き合いくださりありがとうございました。

(※最近手にした、Kevin J. Vanhoozer, THE DRAMA OF DOCTRINE: A CANONICAL-LINGUISTIC APPROACH TO CHRISTIAN THEOLOGY, 2005.はどうやら筆者の思っている方向で展開しているようです。)

2010年10月27日水曜日

2010オープン・チャーチ

巣鴨聖泉キリスト教会
オープンチャーチ 
アーツ&クラフツ

11月3日(水) 11:00AM~3:00PM

ちょうど一週間前になりました。

会堂のステンドグラスや、展示される俳句や写真、お花。

隣の活水工房では、工房主手作りのステンドグラス入りの扉、サンドブラストによる花瓶やカップ。

点数は少ないですがご鑑賞ください。
(即売品も多少ございます。)

時間内はご自由に出入りください。

よろしければ六義園、古河庭園(ちょっと遠いか?)等、
散歩がてらお立ち寄りください。

ティーとお菓子でおもてなしさせていただきます。

2010年10月26日火曜日

ネガティブ・イメージ

候補者が正々堂々と政策を論じるような“理想的な(?)”選挙戦に対し、相手候補者の粗を探して、そこに攻撃を加えるような選挙戦をネガティブ・キャンペーンと言います。
最近の選挙はこう言った傾向が強くなる傾向にあるようです。
マス・ミディアの注意を惹きやすいのは、難しい政策の説明ではなく、相手にダメージを与える減点戦略だからでしょう。

いや、今回は政治の話をしようというのではありません。

最近「アメリカの新世代キリスト者」を取り上げたり、それとの関連でイマージェントと呼ばれる青年層キリスト者のことを取り上げたりしてきました。

一般的に北米青少年層がキリスト教に対して持つのは「ネガティブ・イメージ」であることも指摘しました。

このネガティブ・イメージの矛先は、実は「教会」であったり、「キリスト教」であったりすます。
しかし、イエス・キリストに対するものではないことが殆どです。

それで、例えば
Dan Kimball, THEY LIKE JESUS BUT NOT THE CHURCH: INSIGHTS FROM EMERGING GENERATIONS.
のようなタイトルの本が注目を浴びるのだと思います。
(※著者は教会に対してネガティブな人ではなく、教会に対してネガティブなイメージを持つ青少年層の実態を報告し、教会がもっと彼らに関心を持つよう働きかけている方です。)

このような既成宗教、及び既成宗教団体に対する「ネガティブ・イメージ」は、民主主義世界において政治から始まり、他の多くの権力集団、既得権益組織に広く及んでいるようです。
一面から見れば個人主義の裏返し、とも取れるでしょう。
個人は宜しいが、組織になると堕落する、という構図で物を見る見方です。

イエス・キリストは宜しいが、彼の教えを既成化したキリスト教やそれを組織化した教会は信用ならない、と言うイメージが作られやすい時代だと思います。
そういう中で教会は伝道しているのではないでしょうか。

いえ、これは北米に限らないと思います。
日本でも似たようなネガティブ・イメージは結構浸透していると思います。
「イエスは好きだが、教会は嫌いだ。」
「キリストは尊敬できるが、キリスト教は窮屈だ。」
と言ったような言われ方を聞いたことがないでしょうか・・・。
特に昨今の「キリスト教不祥事」が一般メディアでも取り上げられ、ネガティブなイメージは強化されているのでは、と懸念します。

イエス・キリストその人と教会の間に楔が打たれたのは今に始まることではありません。
例えば新約聖書学においても「(歴史的)イエス」と「(弟子たちがそのイメージを創出した)キリスト」に分裂されたりします。
また「イエス・キリスト」の教えはシンプルでユダヤ的なものであったが、パウロはギリシャ的な思惟を駆使して、それを救済的世界宗教に仕立て上げた、などと言う説明は今でも通俗的に使われているようです。

確かに「教会で人に躓く」ことはしばしばあるでしょう。
確かに「(変な、偏った、愛のない、戒律的な、etc.)キリスト教」を見せつけられて、信仰をあきらめてしまう人もいるでしょう。

しかし、キリスト者、信仰者はその事実を悲観して放置しておくわけには行きません。
特に、「キリスト」と「教会」の一体性を心底追求している方々は、簡単に「イエス・キリスト」と「教会」の間に楔を打ち込まれて、「やっぱり教会は人の集まりだから、罪人の集まりだから」と変に納得したままであってはならないでしょう。

コリントの教会を考えてみてください。「これでもキリスト教会なの?」と後ろ指差されてもおかしくないくらい、問題の多い教会でした。
しかし、パウロはそのコリントの教会を「神の宮」(Ⅰコリント3:16-17)、「キリストの体」(Ⅰコリント12:27)と呼んで憚らなかったのです。

昨日のポストで「福音派」の現状が厳しいことを指摘しましたが、その現状を非難するだけでは充分ではありません。
自浄能力が働くことを期待しますが、仮にうまくそう行かなかったとしても、「教会」をあきらめる理由にはなりません。
反省と悔い改めの叱責・矯正・指導が教界指導者たちから出てくることを期待したいですが、たといそうでなくても「教会の建設的作業」は進められなければなりません。
何しろ「何一つ傷のないキリストの花嫁」としての希望が将来のために担保されているからです。

キリストとその教会のために、
あきらめるな、
ひるむな、
信仰・希望・愛を持って労苦せよ。
と、そんな風に肝に銘じたいと思っています。

2010年10月25日月曜日

福音主義と宣教

福音主義(Evangelicals)を定義するのは難しい。

「自由主義」に対する「福音主義」と言う場合は、二十世紀の「根本主義(ファンダメンタルズ)」を巡る、主に北米での神学論争として歴史的に跡付けることが出来る。
この際「福音主義」とは、この神学論争から「根本主義」側の「反・知性主義」「文化的隠退傾向」に対して異議申し立てをした次世代の指導者たちで、最初は「新・福音主義者」と呼ばれた。
カール・F・H・ヘンリーはその指導者の一人だった。
彼は確かビリー・グラハムが創立した「クリスチャニティー・トゥデー」誌の初代編集長であり、その後の福音主義のオピニオン・リーダーの一人であった。

もう一つ福音主義を定義する要素に「福音」内容に対する一定の理解がある。
これは歴史的にはもっと遡る。
多分宗教改革の「救済論」を軸にした神学的論争に遡り、その後「個人的、実際的信仰」を強調した「敬虔主義」の時代を経過し、「個人的回心」を強調したリヴァイヴァリズム運動へと繋がっていく流れである。

二十一世紀を迎え、福音主義に基づくグループであると理解されてきた、日本でよく用いられる表現である「福音派」が段々分かりにくい集団になってきているのではないか、と言うのが筆者の率直な感触である。
ある意味「私、福音派です」と言われても安心できない。神学的にも、実践面にしても、本当に歴史的福音主義が固守してきたバックボーンを持っているのか疑われるような、無様な、あるいはプラグマティックな、臭いのする人物やグループが結構紛れ込んでいるように思うからである。

筆者は、福音主義自体が永久不変の神学思想を内包しているとは思わない。
良い意味での宗教改革主義をDNAに持っているのが福音主義だと思う。
聖書において示されている「イエス・キリストにおける神ご自身の啓示」に絶えず基づいて自己省察し、必要とあらば長年守ってきた伝統でも改変する勇気を持つ、それが良い福音主義だと思う。

繰り返すが、ただ「福音派」や「福音主義」を名乗るだけでは主の公同教会の一部として通用する程現状は甘くない。相互に吟味されなければならない。
神学的正統主義をチェックするだけでは不充分である。
その行いをじっくり見て、何が行動基準となっているか、判別しなければならない。
伝道に熱心であるとか、教会が“成長”しているとか、現象面だけで判断できない。
その様な行動を衝き動かしている原動力がどこから来るのかをシビアーに見るべき時代になっている、と言うのが筆者の目下のスタンスである。

ちょうど時期を同じくして二つの「福音主義」のイベントが開催された。
①「フランクリン・グラハム大阪大会」
The Christian Postによると「1,765名の決心者」が与えられ、「30,782名の来会者」があったと報道されている。
ご存知のように四年前の「沖縄フランクリン・グラハム大会」では「反対声明」まで出された中で決行されたが、今回はそのようなことはなかったようである。

②同じくThe Christian Postによると、「ローザンヌ国際宣教会議」で、クリス・ライト師(先日もポストで取り上げた、「N・T・ライト」ならぬ「O・T・ライト」師のこと)は「現在、宣教の障害となっている最大の問題は偶像崇拝」だ、と講演したようである。
師が挙げた三つの偶像は、「権力とプライド」、「人気と成功」、「富と貪欲」である。

当ブログの読者諸氏、ひいては「福音派」を自称する方々、このたまたま重なった二つのイベントの意味合いを良く考えてみようではないか。そして学ぶべきを学ぼうではないか。

2010年10月24日日曜日

公共政策と神学

筆者は以前「南北問題」
と言うポストで、「貧困の問題」は富める側の慈善によってではなく、社会正義の実現と言う視点で見るべきではないか、と示唆したことがある。

巣鴨聖泉キリスト教会は、二十年くらいに渡って「国際飢餓」の問題と取り組んでいる。
取り組んでいる、と言っても組織的な支援とかそういう取り組みではない。
もっと日常レベルで、この問題を意識化する試みである。

毎月第二日曜日を「食の日」と定め、昼食会を持っている。
そして「共に食する」機会を得、食前の祈祷で「飢餓に苦しむ人々」を覚えている。
さらに低予算の食事メニューを工夫すること(しかし同時においしく食べる努力)、そして「食の日募金」を設定し、毎月集めた募金を「国連世界食糧計画」などに送金している。

宗教者、非宗教者の別なく、飢餓に苦しむ人のための善意の募金は、個人でも、組織でも、多くの人が関わっていることと思う。
また納税者としてもODA(政府開発援助)を通して間接的にこの問題に関わっている面もある。

さらには、通称MDGsと呼ばれる、国連による貧困に伴う問題解決のための「ミレニアム開発プログラム目標」"We Can End Poverty 2015"の取り組みもある。

しかしこれらの多くの取り組みをもってしても「貧困撲滅」の実現可能性は現実的に見てそう簡単ではない巨大で複雑な構造的問題であるとの認識がある。

温暖化によるオゾン層破壊の原因とされる二酸化炭素排出規制が国際的な枠組みでアプローチされているように、発展途上国の貧困撲滅も、似たような国際的公共政策課題として、人権と国際社会正義の法的枠組みで、先進国に対する責任分担や規制、と言う形で構想されている。

このような個人や国家の善意や任意の支援を超えた、正義の実現を要求する法的規制の枠組み作りを構想しているグループの中に、哲学者、経済学者、公共政策論者、と並んで神学者がいることを最近発見した。(Absolute Poverty and Global Justice 「絶対的貧困と地球大の正義」

筆者にとって興味深いのは、まさにこのような巨大な現実問題の解決を模索するチームの中に「神学者」が複数も加えられていることである。
世俗化によって宗教は公共分野からは撤退を余儀なくされるか、と見られた時代があった。
しかし“脱・世俗化時代”の今日では、宗教は世界規模の問題解決に欠かせないメンバーと認識されている。そのことに感銘を受けたのである。

但し脱・世俗化時代に宗教家が自己の信仰的立場でどのように現実問題に立ち向かうか、しかも民主主義社会の一市民として貢献するには、それなりの手続きと言うか、抑制が必要である、とされる。しかし、逆の視点から言えば、世俗の専門家だけでは巨大な現実的道徳的問題には立ち向かえない、宗教者を必要とする大きな時代的局面を迎えているとも言える。

最近、ユルゲン・ハーバーマス(Jürgen Habermas、Jürgen Habermasドイツを代表する社会哲学者)をまた読み始めている。
An Awareness of What is Missing (2008)
Religion and Rationality (2002) 
(上記のリンク著作は未読)

筆者が米国留学中読んでいた「ハーバーマス」にはなかった「宗教」との積極的対話が最近の著書に顕著である。
啓蒙主義が築いた「世俗化した理性」の権威を破綻から守りつつ、今また脱・世俗化時代の問題群に直面して、この偉大な哲学者は「理性と信仰の対話」の必要性と、その対話可能性、とを模索している。

面白い時代になってきた。

2010年10月23日土曜日

紹介本の更なるディスカウント

先日「本の紹介と推薦」
でご案内した、

ポール・マーシャル「わが故郷天にあらず」

訳者からの
更なるディスカウント価格
でのご提供のご案内です。

重版(正価税込1680円)
価格:一冊1500円。
送料:無料
詳細は上記ポストにてご確認ください。

明日の礼拝案内

主日礼拝

10月24日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 3:1-29
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 3:22
説 教 題 「神の恩寵の二段階」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(49)
ガラテヤ人への手紙(37)
・律法の暫定的・限定的役割 3:19-22

※10月31日、「宗教改革記念セミナー」。短い礼拝と学びの時。
※当教会の「オープンチャーチ」、11月3日(水)、午前11~午後3時。気軽にお茶しに来てください。

2010年10月22日金曜日

「礼」と「行」

散歩の途中、とある寺の入り口で見かけた光景。

自転車に乗ったお爺さんがその寺に通りかかり、自転車を降り、帽子を取り、寺に向かってしばし手を摺り合わせ拝礼。その間約十秒弱。

この本郷通りは、寺が次々並んでいる。
その時パッと見た光景なので、このお爺さんが次々寺の前で同じことをしたかどうかは分からない。たぶんその寺だけだったのだと思う。お爺さんは多分その寺の檀家か何かなのであろう。

毎日ブログを更新するためには、常に「ネタ」になるものを探している必要がある、と思っている。
この散歩時の光景は、「はて、これをブログに何と書こう」と言う思いを抱かせた。

すぐ思いついたことは、キリスト教の「礼拝」と、このお爺さんの「拝礼」の対比。

みんなして「同じ場所」に「同じ時間」に集まり、「一定時間」行う「公同の礼拝」に比較して、何と簡単で短い、しかも単独で行う「拝礼」であろうか。
これも一つの「礼拝」と考えると、キリスト教の礼拝は実践するのにかなりなエネルギー、行動力を要するのだなー、と改めて感じ入った。

帰ってきて、「拝礼」か何かでネット検索してみた。
そうしたらこんなのがヒットした。「日本で一番短いお祭り」
さて、お祭りの内容だがそれはただ一つ。「礼」だ。
時間になると、参加者が記念碑に向かって礼をする。その間10秒足らず。シン、と静まりかえったと思うと同時にお祭りは終了する。
何とも簡単な「お祭り」ということだが、お爺さんの簡単な「拝礼」と共に考えさせられた。

キリスト教の礼拝は、忙しい複雑な人間関係の中を縫って生きている信徒たちにかなりな犠牲を要求しているとは言えないだろうか。
もちろんだからと言ってもっと簡便に、“宗教サービス利用者”の側に立って礼拝を考えて見たら、と言うのではない。
主日に集まるのも、一時間くらい時間を共有して礼拝するのも、それなりの根拠がある。

ただ普段の生活の中でどれだけ「礼拝」を提供しているだろうか、と言うことを考えさせられた。
勿論熱心な信徒には「聖書通読」や「デボーション」の習慣がある。
しかしそれだとちょっと時間がかかる。

一日のほんのちょっとした時間に心を神に向ける「礼拝」の形とは何だろうか。
自分で工夫している人たちは勿論いるだろう。
ただキリスト教の中でもプロテスタントの礼拝は「説教中心主義」の問題があり、「脳内礼拝」に傾きやすいのではないか。

何か「手を摺り合わせる」「一礼する」と言ったような、“簡単な所作”が礼拝に繋がるようなものをプロテスタントは持っているだろうか。

そんなことを考えていたら、カトリックの門脇神父が仏教徒と一緒に「カトリックの聖地(スペイン)への巡礼の旅」をした報告(「行の体験が心を一つに」)がネットにある、と言うツイートが流れていたのを思い出した。

昨日のポストで「神道」や「仏教」との宗教対話への関心を書いたところであったので閃くところがあった。
門脇神父は禅とも深く関わっている方で、カトリックと禅との間での「行」に関する共通性を見ている方のようである。


これを読んで感じたことも「礼」のことと似通っている。
プロテスタントの霊性はやはり「脳内霊性」的ではないか、と言うこと。
個人的に聖地旅行する方は多くいるが、「巡礼」とか、とにかく身体を伴う「行」に当たるものが殆どないような気がするのだが・・・。
まあ「礼拝」がある意味で「行」になっている節もあるかもしれないが・・・。

「礼」と「行」。ポストモダンの宗教性・霊性を考える上で何かヒントとなるものがあるのではなかろうか、と考えた一日でした。

2010年10月21日木曜日

キリスト教とブログ

ブログ界にデヴューしてまだ四ヶ月も経っていない。

ポスト数は、ここのところ毎日更新しているおかげで百を越えた。

自分がブログを始める前は、他人様のブログにコメント何てことは殆ど思いもしなかった。
しかし、やり始めて、段々とポストにコメントが残されるのを面白く感ずるようになった。
それで自分も段々気軽にコメントするようになった。

ブログによりそれぞれだが、「コメントに返答する」ブログ主は日本人のブログでは割合多い。
と言っても、筆者が回覧するブログの数はたかが知れているし、範囲も狭い。
でも、自分の書いたコメントに返答があると、それだけでも嬉しいし、何より「どれだけ通じたか」と言うブログ主とのコミュニケーションの手応えの程を垣間見られるので、それがもっと嬉しい。

それで、筆者もなるべくコメントには返答するようにしている。
今ぐらいのペースだったら充分余裕あるから大丈夫だろう。
人気ブログでコメントが多いところは大変だろうな。
と言うより「掲示板」のようになって、書き込む人たちが相互に討論するような展開になったりして、最早ブログ主は置いてけぼりみたいになったりもするのかしら。

最近日本人のキリスト教、クリスチャン、系統のブログで面白そうなものはないかとサーチしている。筆者、読む本は殆ど英語、回覧するブログもやはり英語のものが多い。
キリスト教に限ると、英語圏のブログの種類や情報量は圧倒的に勝っている、と思う。
ただ日本のキリスト教界を知るには、日本人キリスト者のブログが必要だ。

先日どこかで「福音派の牧師」のブログ発信が多い、と言ったことが書かれていたっけ。
筆者のブログで名前を出したことのあるブログはせいぜい三つか、四つくらいだろう。
名前は出していないが他に回覧しているブログは同じくらいある。
でもそれでは絶対数が足りない。

筆者が探しているのはどんなブログだろうか。
・ある程度内容にバラエティーがあるブログ
・神学や本の紹介があるブログ
・キリスト教界の動向をキャッチしているブログ
・聖書学関係で割合深いブログ

その他にも、「神道」や「仏教」など、日本の宗教的・文化的伝統を、キリスト教的視点から扱っているブログや、対話しているブログなども探してみたい。

読者の方で、そんなブログやサイトを教えてあげよう、と言う方はコメントください。お願いします。

2010年10月20日水曜日

ディスペンセーショナリズム

円高とかけて、読書の秋と解く、その心は。

アマゾンに注文する本が多くなる。

すいません、全然なぞかけになっていませんね。

先日「アメリカ新世代キリスト者」①で紹介した、レイチェル・エバンスの本を早速購入しました。

レイチェル・ヘルド・エバンス「モンキー・タウンで進化する」(ゾンダーバン、2010)

著者は生まれたのは、アラバマ州バーミンガム市だが、13才から大学卒業(そして現在も?)と、育ち暮らし、学生生活を送ったのが、テネシー州デイトン。
つまり、かの有名な進化論を巡って神学論争が戦われた「スコープス・トライアル」の舞台となった町。

あのポストでは「ドロップアウト」と表現したが、正確には「信仰遍歴」、しかもかなり際どいところ(信仰喪失寸前)まで行ったようである。
とにかく、アメリカの保守的福音主義キリスト教の「文化的縛り」がこれほどまでか、と言う描写が次々出てくる。
この本は、そう言う訳で「信仰遍歴回顧録」として読める。(まだ半分まで行っていない。)

・自分の住所を言える前に「四つの法則」を暗記していた。
・ディスペンセーショナリズムを、子供の時から(ある程度)知っていた。

ガーン! 何と言う彼我の差。
筆者も牧師の家庭に育ったが、本当に叩き込まれた神学は、せいぜい、善悪の区別、キリストの代償的犠牲死、漠然とした「天国と地獄の区別」くらいだったのではないか。

さて、そのディスペンセーショナリズムだが、名前は聞いたことがあるし、ある程度までは分かっているつもりだが、前千年期説とか後千年期説とかを交えた、神学説となるともうお手上げである。七つのディスペンせーションも分からない。(実際には知ろうとしない。)

再臨も、空中携挙も、個別的には分かるが、一連の終末論解釈となると、先ず辟易してしまう。

最近、ブログを通して知り合った何人かは、このディスペンセーショナリズムに通じているようである。自分が影響を受けなかっただけで、案外影響は広いのかもしれない。

そうだとすると、「牧師をしていてディスペンセーショナリズムもまともに説明できないのか」、と非難されそうだが、事実だから仕方がない。

換言すれば、筆者の子供時代のキリスト教的「文化的縛り」は割合ゆるかったと言えるだろうか。
子供の頭は柔らかいから、入れ物に合わせて形が容易に変るとすれば、あまり枠に入れられずに育ったことをむしろ感謝してもいいのかもしれない。

だからと言って、「すんなり」大人のクリスチャンになったわけでは決してない。
レイチェルの方は年齢的に早く「文化的縛り」と直面し、受け継いだ「信仰」を自分なりに批判し再構築することとなったのだと思う。かなり早熟だったのかなー。
筆者の場合は牧師になってからしばらく経って「信仰遍歴」を通った、回周遅れの信仰者と言えようか。まあ神学的にはとろいキリスト者、と言うことになるだろう。

間もなく「宗教改革記念日」を迎えようとしている。

「聖書」と「神学」を区別して考える大切さを学ぶ時である。

ディスペンセーショナリズムも一つの終末論に関する「神学」と言うことができるだろう。
しかし、問題は単にディスペンセーショナリズム神学が聖書的根拠があるかどうか、聖書釈義的に正しいかどうか、を問うだけでは不十分ではなかろうか。

問題は「聖書全体」が何を語り、その中心を占める主題は何であり、その視点から神学的各論をバランスよく配置する、統合することが大切ではなかろうか。

「創造」から「新創造」の中心に位置するのが、「イエス・キリスト」における「神と世の和解」であり、主イエス・キリストの福音が「神の国」をもたらすものであるとするならば、ディスペンセーショナリズムの詳細をいくら釈義的に、神学的に整合、統合したとしても、この「神の一大救済ドラマ」の大筋に沿うものでなければ、それは神学的議論の逸脱となってしまうのではなかろうか。

(※現在ディスペンセーショナリズムがどの程度影響力があり、どの程度現代を生きるキリスト者のキリスト教世界観の一部となっているのか、筆者は良く分からない。読者の中にはこの文章を読んで不快感を感じた方もいるかもしれないが、ご容赦いただきたい。)

2010年10月19日火曜日

教会ニュースレター

当教会のニュースレターは「活水」と言って、一応季刊(年4回)発行です。
(最近発行者である筆者の不調でイーブンペースではなくなってきているが・・・。)

今度出そうと思っているのは11月始め。

筆者の母が天に召されて一年余経つのだが、その追悼特別号となる。
時期は少し神学的辻褄合わせだが、「万聖節」に合わせて。
と言っても、当教会は教会暦に従っているわけではない。
さらにカトリックの「聖人(セインツ)」の考え方や習慣とは違う。
すべてのキリスト者は死ぬ前にも「聖徒」と言う理解でいる。

ただ追悼号を出そうという元気が出てくるまで時間がかかり、イースターにも間に合わなかったし、一周年(7月)にも間に合わなかっただけ。
それで教会暦の「万聖節」をちょっとお借りしたわけである。
「宗教改革記念日(10月31日)」とも繋がるし、教会史のちょっとしたお勉強にもなるし・・・。
これだからプロテスタントの牧師はいい加減、と言われるのだろーなー。

現在追悼号の原稿を募集中。何点か集まってきた。
そのうちの一つ。昔教会学校の生徒だった(今は3児のママ)方から原稿を預かった。
それに目を通しながら、思いの外「子供心」と言うのは感受性が強いと言うか、素直な心で人の言うことを聞くものなのだなー、と改めて思わされた。

内容はここでは紹介できないが、教会学校の働きと言うのは結構大きいものだと感じさせる内容であった。
まああの時代(1970年代中盤から80年代後半にかけて)当教会は教会学校の働きを中心として回っていた。それだけ力を注いだこともあるだろうが・・・。
残念ながら、教会学校の働きが途絶えてもうかれこれ15年くらい経つであろうか。

当教会だけでなく、教会学校の働きが縮小したり、閉鎖した教会は数多いことであろう。
少子化や、塾や習い事で子供たちが忙しい等、問題を挙げればきりがない。
教会学校を継続するのは難しいのは現実、事実。
でもやはり子供たちの心に働きかける何かは欲しいなー。

あれっ、「教会ニュースレター」の話が、いつのまにか「教会学校」の話しになってしまった。

話が散漫になってきたところで、今日はこれでペンを置くことにしよう。

2010年10月18日月曜日

賛美歌 旧新

当教会で使用している讃美歌は「インマヌエル賛美歌」と言う。

所謂「賛美歌」と、もう一つ時代の新しい「リヴァイヴァル聖歌」が一緒になったものである。

一昨年、「そろそろ新しい賛美歌を・・・」と言うことで、二つの賛美歌を候補にして、一年かけて選定しようとした。
結論は、現行の「インマヌエル賛美歌」に落ち着いた。

讃美歌を選ぶのは難しい。
教会によっては、プレイズ系など最近の賛美歌を多く取り入れている教会も多くあろう。
当教会も40年くらい前は「友よ歌おう」(その時代の空気を知っている人は読者の中にどれほどいるであろうか・・・)を盛んに使ったし、その後はミクタムのプレイズなどもつい最近まで歌っていた。

「新しい賛美歌」候補に上げた『賛美歌21』も『新聖歌』も、従来の賛美歌に最近のプレイズ系などを補充している。
やはり「歌は世につれ、世は歌につれ」みたいなところがあるのだろう。

先日も、この「大和郷にある教会」ブログを度々取り上げてくださる「一キリスト者からのメッセージ」ブログの「かわむかい」さんが、当ブログポスト「教会のヴィジョン(続)」に関連して、「ヴィジョンをめぐるもろもろ」と題して、古い賛美歌、Be Thou My Visionを紹介しておられた。

この賛美歌、実は筆者が好きなものの一つである。
ところがこの賛美歌が「インマヌエル賛美歌」には見当たらない。

公用賛美歌は個人の好き好みで選ぶわけには行かないので、結局新旧色々取り混ぜながら、なるべく誰にでも親しまれるように讃美歌を選んでいるのであろう。
そそれはそれで良いと思うし、致し方のないことである。
ただどうしても、この賛美歌、あの賛美歌が、こっちには入っていて、別の方には入っていない、ということになる。
痛し痒しである。いっそのことその教会でよく歌う讃美歌集を作ってしまえばよいのかもしれないが、著作権問題などで難しそう。
そのうちこの問題がクリアされれば、オンデマンドで個々の教会用にカスタマイズされた讃美歌集が出来るようにならないかなー。

さて、Be Thou My Visionに戻ろう。
KJV風英語、と表現されておられたが、手元にある「賛美歌21」では、8世紀アイルランド賛美歌の英訳詩が、さらに邦訳されて「ヴィジョン」は「のぞみ」になっている。
いや、筆者が今回書いているのは「ヴィジョン」についてではない。
このような古い賛美歌が現行の讃美歌集から少なくなっていかないようにしてもらえたらなー、ということである。

クリスチャン人生も中年になってみて、最もしっくりいく賛美歌は、筆者の場合は古い賛美歌なのである。
例えば、グリゴリオ賛美「父の神よ夜は去りて」とか。

シンプルなメロディーと「私の証、感動的体験」みたいなものを前面に押し出さない、平板、平凡、日常的な時の流れの中で紡がれる「賛美の詩」が歌詞になっている。そのような賛美歌が心に染み入る感じがするのだ。

多分「中世」的なキリスト者生活(修道的、霊的)に対し、親近感を感じるようになっているからなのかもしれない。

だからと言って「中世キリスト教」がどのようなものであったかを良く知った上でのことではなく、ただ漠然とその時代の生活のリズムに染み込んだキリスト教が、イメージとして憧憬されるのであろう。

2010年10月17日日曜日

牧師の書斎

筆者の場合、それは事務室も兼ねる。

広さにして六畳弱。
天井の高さが2.9mあるので、自作の書棚は天井まで一杯に作ってある。
部屋が狭いので広く見せるために床置きではなく、途中からにしている。

「のらくら者の日記」のブログ主「もし大地震がきたら・・・」のような「専用本棚」ではなく、個人的で乱雑なアイテムが棚に並べられているので、お恥ずかしくて写真で見せるわけにはいかない。
だから後は筆者の貧弱な描写力による文章で想像してただきたい。

道路側の窓のある壁はゆるくカーブを描いている。
このカーブに合わせて切断した「霧島ツガ」の一枚板(厚さ五センチ、全長1.7m、平均奥行き60センチ)が置かれている。上にはデスクトップのPCが2台。
このデスクの左端上部棚には聖書類やA5版程度の大きさの本や、週報とかCD、カセット類も置いてある。

さらに一番天井に近い部分二段棚には、長さ2mくらいに渡って、哲学の本が並んでいる。プラトン、アリストテレス辺りから始まり、キケロ、すぐ中世に入ってドン・スコタスとかパドゥアのマジリウスが一冊、後はすぐデカルト、スピノザ、ホッブス、ジョン・ロック、ベンサムと啓蒙主義哲学者(ディドロ、ヴォルテール、ダレンバート、モンテスキュー、など)が並ぶ。
後はヒューム、カント、ヘーゲル、シェリング、シャフツベリー、キルケゴール、ブラッドレーとか。
これらのほぼ半分はあの黄色い表紙のボッブス・メリル社の廉価版哲学書シリーズものである。

部屋の反対側には同じく哲学、人文科学、社会学、アメリカ史、文学も少し、所謂ポケット・ペーパーバックの大きさの本が二重になって置かれている。段にして二段。残念ながら表面のを動かさないと裏に何があったか思い出せない。埋もれたまんまである。

ようやくその下三段が帰国後、アマゾンで購入した新本が並び始める。大体は聖書学関係。
一番使う頻度が激しいのが下に位置する。もちろんN.T.ライト。リチャード・ヘイズやリチャード・ボーカム、サンダース、ベン・ワイザリントン、等も並ぶ。

道路の窓と反対側の壁は無垢の栗板を五段に重ねた本棚。大きく右半分は現代哲学や社会学。特にフランクフルト・スクールの著者たち(マルクーゼ、ホルクハイマー、アドルノ、など)や別格でフーコー、ハーバーマス、ロバート・ベラーの著書が並ぶ。最近また読まれるようになったらしいマルクス、ヴェーバー、デュルケーム、古典としてまた別枠に並べてある。
変っているのは右側の上二番目の棚にはアメリカ・ピューリタン研究者ペリー・ミラーの著書が幾冊か。それにアメリカの文化史的なシリーズ、またボッブス・メリル社の「アメリカン・ヘリテージ」シリーズが八冊くらい。

(ここまでついてきた人何人くらいいるかなー。)

向かって左側は主に神学書。現代古典から少し古いのまでそれほど多くはない。
筆者の傾向として一人の著者を重点的に読む傾向があるので、H.R.ニーバーがいいとなったら、彼の本を買い集める、というパターン。

後は文化人類学(レビ・ストロース)や心理学、宗教学、文芸批評関係などが少しまとまりがある程度。

こうして見ると「牧師の書斎」としては偏っている。
何が一番少ないかというと、定評のある注解書群や辞書類。
無くては恥ずかしいTDNT、バルト教会教義学シリーズもない。
それから一番問題なのは日本人著者によるキリスト教関係書籍の圧倒的少なさ。

じゃあ集めた本は役に立っているのか。
読まなくても本に囲まれているのは、筆者には精神衛生的によろしい。
それから何かを読んでいて、はっと思う「著者」や「時代」や「領域」に何かしら関係のある本が一冊でもあると、手にとってわずかでも背景とかを知りうるのがよろしい。

最後に、筆者の場合「大地震」のことは余り心配していない。何しろこちらは大工的な工夫で棚自体は倒れたりしないように壁付けしたりしている。本が落っこちてきても大した量ではないから大丈夫だろう。
でもどこに隠れるか想定しておいた方が良いだろうか・・・。

2010年10月16日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

10月17日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 3:1-29
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 3:21
説 教 題 「神の約束と律法」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(48)
ガラテヤ人への手紙(36)
・律法の暫定的・限定的役割 3:19-22

※当教会の「オープンチャーチ」、11月3日(水)、午前11~午後3時。気軽にお茶しに来てください。

2010年10月15日金曜日

イラン・コネクション

現在日本に居住するイラン人はどれくらいいるのだろうか。

2005年の統計では在住許可を所持しているイラン人は五千人を超えるくらいらしい。
バブル経済がはじける前はイラン人は滞在許可(ビザ)なしで、短期間労働者として来日し、その数は五万人を超えていただろうと言う。エンサイクロペディア・イラニカ「日本にいるイラン人」

筆者の「イラン・コネクション」は二つある。

一つは米国留学での最初の地、カンザスの大学での「短期英語集中コース」で仲間となったイラン人たちである。
三十人を超える仲間たちのうちイラン人は四人、日本人も四人であったように記憶している。
クラスは三つに分けられていたが、一番出来るクラスにイラン人たちが数人いた。
彼らは日本人とは対照的にとにかくブロークンでも何でも英語をどんどんしゃべった。
日本人は自分も含めて留学生だとちょっと安心してしゃべるが、アメリカ人だと緊張する風だった。
明らかに英語をしゃべる能力はイラン人学生の方がめきめき上達した。

仲良くなったイラン人の男子学生、ジャバッドとファラハッドは同じイラン人でもこれだけ違うかというほど対照的な性格だった。
ジャバッドは遊び好きで社交的、明るい外向的な性格。
ファラハッドは物静かでいつも瞑想しているような深みを感じる青年だった。
私たち日本人の学生は特にこのファラハッドと仲良しになり、よく一緒にご飯を作ったりして親しくなった。
あの時代はまだイラン革命の前だった。結構裕福な家庭から米国に留学しに来ていたのだろう。
彼らは今どこでどうしているだろうか・・・。

二つ目の「イラン・コネクション」は、筆者が1993年、マニラで開催された世界福音同盟の大会に参加した時に出会った男性、デーヴィッド・イグナザール。
お父さんがサム・イグナザールと言ってイラン人宣教をイギリスから支援している団体の主宰者だった。
筆者は大会の前に持たれた「信教自由委員会」設立のための準備委員会に出席していたが、そこでデーヴィッドに会ったのだった。
とにかく米国以外の外国で暮らしたことはなく、準備委員会で報告される各国でのキリスト者への迫害の様子を聞きながら何か場違いなところに来てしまった、と言う印象が強かった。

その後彼らの宣教団体を個人的に支援することで、今日まで、年に数回機関紙を頂きながら、イランのことを気にかけていた。
今日届いた機関紙で、この団体が二十周年を迎えたことを知らされた。
これまでの歩みを回顧する記事が書かれていたが、大変な歩みであったことを改めて思わされた。
最初の頃は経済的に逼迫し、また本国にいる指導者たちが何人も続けて殉教し、先の見えない数年を過ごしたようだ。
その後は、クリスチャン指導者の養成機関の設立、メディア伝道(聖書の翻訳、トラクト、デジタル・メデイア)の充実、等イラン国内での宣教にもインパクトを与えるようになってきた。
毎回のニュースレターで報告されるのは、如何にイラン国民が霊的に餓え乾いているかということ。福音を受け容れる地であることを知らされる。

キリスト教は遡れば中近東から始まった。
今キリストの福音の種は中近東にも蒔かれている。

イラン宣教の様子を知りたい方、現在のイランの実情も知りたい方、
以下のサイトをご覧ください。

・宣教団体イラム ELAM Ministries
・イラン30 Iran30

2010年10月14日木曜日

「教会」のヴィジョン(続)

10月1日のポストで、同題で書いたものの続き、のようなものです。

前回、当教会が「目指すもの」として明文化されたものの第一弾を紹介しました。

わたしたちは、聖書からじっくり学ぶ、キリストの弟子たちの群れを目指しています。

これは当教会ホームページ(巣鴨聖泉キリスト教会ウェッブサイト)の標語のようにして掲載されています。

これをもう少し膨らました文章として、同サイトの「説教」ぺーじの左のコラムに以下のような文章が掲載されています。

 巣鴨聖泉キリスト教会が目指すのは、キリストの主権の下に、一人一人が「主イエス・キリストの弟子」として集まり、交わり、学び、礼拝をささげる群れです。
バプテスマを通して「メシヤのからだ」の一員とされ、主日礼拝を通し、聖餐を通して、「神の国」の福音を今に伝える「主の宣教」に参画する群れです。
これもまだまだ未完成な文章で、今後も神学的編集作業が必要だと思っています。

かいつまんでポイントとなる概念を列挙してみます。

①キリストの主権
福音書でイエスが弟子たちを召し出された時、イエスは「神の国」運動の指導者(預言者)としてでした。しかし十字架の死と復活後、全世界に派遣された弟子たちは、キリストの主権確立後の宣教を担う「弟子たち」です。(マタイ28:18-20、使徒の働き1:8)
イスラエル宣教が急務であった宣教と、イースター後の世界宣教とは、弟子としての歴史的文脈が異なります。二十一世紀に生きる私たちキリスト者は、当然イースター後の世界宣教を担う「弟子たち」です。その意味で私たちの宣教の働きはイースター後の使徒たちの宣教と密接に繋がっています。

②「メシヤの体」
教会は「キリストの体」と表現されていますが、神秘主義的に受け取られたりしますが、筆者は「メシヤ共同体」と言う解釈を中心線にして考えています。
バプテスマによってキリスト者は「メシヤと一体となる」、あるいは「メシヤ共同体に加えられる」のであり、聖餐は「メシヤとの一体性」を継続的に現すものであり、「メシヤ共同体」が“見える言葉”を通して相互に認識されるものであると考えています。

③「神の国」の福音
「神の国」は共観福音書において、ナザレのイエスが「福音」として語り、行い、象徴表現したものです。現代の福音的教会は「イエス・キリストの福音」を「個人の魂の救済」に焦点を絞って理解する傾向があり、「神の国」は言葉としては使われますが、その意味するところは曖昧で、なかなか具体的に明示されることがないように感じます。
筆者は「神の国」の福音は「イエス・キリスト」において成就した、それ故「イエス・キリストの福音」は「イエス・キリストにおいて成就し、また完成される神の国の福音」として、その連関を捉えています。(詳しくは「二つの福音?」をご覧ください。)

④「主の宣教」
教会の宣教は、その時代や置かれた社会のニーズに合わせて取捨選択するするような次元の問題を取り扱う前に、その根源であるお方から説き起こされる必要があると思います。ですから、宣教は先ず「神の宣教(ミッシオ・デイ)」です。
最近の宣教学では、ディヴィッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換』(上・下)(新教出版社)「本を枕にスピリチュアルな日々」ブログで紹介されています。の中で次のように書かれています。
MISSION AS MISSIO DEI
During the past half a century or so there has been a subtle but nevertheless decisive shift toward understanding mission as God's mission. (Transforming Mission: Paradigm Shifts in Theology of Mission, p.389.)
またこのテーマを旧約聖書神学の観点から包括的に扱った好著として、Christopher J. H. Wright, THE MISSION OF GOD があります。
(余計なことかもしれませんが、N・T・ライトに対して、O・T・ライトと、N. T. Wright自身がジョークにしていました。)

以上巣鴨聖泉キリスト教会が目指している「教会の姿勢・自己理解」を、牧師である筆者が説明してみました。

前回の「教会のヴィジョン」に書き込まれたコメントのように、これが教会員による共同作業になったら素晴らしいのでしょうが・・・。

2010年10月13日水曜日

本の紹介と推薦

このブログで筆者が読んでいる本とか、読んだ本とかを紹介したことはありましたが、今日は「是非買って下さい」と言う推薦も付いた紹介です。

ポール・マーシャル「わが故郷天にあらず」

原題は、Paul Marshall, HEAVEN IS NOT MY HOME

内容の紹介については、訳者の島先克臣さんのサイト「キリスト教世界観ネットワーク」の方をどうぞ。

今回のご紹介は、訳者から直接購入するディスカウントについて。

重版(正価税込1680円)
価格:一冊1500円。
送料:無料


とのことです。

注文と支払いに関しては:島先克臣、knshimasaki(アットマーク)gmail.com
までご連絡ください。郵貯口座を教えてくれます。
振込確認後の送付となりますので、その点ご了承くださいとのこと。

(※2013/6/15補記・・・お振込みの時送付先住所記入お忘れなきようご注意ください。在庫少なくなりつつあります。在庫切れの際はご容赦を。)

さて、この本とは筆者も二重の意味で関わっているのでかなり思い入れがあります。

①巣鴨聖泉キリスト教会でこの本をテキストにして「キリスト教世界観セミナー」を実施しました。
2005-2009年の五年にかけて、全17章中、1,2,4,5,6,8,9,10,11,13,14,16の計十二章をカバーしました。一番の問題は“挑戦的な”タイトルです。
今まで何ともなくクリスチャンとして生活してきた方には「天が故郷」と言うのは至極当然、暗黙了解、の事柄のように思えていたはずです。
この本はその様な考えと裏腹になっている「この世からの退避的」姿勢を鋭くあぶり出し、クリスチャンが本来持つべき「この世で仕えるために与えられている賜物・召命」に気付かせます。
人間的なことを「聖俗ニ元論」のめがねで見て、真正面から取り組むことが出来ず、及び腰で捉えてきた「仕事、学問、政治、文化(ファッション・アート・文学)」等について、どのように積極的にアプローチできるか沢山の示唆をくれます。

②筆者はこの本全十七章を、一章ずつ、懇切丁寧に解説する「読書随想」を書きました。
「小嶋崇による『わが故郷天にあらず』の読書随想連載」
読み通してみて、聖書神学的基盤(少々「ネオ・カルヴィニズム」のフィルターがかかっている印象があるが)の上で「諸文化(この世を治める文化命令)」の問題を扱っています。
またN.T.ライトほどの重厚さはありませんが「創造から新創造」の視点でカバーしています。「身体的復活観」もライトに共通します。
(※ある教会では、この本をテキストに、また筆者の読書随想を参考にして、学びをしたそうです。)

・聖書の教えがどれだけ“世俗の問題”に応用可能か、窓を開いてくれる本だと思います。
・一人で読むには大変と言う方には、是非何人かで読みあって感想を言い合いながら読むと良い本です。
・昨日ポストでも書いた、ゲイブ・ライオンズ、The Next Christiansで、次代を担うキリスト者として描写されている「リストアラー(文化の回復者)」にも繋がる内容をカバーしてます。

とまあ色々と書いてきましたが、要するに買って損はしない本だと思います。

最後に著者のマーシャルについて一言。
彼の現在の専門は「政治と宗教」、特に信教自由、宗教迫害の問題について多く本を書いたり、マスメディアで発言したりしています。
・Paul Marshall Profile

2010年10月12日火曜日

日本も「脱・キリスト教」時代?

ついつい日本のキリスト教の現状を考えるのに参考にしてしまうのが「アメリカのキリスト教」。

先日も「アメリカの新世代キリスト者」と題してポストしたばかり。

実は、このポストも右側の「マイブログリスト」に掲載されている、スコット・マクナイト教授の関心が引き金となっている。

彼は今年だったか、去年だったか「青年層キリスト者のドロップ・アウト」、あるいは、それまでのキリスト教信仰からの「回心」をテーマにしたポストを連載していた記憶がある。

彼は「イマージェント」の良き理解者であり、彼らを全面的に支持しているのではないにしても、このようなポストモダン世代のキリスト者たちが、それまでの「キリスト教国アメリカ」文化に対して違和感を持っている理由を理解しようと努めている。
そんな問題意識から「アメリカ新世代キリスト者」の動向に敏感である。

「アメリカの新世代キリスト者」②で紹介した、ゲイブ・ライオンズ氏もそんな関わりで「友人」関係にあるみたいです。

さてこのゲイブ・ライオンズ氏の「次世代キリスト者、(The Next Christians: The Good News About the End of Christian America)」の副題にもあるように、彼は文化的な意味での「キリスト教国アメリカ」は終わった、との認識に立っている。
次世代キリスト者にとって、それは悲観的な状況ではなく、もっと包括的な福音の視点に立って、アメリカ社会に、アメリカ文化に、対峙し、包括的に取り組む好機だ、と言う姿勢の表れのように思える。(この本の内容については、まだアマゾン・ブックスに注文したところ。まだ云々する段階ではない。)

筆者は過去のポスト(「1%の壁」)で、日本の“統計上”の「キリスト教人口」をどう分析したらよいのか、少し萌芽的なことを書いた。

問題は、伝道の足りなさとか、日本文化の壁、のようことだけではなく、「ドロップ・アウトしていく人たち」にもっと分析の焦点を合わせるべきではないか、と考えている。
特に青年層のドロップアウト率が高いと推測している。

現在の教会に同年齢層が少ないとか、現在の教会が青年層に魅力的でないとか、そんな認識ではなく、もっと根本的な分析が必要ではないかと感じている。

そういう意味で、先のゲイブ・ライオンズ氏が、自身でこの「青少年層のキリスト教意識」を全国調査しその文化的背景を分析しようとした点、見上げたものだと感心してしまう。

翻って日本の青年層の「ドロップアウト」の文化的背景はどうなのだろうか。
誰かこの年代層キリスト者の意識調査をやってくれるクリスチャン・マスメディアはないのだろうか。
あるいは、そんな意見調査をしてくれる、スコット・マクナイトの「ジーザス・クリード」級のブログはないのだろうか。

そのような意識調査や意見調査のまとまった結果がないと、日本も「脱・(古い)キリスト教」時代に入りつつあるのかどうかは何とも言えない。

(日本とアメリカではキリスト教の文化的勢力図が大きく異なっているので、筆者の目下の関心はキリスト者が少数派である日本の青年層キリスト者の意識とその文化的背景である。)

2010年10月11日月曜日

N・T・ライト読書会報告

10月9日(土)は、雨の中三人の方々が「N・T・ライト読書会」に集まり、筆者と合わせ四名の読書会となりました。

既にある程度顔なじみでしたので、まずは雑談から。
一応課題図書(論文)はあったのですが、二時間半ほどの談論の内容は課題論文だけでなく、その他色々な話題に及びました。

当読書会もスモール・グループですので、スモール・グループの可能性や問題点についても話しました。

今回の読書会のテーマは「如何に聖書を読むか」、特に「聖書の権威」に関連して、と言うことでした。

しかし一番盛り上がった話題は「東方教会」について。

相互に、東方教会についての詳細な把握はないながら、プロテスタントが強調点として「聖書」「言葉による福音の理解と伝達」であるのに対し、東方教会はちょうど対極的なスタンスを持っているのではないか。そのスタンスの違いから参加者の大体の立ち位置である「福音派」自身の聖書観を省みる、と言う方向で話は進みました。

談論の内容を大雑把ながら「福音派の『自己位置確認地図』作成作業」として再構成してみると、大体以下のようになるかと・・・。
(参加者の方、筆者の主観的再解釈によって皆さんのご意見が間違って反映されたらごめんなさい。それから再構成の過程で当日の発言にはなかった加筆や修正もありますので、フィクショナルな部分もあることを読書の方はご了解ください。)

①諸宗派、諸教派を「ロゴス(論理的言説)志向」の観点からスペクトラムにしてみると・・・。

・最も「非言語的福音理解・伝承(宣教)」だと思われるのが東方教会。
・ロゴス志向は内包するも、典礼(リタージカル)的なものをより重要視するのが、カトリック教会。
・説教と言う最もロゴス志向の強い、言語的伝達手段を重要視するのが、プロテスタント教会。
(但しプロテスタントの中でも、より典礼的なのが聖公会、次にルーテル派と言う感じ。)

とこんな地図が出来上がります。

②プロテスタントの聖書中心主義とその限界

この話題に関連する発言を集めてみると以下のようなものがありました。

参加者Aさんの衝撃的レポート:「東方教会の人は、聖書がなくても救われる、と言ってるよ。じゃどうやって信仰を持てるの、と言うと『来て、見なさい』だってさ。」

筆者:「要するに、プロテスタントは宗教改革時、非言語的、五感的、身体的要素を排除しようとした。それで神の言葉である聖書を中心にし、説教が『信仰を育む』礼拝、教育、交わりの要になった。」

参加者Bさん:「東方教会のイコンや、香、カトリックの会堂の聖画など、が聖書に代わって信仰を育む役目を果たしている、と言うことでしょう。」

筆者:「最近の福音派の動向でこの問題と深く関連していると思われることがある。それは福音派の信仰や神学が、余りに言語、それも論理的言語偏重になっているため、霊的に満足できない人たちが、カトリックや東方教会に流出している。」

参加者Aさん:「ある時プロテスタントの礼拝に参加していて、あまりの言葉の洪水に、おいおいちょっと待ってくれよ。もうちょっと静思の時があってもいいじゃないか、と感じた。」

このような談論を導き出したのは、今回の読書会用に筆者が用意した「発表メモ」(※昨日ポストした)中で抜粋した一文にある『レクシオ・ディビナ』。

N・T・ライトは、その部分で、「聖書の包括的ストーリー構造、イスラエルの聖書である性格」が次第に薄れ、「教理と規範」の源泉としての「聖書の権威」化と、「レクシオ・ディビナ(今良く使われる表現で言えばデヴォーショナルな聖書の読み方)」が、聖書の読み方として代替するようになってきた。どちらの聖書の読み方も、「聖書の包括的ストーリー構造」と言う視点からは、聖書の記述を平板化する読み方になる危険がある、と指摘している。

ところが、ライトが言わんとしていることは重々分かるのだが、筆者が関心を持ち出しているのは、却ってその「レクシオ・ディビナ」と言う“訓練された”聖書の黙想的読み方なのだ、と言う筆者の言から、上記のような会話が導き出されたのであった。

(念のため付言しておくと、ライトは同書で「レクシオ・ディビナ」それ自体まで否定しているのではなく、「聖書の包括的ストーリー構造」の視点を維持した上で、「レクシオ・ディビナ」も含めた聖書の読み方の有機的統合を主張しているように思える。)

さて、談論の中で、単に個人的読者として「聖書の権威」を考えるのではなく、「コミュニティー」形成の視点から、「聖書を読む」あるいは「聖書の権威」を考えるとどんな事が言えるのか。
単に既存の「スモール・グループ形成のプログラム」を導入して、そのステップに従うようなあり方ではなく、例えばライト的な「聖書観」「聖書の権威観」をもとにしてどのように「コミュニティー」形成ができるのか・・・。
と言ったことについても談論は展開して行った。

以上断片的な報告ですが、今回の読書会の中身の半分位はカバーできたと思います。

2010年10月10日日曜日

N. T. ライト読書会発表用メモ

果たしてこのブログで公開するのが適当かどうか迷ったが、明日ポスト予定の「読書会レポート」の下敷きとして必要だと思われたのでポストする。
やたらに英文の引用が多いがご容赦を。
(もうちょっと面白い内容の話は明日のポストまでお待ちください。)


2010/10/9 ライト読書会 メモ
THE BOOK AND THE STORY(英国聖書協会サイトから)、は短く簡単なスピーチだが、ポイントを二点に絞ってみる。
①    聖書をどう読むか。
②    「聖書のストーリー」的読み方を回復することで、宣教的含意が明確に浮かび出てくる。

Ⅰ. 聖書は一つの大きなストーリーであり、聖書を読むとは、自分がその進行中のストーリーの中に入り、ストーリーの実現に向かって行動することである。
 

 聖書は「テキストの外にあるリアリティーへの窓」とのライトの強調は、聖書と読者の関係が後述する「二つの例」にあるような読み方の弊害(の可能性)への警鐘でもあろう。
From this brief sketch it is possible to see how the Bible (Jewish or Christian) does not exist, and does not offer itself to us, as a detached set of writings or as a book-in-a-vacuum. It is our window on a reality which is decidedly extra-textual - a complex community stretching from Abraham to the early apostles. In particular, the Christian Bible is a window on a particular extra-textual reality, the human being Jesus of Nazareth, whose followers came to believe in an astonishingly short space of time that he was the living, human embodiment of the one true God of Israel, the God of Abraham, Isaac and Jacob. (Book & Story)
 この「テキスト外のリアリティー」である一連の歴史上の物語、特にナザレのイエスに焦点を結ぶ物語として聖書は読み解かれる必要がある。
The New Testament declares with one voice that the over-arching story reached its climax in the life, death and resurrection of Jesus of Nazareth, whom the early Christians believed to be the promised Messiah of Israel. The followers of Jesus saw themselves as royal heralds, claiming the whole world for its new king.
Although it is rightly said that the first Christians saw themselves as living in the last days, it is even more important to stress that they were living in the first days of a new creation that dawned when Jesus emerged from the tomb on Easter morning. In other words, they saw themselves living within a story in which the decisive event had already occurred and now needed to be implemented. (Book & Story)
ライトの「聖書の権威」を扱った著書 The Last Word で聖書の読まれ方が、このストーリー的強調点(ユダヤ的遺産)が失われるに連れて、変化してきたことを「二つの例」で指摘している。
A Diminishing Focus on the Narrative Character and Israel-Dimension of Scripture
The notion of “authority” which we have sketched in terms of “God at work powerfully through scripture to bring about the Kingdom, by calling and shaping a new covenant people and equipping its leaders to be teachers and preachers,” became gradually flattened out into two things in particular. First, scripture came to be regarded as a “court of appeal,” the source-book or rule-book from which doctrine and ethics might be deduced and against which innovations were to be judged. Second, scripture was used for lectio divina, the practice in which individual readers could hear God speaking to them personally, nourishing their own spirituality and devotion. (pp.64-5)
以上の示唆にあるように、聖書の権威は、「教理("IS"/descriptive)」や「倫理・生活("OUGHT"/prescriptive)」に分離することなく、また「個人的敬虔」のための霊想書に縮小されてしまうことなく、「一連の物語に自分の歴史的立位置」を入れて読まれることによって有機的に機能すべきことをライトは指摘する。このことをさらに示唆するのが「5 Act Model-Creation/Fall/Israel/Jesus/post-Easter apostolic age (21世紀に生きるキリスト者も)」である。(The Last Word, pp.121-127; NTPG, pp.140-143.)

Ⅱ. 聖書を a Christian worldview と言う a particular perspective から見た the over-arching ストーリーとして読むことは、他の世界観的ストーリーと交渉し、対峙することになり、そこに宣教的含意が明確に浮かび出てくる。

The conflict that this community experienced, both with Jews who did not believe Jesus to be the Messiah, and, more especially, with pagans who saw the proclamation of Jesus as Lord to be a threat to their status quo, can be explained in terms of a clash of narratival and symbolic universes. This clash, and the ways in which Christians engaged in dialogue and mission, was much greater than merely a clash between their writings (or those writings which became the New Testament) and their surrounding culture. It was a clash between a community with its entire symbolic and narratival world view and other, surrounding communities with theirs. (Book & Story)

「世界観対決・対立」を含意した周囲の文化との交渉は、クリスチャン・コミュニティーが世界観レベルで、他の世界観を持つコミュニティーとの「対話・宣教」に繋がることを ”A Challenge To”で列挙している。Paganism, Idealism, the Aphoristic World, Power Structures, Rival Eschatologies, Other Religions. (Book & Story)

同様の視点は、New Testament and the People of God で別の角度からも指摘されている。
At the same time, theology-any theology-needs biblical studies, since the claims of any theology must sooner or later come into contact, perhaps, conflict, with the stories contained in the Bible, and if a worldview of any sort is to be sustained it must be able to meet the challenge posed by its rivals. Hindus, Muslims, Deists and pantheists will therefore study the Bible to understand how Christianity works from within, in the hope that their own stories will be able to subvert the Christian one, or at least withstand its potential challenge, and establish themselves as a more adequate account of reality. (The New Testament and the People of God, p.138.)
(読書会での談論の様子は明日ポストする予定。)

2010年10月9日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

10月10日(日)、午前10時30分より

ヘブル書の学び(16)

聖書朗読 ヘブル人への手紙 2:5-18
説教箇所 ヘブル人への手紙 2:17,18
説 教 題 「あわれみ深い忠実な大祭司イエス」
説  教 小嶋彬夫牧師


《説教メモ》
人の子‐民の救い主・大祭司(2:10-18)⑥

※礼拝後、「食の日」昼食会があります。
(会費一人200円)
今年最後の『食の日募金』にも協力よろしくお願いします。)

2010年10月8日金曜日

ネット・オークション

教会のブログとネット・オークションに何の関係ありや。

直接にはございません。

牧師が個人的に“はまってしまった”のでございます。

もともとは古道具市で大工道具や木製の古民具などを買っておりました。
年に2回の世田谷ボロ市などはワクワクしながら通ったものでございます。
鑿、鉋、ノコギリ、その他の大工道具を買いました。
木工を始めてからと言うもの、木製の品物はお盆でも何でもつい手が伸びてしまいました。

ところが二年前のある日ネット・オークションなるものを知り、そこで売り買いされている古い大工道具の値段を見ると、これがてんで安い。
すぐ“はまってしまいました”。

これじゃただの個人的趣味の話で終わってしまいますから、何とか教会の話題へと結び付けようと思います。

当教会ではほぼ毎月、第二日曜日は「愛餐会」(「食の日」と呼んでおります)を持っております。要するにキリスト者の昼食会のことです。

ある時ネット・オークションに「押寿司器」なるものが出品されていました。
ここれは昼食会を盛り上げるのに面白そうだぞ、と思いもう一人入札された方がいましたが、競って落札、手に入れることが出来ました。
押寿司の枠が全部で五段あり、一段でも二段でも、段数に応じて木の楔で押し付ける方式です。
(画像では枠と蓋の色が濃く見えますが、これが元々の押し寿司器です。周りの押し付ける役目をする板は傷んでいましたので、桧の板で新しく作り直しました。)

7月の食の日のメニューに押寿司をしました。(二年前のことです。)
三種類の寿司を用意しました。
具はサーモン、シイタケ甘煮、卵など彩を考えて用意しました。
殆どの方は初めてだったので大変盛り上がりました。
味の方もまあまあでみんなに喜ばれました。

(※これは準備がなかなか大変でその後は一回もやっておりません。せっかくですのでもう一度くらい活躍の場を与えてやりたいと思っております。)

2010年10月7日木曜日

神学入門・・・筆者の場合

最初に掲げた題に惑わされないように。

これから書こうとしていることは、筆者が「神学」と言う学問に入門した経緯ではありません。
そうではなく、たまたま最初に手にした神学書がどんな本で、どうしてその本を手にするに至ったかを書いてみようと思います。

筆者が大学に入った頃か、あるいはそのちょっと前か、時期ははっきり覚えてないのですが、その年頃になって教会学校のクラスを担当するよう牧師である父から言われたのです。

小学5年生で洗礼を受け、お祝いに旧新約聖書をもらい、その後、多分一度か二度、まともにかどうか記憶はありませんが、所謂通読をしたことはありました。
でも自分がクラスで教えると言う立場を自覚した時、はたと自分の足りなさに気付いたのです。

何とかしなければならないと思いましたが、父親には相談せず、父の本棚から参考になりそうな本を探してみました。
そうして手にしたのが、F.F.ブルース「新約聖書は信頼できるか」でした。

なぜこの本だったのか自分なりに思い出してもはっきりしませんが、多分筆者がその時抱いた「教える責任感」のようなものが、この本のタイトルに結びついたのだと思います。
あるいは自分なりに、そのような信仰の弁証的理解の必要を、うっすらと自覚していたのかもしれません。

何はともあれ、この本が筆者の「神学入門書」となりました。

今から考えると我ながら良い本を選んだと褒めてあげたくなります。
と言っても、自分で本屋へ行って選んだわけではなく、父の書棚から勝手に一冊引っこ抜いてきただけですから、父の本の選び方に、より依存していたことになりますが・・・。

ページ数はそれ程ない、比較的小著だったと記憶しています。
多分読み通したと思います。

そして本の題の通り「聖書が信頼できるものである」ことを説得的に受け取れたと思います。

その本自体は、教会学校のクラスを教える時の参考には(高尚過ぎて)なりませんでしたが、少なくとも教える本人の態度には積極的な影響を与えたと思います。

その後大学を卒業し、米国留学するまで、「神学」を独学で修めるようなことはしませんでしたが、数冊は父の書棚から勝手に引っこ抜いて読んだような記憶があります。

と言うわけで、筆者の最初の神学入門書が新約聖書に関するものだった、と言うのも今考えると大変興味深いものがあります。
と言うのも、過日のポストで留学の地での「古書漁り」のことを書きましたが、福音主義ではカール・ヘンリー、その後はニーバー兄弟やティーリッヒなど、神学書も大分集めたのですが、それらの所謂「神学」書よりも、筆者が今最も関心が深いのは「新約聖書学」だからです。

何か一周回った感じがします。
(※そのうち関心はまた変わるかもしれませんが・・・。)

2010年10月6日水曜日

池澤夏樹「多神教とエコロジー:世界を支配する資格」

朝日新聞夕刊に月一度連載されている氏のコラム「終わりと始まり」の十月掲載分のタイトルが上記である。
余り注意してなかったので、「毎月」のコラムであることに改めて気付いた。

ネットでの反応は如何なものかとちょっと検索をかけてみた。
分かったことは、
①最新掲載(上記のコラム)分についてはまだ見つからない。
②過去のコラムの幾つかについては、概ね好評な反応が数は少ないがブログで取り上げられている。

さて、上記タイトルのコラムは、昨日、10月5日の夕刊のものである。
昨日一回読んでピンとこなかった。
特に「創世記」の解釈と、「エコロジー即アニミズム」的世界観の繋げ方が如何にも短絡的過ぎないか、と言う印象を持った。

今日はこれをブログに取り上げようと思い、再読してみた。
所謂日本語で言う「エッセイ」風で、議論として読むには筋が粗いと感じた。
池澤氏自身の視座がそのまま表明されているだけで、例えばキリスト教の視点から「環境問題」と「創世記解釈」の問題の紆余曲折(少なくとも30年以上の蓄積がある)に関しては何も語られていない。

この「エッセイ」を論として読む場合、結語を紹介すれば、後は様々な修飾と位置づけられるかもしれない。こう書き終えている。
エコロジーの背後にはアニミズムがある。あるいは、あるべきだ。一にして全なる神を信じる人々も個々の被造物の中に、それをあらしめている神の意志を認めなければならない。
今、我々は支配力を駆使して支配者の地位から降りなければならない。

この結論の前の文章を見ると、アニミズムから始まって一神教が出現する「進化論的、発達史観的」展望を通して、「現在の人間の立ち位置、立ち居振る舞い、驕り」を分析しているのが分かる。
大雑把に言えば、「西洋キリスト教の聖書に基づく人間観」と言う思想的基盤と、「進化論を認めない『原理主義的キリスト教』」が主たる要因とされている。
原理主義的キリスト教徒が進化論を断じて認めないのは、認めれば人間と世界の関係が逆転するからだ。他の動物や植物と同格では、神にかたどられて造られたという尊厳は保てない。
科学は長い時間をかけてヒトと他の種の連続性を明らかにしてきた。ヒトは動物である。その一方で人間は科学技術によって世界を支配する力をいよいよ強めた。この矛盾の果てに今の環境論がある。
たくさんの神々に祈っていた頃、人間は自分の無力を承知していた。その後で、あるいは別の地域で、一にして全なる神に祈る人々が科学技術を発展させ、自然に対する支配力を強化し、今見るような驕りの姿勢を導いた。
読み方によっては、「文明の衝突」「多神教対一神教」の短絡的な議論に見えなくもない。しかし結論で「我々は」としているように、一部のアニミズム的経済生活を守っているコミュニティーを除けば、資本主義的原理で生きる人類の殆どが、この驕りの構造に絡め取られている、と解釈すれば、それ程無責任な議論ではなくなる。

しばらく前『加藤周一』をこのブログで取り上げたが、彼の『夕陽妄語』ほどのレベルには大分程遠い印象である。大衆紙の教養欄コラムとしては、もう少し議論の緻密さが欲しいところだ。

一つ例を挙げれば「現代の環境問題」の淵源に宗教的世界観の影響があることは否定すべくもないが、その因果関係分析のまとめ方において、近代資本主義の背景となる啓蒙主義的人間観や聖書的キリスト教とはダイレクトに繋がらない「理神論」の介在、また資本主義や科学技術が異なる宗教的背景(それぞれ固有の共同体倫理)を駆逐して普遍的影響を持つに至った過程などにも顧慮する必要があるのではないか。

そして「キリスト教的」な見方から一つ視点を提供するとすれば、池澤氏が
人間が堕落した時、神は洪水を起こして人間をリセットしたが、あれは世界を支配する者としての資格あらずという判断だったのだろう。
と言うところにせっかく注目したのであれば、「堕落の普遍性」をもう少し掘り下げてみてはどうか。近代資本主義の背後にある「貪欲」、あるいは最近の金融破たんで顕になった「相互信頼の崩壊に見る」人間の偽りの深さ、まさに聖書が指摘する「堕落した人類」の姿ではないか。

また、聖書物語の読みをこの箇所で止めてしまうとはどういうことか。「人間の堕落」に対する神の回復プランを聖書全体から読み取ってはどうか。

聖書はその後、創世記の12章から、まさに堕落によって悪循環に陥った人類と被造物全体の行く末を逆転するために、アブラハムの召命、イスラエルの召命、と言う「回復の物語」を開始させる。
そして、この世界の辺鄙な場所で生まれた一小民族のメシヤ、イエス・キリストにおいて「回復の物語」は原理的にクライマックスに達っする。
そして、真の「神の像」として回復されたメシアの世界支配を、キリスト共同体である「新しい人類」が受け継ぐ。

そういう読みが聖書全体を読む視点として必要であることを指摘したい。

と言っても、池澤氏の「一木一草に宿る神々」の“進化論的”世界観が「世界支配に失敗した」キリスト教文明の後始末をする、と言う視点が読み取れるから、ここは互いの物語を対峙させながら、世界をあるべき方向へ導くよう切磋琢磨するのが良いのだろうか・・・。
少なくとも池澤氏がキリスト教的視点全体を落第点にするのでなければの話だが。

2010年10月5日火曜日

散歩コース

筆者は慢性的な運動不足である。

(※ポストによって「ですます調」か「である調」かは、その時の気分や内容で変わります。今回はたまたまこのポストを書く前に明治時代に関係することを読んでいたので「である調」で行きます。)

昨年春頃心身のバランスを崩し、それからようやく運動を心がけるようになった。
と言ってもせいぜい散歩。しかも毎日やるのではなく、週三回くらいである。

現在「マイ・散歩コース」は三つ。
その内2コースは、いずれも途中1キロちょっとは同じ道である。

家を出て駒込駅方面へ一直線に抜ける道を真っ直ぐ進む。
途中左側には衆院議員、文部大臣も歴任したことのあるH山邸を通り過ぎる。

染井通りで左折するが、ぶつかったところにはアクタガワ・チョコレートの本社がある。
毎年3回くらいバーゲンをやるのだが、朝から行列が並ぶので有名。

染井通りをただ真っ直ぐ進むと自然に染井霊園に入る。
染井霊園のすぐ手前には東京スイミングセンターがある。
今はこの前女子百メートル背泳ぎで日本新を出した寺川綾選手おめでとうの字が大きく出ている。
同じ敷地内に「サクラ温泉」がある。

さて、この染井霊園なのだが、その名の通り「ソメイヨシノ」の発祥の地とあって、春は花見客で大賑わいになるが、普段は至って静かである。
ここの霊園には有名人の墓も数多い。

小さいが、外人墓地もある。
その中に「東洋のナイチンゲール」と呼ばれたと言う、女性宣教師ローダスカ・ワイリックの墓が墓碑とともに建てられている。
(この写真では殆ど判別できないので、詳細を見たい方はこの方のブログをご覧ください。)

先ほどちょっとこのワイリック宣教師のことを調べていた。
筆者も良く知らない明治時代の知識人(芸術家を含む)たちとキリスト教の関係が少し分かった。

染井霊園に墓地のある高村光太郎の友人であり、ロダンを師と仰ぐ彫刻家であった萩原碌山のことである。

碌山は洗礼を受けキリスト者となったらしいことはある程度知られているらしいが、どこで誰から洗礼を受けたかは殆ど明らかになっていないのだと言う。
そのあたりの事情を調べた喜田敬「碌山と小石川の教会」によると、碌山は小石川の教会で洗礼を受けたのだが、受洗当時小石川教会は前進となるワイリック宣教師が始めた「関口教会」とその関口教会が一端閉鎖された後、日本人信徒たちが中心となって始められた集会の二つに分かれていたのだと言う。
碌山が自分の洗礼のことを余り詳細に言わなかったのは、背景にこのような教会分裂事情があったようなのである。

さて付け焼刃の歴史話はその位にして、散歩コースの話に戻る。

染井霊園を抜けたところで右折し、染井銀座・霜降銀座を通って駒込駅前に戻って来るのがAコース。(このコースの場合途中八百屋や魚屋で買い物をすることが多い。安いよ。)

右折はするが旧東京外語大キャンパス跡地前の通りに出て左折し、折戸通りを大塚駅前まで回って来るのがBコースである。(こちらは約一時間かかる。)

今日はAコースで散歩してきた。(買物はしなかった)

2010年10月4日月曜日

「アメリカの新世代キリスト者」②

昨日のポストでは「イマージェント」と呼ばれる20~30代キリスト者のことを簡単に紹介した。

今日はアメリカ新世代のキリスト教指導者の一人と目されるゲイブ・ライオンズ(Gabe Lyons)を通してアメリカのキリスト教の変容を見てみようと思う。

このブログでも何回か紹介したことのある「はちことぼぼるの日記」にも登場した
「聖書の無誤性や権威」の問題を扱った動画
に、ティム・ケラー、アリスター・マグラス、ブライアン・マクラーレン等に討論させていた司会者がゲイブ・ライオンズである。
つまり「Q」の創設者でもある。(上の動画はQ・トークス)
一般メディアでも現代キリスト教青年層の意見を代表する一人としてインタヴューされている。

さて彼はスコット・マクナイトの Jesus Creed で 近刊されるThe Next Christiansとともに紹介されている。Jesus Creed, 2010/10/01

彼の関心の中心にあるのは、「アメリカキリスト教が文化的にどれだけ否定的に見られているか」と言うパーセプションの問題と、そのように見られているキリスト教が、次世代へ向けてどのように変革されるべきか、と言う問題提示にあると思う。

共著の「アンクリスチャン(UnChristian)」 では、次のような興味深い調査結果を得ている。

「ノンクリスチャン若年層(16-29才)の否定的キリスト教イメージ」
・反同性愛・・・91%
・非難的・・・87%
・偽善的・・・85%
・内向的(周囲の変化から取り残されている)・・・78%
・政治に入りすぎ・・・75%
・布教に熱心(無遠慮・無思慮)・・・70%

と言うわけで、今の(アメリカ)キリスト教は若・青年層に対し「イメージ問題」を抱えている、と言う結果が出ている、と言うのである。「キリスト教に対する否定的イメージ問題」

昨日のポストで紹介したレイチェル・エバンスが信仰から一時ドロップアウトしたのもこれらのイメージ問題とかなり重なる。

これに対してゲーブはどんなキリスト教を提示するのか。

(筆者がこのポストを書いている時点で、先に掲げたジーザス・クリードの記事はサーバー・ジャムでアクセス不能。記憶で以下をまとめる。関心ある方はアクセスして内容を確認してください。)

基本的には「古い(前世代の)キリスト教」から脱皮して、新しい現在の文化や問題にただ反対するのではなく、より豊かな福音の理解を持って、文化の中に入っていって内在的に諸問題と取り組む姿勢を打ち出している。
そのアプローチを文化の「リストアラー(回復者・修復者)」と呼び、「分離主義」や「(もう一つは失念)」と区別している。

ちなみに、この「リストアラー」アプローチは、筆者も参加している「キリスト教世界観ネットワーク」と問題意識や方向性が似ていると感じた。

さて昨日・今日と「現代アメリカキリスト教の文化的変容」をレポートしてきたが、特に世代間での対応の相違が象徴的であるような気がする。

儒教的文化の濃い日本において、「明日の日本キリスト教」を構想し、変革に向けて着手することの出来る年代層はどの辺なのであろう。

いや、問題は年代層ではなく、誰が文化的・時代的に「現状をより正確に把握」し、それを「問題」として提示できるか、と言うことではなかろうか。

(※少し内容がまとまらず、簡単なレポートだけになってしまいました。論じ切れず失礼しました。ご容赦を。)

2010年10月3日日曜日

アメリカの新世代キリスト者①

日本の(特に福音派)プロテスタント教会は北米福音派キリスト教の影響を強く受けていると言って良いと思う。それは単にアメリカの宣教団体からの宣教師によって教会が開拓され、成長して行ったと言う面だけでなく、文化的な面でも多く影響を受けていると言って良いだろう。

そのうちの一つが神学的影響と言うことになるが、狭義の神学(神学専門家同士間の影響)だけでなく、より広義の神学(神学的潮流や論議される神学的話題)でもその傾向は強い。

この言わば「北米一辺倒の構図」が次第に崩れつつあるように思う。

近年で言えば、その端緒となったのが、北米における「保守主義の台頭」と「保守政治(共和党)」の結びつきによる、「教会と政治の同化」現象がある。

日本の福音派は概ね第二次大戦中の教会の戦争協力の反省から、「国家と教会の分離」に敏感である。
しかし北米バイブル・ベルトの教会では、講壇に国旗が掲げられ、「感謝祭礼拝」などでは礼拝プログラムの中に「国旗への忠誠(the pledge of allegiance)」が入り込んでくる。(この習慣はかなり保守的なキリスト教会に限られるかもしれない。少なくとも筆者はその場面に立ち会って大いにそのギャップを感じさせられたものである。)
同じ福音派の立場ながら、北米と日本では「国家と教会の関係」への態度が殆ど逆なのである。

それでも戦後日本の福音派教会が北米宣教団体と友好的な関係を保って来られたのは、このような“政治的問題”が伝道の問題に絡んで来なかったからではなかろうか。
同時に日本の福音派教会は「国家と教会の関係」の問題は、自国の信教自由問題、特に靖国神社問題にだけ集中して、余り広義に考えて来なかった。伝道に集中していれば良かった時代だったのであろう。

しかしこの「捩れ構造」はブッシュ政権の戦争政策によって炙り出されることになった。
ブッシュ政権の支援母体となったキリスト教右派が「ファンダメンタリスト」と呼ばれ、日本のジャーナリズムによって「福音主義」と同一視されるに及んで、日本の福音派はようやく自己の政治的立場が北米福音派のそれとどう違うのかを説明し、弁証する必要に迫られた。

ようやく日本の福音派も北米福音派と政治イデオロギー的に大分違うことを自覚するようになり、一定の距離を置いて考える時代になったと言えよう。

さて、ここまではただの前置きである。

上記で意図したポイントは、これまで日本の福音派はアメリカ福音派をモデルとしてきた。しかし今後はどうかという問題提示である。

筆者のこのポストのテーマである、ポストブッシュ政権時に顕になってきた北米の「新世代キリスト者」たちの現象をどう見るか、と言う問題である。

彼らの問題意識や関心に対して日本の私たちはどんな共感やら違和感やらを持つだろうか、と言う問題である。


今回はこのうち一つの流れ「イマージェント」を紹介しよう。

「イマージェント」と呼ばれる現在二十代から三十代のキリスト者たちは、従来のブッシュ政権を支えたような“広義の”アメリカ福音主義に対して異議申し立てを始めている。その意味で世代間的ギャップと言えるが、その異議申し立ての内容を見ると、どうやら大きな「キリスト教文化」的過度期に来た、と言う観察も成り立ちそうなのである。

「脱・キリスト教国アメリカ」を鋭敏に自覚する、これら若い世代の福音派キリスト者たちの特徴を、一括りで描写するのは難しい。

例えば、彼らはキリスト教会の様々な制度面に対し否定的態度を取る傾向が強い。
スモールグループで、集会や聖書研究を行い、自分たち自身のキリスト教表現に忠実であろうとする傾向が強い。
さらに、「社会正義」「環境問題」など保守的福音派が余り正面から取り組んで来なかった問題に関心が強い。
などである。
彼らの信仰遍歴がどのようなものであるか、その一例を紹介する記事が「ワシントン・ポスト」宗教欄に紹介されている。
The Evolution of a Christian Creationist

このコラムを書いたレイチェル・エバンスは、伝統的な保守的福音主義信仰から一時離脱した後、“違った視点の福音派”キリスト者として再生する。鍵となったのは「古い福音派がアメリカの(思想的・政治的)文化」と一体となっていたことを見切ったことにあるようだ。
At the heart of this change is a shift in allegiance. For so long, evangelical Christianity demanded our allegiance to range of causes--from young earth creationism, to religious nationalism, to Republican politics. Somehow the radical teachings of a first century rabbi got all tangled up with modern political platforms and theological positions that were never essential to Christianity to begin with.
さて、日本の福音主義教会にいるこの年齢層のキリスト者は、どのような問題意識を持っているのだろうか。
キリスト教の文化的背景が大きく違う二国のことであるから簡単な比較は出来ないが、筆者の観では、レイチェル・エバンスが「ドロップ・アウト」したところまでは似ているのではなかろうか。
過去ポスト「1%の壁」でも書いたように、キリスト親派も含めた自称キリスト教人口6%の中に、特にこの年齢層が多いのではなかろうか。
だとすると、彼らがドロップ・アウトするに至った進化論やらの知的問題を含め、様々な文化的違和感の問題に対して、日本の福音派教会はまだまだ問題提起し、論議するプラットフォームを用意できていない状態ではなかろうか。

日本ではまだ「新世代キリスト者」が出現する兆しは筆者には見えてこない。
既にこのあたりの現象、日本の若年層キリスト者の信仰遍歴を知る良い資料があったら教えていただきたいものである。

2010年10月2日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

10月3日 午前10時30分

朗読箇所 マタイの福音書 26:17-30
説 教 題 「引渡しと躓き」
説 教 者 小嶋崇 牧師

聖餐に関わる事柄(7)

聖餐式を持ちます。
明日は「最後の晩餐」でイエスが、弟子の一人の裏切り、弟子たちの躓きを予告したことの意義について思い巡らします。
斯くも弱い弟子たちの群れに「主の晩餐(新しい契約のしるし)」は託されました。私たちも自身の弱さを覚えつつも、主の晩餐を引き継いで行きたいと思います。

※次週、礼拝後、昼食会があります。

2010年10月1日金曜日

「教会」のヴィジョン

「本を枕に‐スピリチュアルな日々」

というブログ(クリスチャンの間ではかなり有名だと思いますのでわざわざ筆者などが紹介する必要のないことと思いますが)で、最近刺激を受けたのが(教会の)ビジョンに関わる二つの連載ポストです。

ビジョンだけで充分ですか

ビジョンに含まれる「目的」「イメージ」、「付随する価値」 


牧師ではなく、信徒の方がこのようなことに深く関心を払われていることに敬意を表したいと思います。(信徒に対して差別的なニュアンスに響いてしまうと心外ですので、一応念のため書き添えておきます。)

同感させられるところが幾つもありました。

たとえ人数が少なくても一つのグループ・組織として機能するためには単なるビジョンやスローガンだけではなく、それを実践し遂行するに至る様々な過程においても、言語化したり、イメージ化したりすることが必要であることを指摘されていると思います。

さらに「究極的な到達地点」が何であり、どのような価値観に基づくものであるかを評価するモメントがないと、途中の実践や・努力が異質の手段に堕してしまう陥穽があることを指摘していると思います。

実は、筆者が当教会の主任牧師になって今でも(足りない)頭を悩ましている問題です。充分突き詰めて答えを出すには時間がかかる問題だとは思いますが、なかなか継続的に考えるのが大変に感じることがあります。

筆者が当初キーワードにしたのは「キリストの弟子」と言うフレーズでした。それで教会の方のウェッブサイト(このブログではありません)の方に、以下のような一文章で表しました。

わたしたちは、聖書からじっくり学ぶ、キリストの弟子たちの群れを目指しています。


筆者が属する群れは、福音派と称する前は、ホーリネスの流れを汲む、リヴァイヴァル運動の影響を色濃く持っていました。ですから何よりも「個人的回心」が前提となり、そして「聖潔の経験」へと「救いの階段」を登って行くよう勧められたわけです。
この“体験的”キリスト者の成長観は、メソジストの祖ジョン・ウェスレーまで遡るものですが、やはり一つの時代神学的枠組みが背景にあると思います。もちろん“聖書的”であることには違いないのですが、「聖書的である」と言う規準は大変巾が広いものです。

それで筆者が考えるようになったのが、より原始教会的、使徒的枠組みで見るとどうなるのだろうか、と言う問題意識でした。
そのような枠組みから半ば直観的に導き出されたのが「弟子」と言う言葉でした。
キリストの弟子は、ある意味一生涯変わらない視点です。
段階的、体験的発展、のようなものを除外しませんが、本質的に弟子であることは、その始まりから終わり(終わりがあるのかどうか分かりませんが)まで終始一貫変わらないものだと思います。

「キリストの弟子たちの群れ」を目指す、と言う表現自体は分かりやすいと思いますが、それ程自明ではありません。それこそ多様な人たちが自称「クリスチャン」と言えるように、中身の問題を取り払って、「レッテル」だけのことにしたら、これだけでは不十分です。

言葉を補ってより明瞭にしていかなければならないと思って付け足したのが、「聖書からじっくり学ぶ」と言う部分です。このことは「キリストの弟子たるために聖書が不可欠である。あるいは聖書を読みながら自己の弟子たる姿を明確にして行くことの必要性を意図した文です。

現在この文章をさらに膨らました「教会のビジョン」文章を、既に教会ウエッブサイトに掲載していますが、その紹介はまたの機会に譲ることにいたしましょう。