2010年10月20日水曜日

ディスペンセーショナリズム

円高とかけて、読書の秋と解く、その心は。

アマゾンに注文する本が多くなる。

すいません、全然なぞかけになっていませんね。

先日「アメリカ新世代キリスト者」①で紹介した、レイチェル・エバンスの本を早速購入しました。

レイチェル・ヘルド・エバンス「モンキー・タウンで進化する」(ゾンダーバン、2010)

著者は生まれたのは、アラバマ州バーミンガム市だが、13才から大学卒業(そして現在も?)と、育ち暮らし、学生生活を送ったのが、テネシー州デイトン。
つまり、かの有名な進化論を巡って神学論争が戦われた「スコープス・トライアル」の舞台となった町。

あのポストでは「ドロップアウト」と表現したが、正確には「信仰遍歴」、しかもかなり際どいところ(信仰喪失寸前)まで行ったようである。
とにかく、アメリカの保守的福音主義キリスト教の「文化的縛り」がこれほどまでか、と言う描写が次々出てくる。
この本は、そう言う訳で「信仰遍歴回顧録」として読める。(まだ半分まで行っていない。)

・自分の住所を言える前に「四つの法則」を暗記していた。
・ディスペンセーショナリズムを、子供の時から(ある程度)知っていた。

ガーン! 何と言う彼我の差。
筆者も牧師の家庭に育ったが、本当に叩き込まれた神学は、せいぜい、善悪の区別、キリストの代償的犠牲死、漠然とした「天国と地獄の区別」くらいだったのではないか。

さて、そのディスペンセーショナリズムだが、名前は聞いたことがあるし、ある程度までは分かっているつもりだが、前千年期説とか後千年期説とかを交えた、神学説となるともうお手上げである。七つのディスペンせーションも分からない。(実際には知ろうとしない。)

再臨も、空中携挙も、個別的には分かるが、一連の終末論解釈となると、先ず辟易してしまう。

最近、ブログを通して知り合った何人かは、このディスペンセーショナリズムに通じているようである。自分が影響を受けなかっただけで、案外影響は広いのかもしれない。

そうだとすると、「牧師をしていてディスペンセーショナリズムもまともに説明できないのか」、と非難されそうだが、事実だから仕方がない。

換言すれば、筆者の子供時代のキリスト教的「文化的縛り」は割合ゆるかったと言えるだろうか。
子供の頭は柔らかいから、入れ物に合わせて形が容易に変るとすれば、あまり枠に入れられずに育ったことをむしろ感謝してもいいのかもしれない。

だからと言って、「すんなり」大人のクリスチャンになったわけでは決してない。
レイチェルの方は年齢的に早く「文化的縛り」と直面し、受け継いだ「信仰」を自分なりに批判し再構築することとなったのだと思う。かなり早熟だったのかなー。
筆者の場合は牧師になってからしばらく経って「信仰遍歴」を通った、回周遅れの信仰者と言えようか。まあ神学的にはとろいキリスト者、と言うことになるだろう。

間もなく「宗教改革記念日」を迎えようとしている。

「聖書」と「神学」を区別して考える大切さを学ぶ時である。

ディスペンセーショナリズムも一つの終末論に関する「神学」と言うことができるだろう。
しかし、問題は単にディスペンセーショナリズム神学が聖書的根拠があるかどうか、聖書釈義的に正しいかどうか、を問うだけでは不十分ではなかろうか。

問題は「聖書全体」が何を語り、その中心を占める主題は何であり、その視点から神学的各論をバランスよく配置する、統合することが大切ではなかろうか。

「創造」から「新創造」の中心に位置するのが、「イエス・キリスト」における「神と世の和解」であり、主イエス・キリストの福音が「神の国」をもたらすものであるとするならば、ディスペンセーショナリズムの詳細をいくら釈義的に、神学的に整合、統合したとしても、この「神の一大救済ドラマ」の大筋に沿うものでなければ、それは神学的議論の逸脱となってしまうのではなかろうか。

(※現在ディスペンセーショナリズムがどの程度影響力があり、どの程度現代を生きるキリスト者のキリスト教世界観の一部となっているのか、筆者は良く分からない。読者の中にはこの文章を読んで不快感を感じた方もいるかもしれないが、ご容赦いただきたい。)

4 件のコメント:

  1. ディスペンセーショナリズムがまさか先生のブログで出てくるとは思いませんでした。

    わたしの属しているブラザレン運動の関係教会(集会と自称することが多いのですが)では、何の疑いもなく、このディスペンセーション主義を暗黙の前提として、その前提から聖書を理解しているにもかかわらず、そのことに気がついておられない方がかなりの部分を占めるように思います。終末論と救済論の混乱(ディスペンセーション主義が福音といった混乱)が起きている方を見かけることが少なくありません。

    ブラザレン運動関係者では、いわゆるリベラル派の神学に立つ人の一部が聖書を軽視しているようにみえる学説への批判意識から、神学(どのようなものかを区別せず、神学と名がつくものなら何でも)に対する極端な否定的な視点から神学を学ぶことを回避しているので、自己の聖書理解の相対化が進まない方が多いように思います。

    他の幅広い教会の人々との交わりを欠く人々が多いのが、日本でも欧米でもブラザレン運動の関係者に多いので、信仰者になる前(私の場合は、子供のころから)から信じた後もこの種の話を聞き続け、それこそが聖書の理解であると思い込んでおられる方が多い様に思います。その意味でこの種の考え方にロックインされている方が多く、この種の考え方の外部にでない、外部に出られない方が多いように思います。出られない方がゆえに、外部があることに気づいた信仰者は、おかしいかも、と内部の方に異議申し立てをしたくなるのだと思います。ミーちゃんはーちゃんがもう一つのブログをしているのは、こういうことはおかしいかもね、という問題提起と自己批判が出発点です。

    先生のご指摘のように、

    >問題は「聖書全体」が何を語り、その中心を占める主題は何であり、
    >その視点から神学的各論をバランスよく配置する、統合することが大切

    ということにブラザレン運動の関係者の方で気づいてくださる方が一人でも増えると嬉しいのですが。そもそも神学というだけで拒否される方が多いので、半ばあきらめていますけれども。

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  2.  私は牧師ですが、私の所属する教団はディスペンセーション神学を標榜してきた教団です。ディスペンセーション神学と言えば、ダラス神学校が本山のような神学校ですが、ダラス神学校は、過去のクラシックディスペンセーション神学から、リバイスドディスペンセーション神学になり、今はプレグレッシブディスペンセーションというふうに変化してきています。だから自分の所属する教団ではディスペンセーションがわかりにくい、と思っている牧師が結構います。

     私のディスペンセーション神学は、聖書全体の救済史の流れを大切にしながらも、でも、ユダヤ向けの預言のすべてを安易に霊的解釈するわけにはいかない、ユダヤ向けの預言はやはりユダヤ向けの成就を待っているのではないか、と言うアイデアを捨てるわけにはいかない、と考えているディスペンセーションかな、と思っています。もうすでに7つの区分なるものは捨てています。ディスペンセーション神学にも多様性が出て来ていることをわかってもらえばと思って書きました。

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  3. かわむかいさん、
    またまたのコメントありがとうございます。
    筆者などが口を出すべきトピックではなかったかもしれませんが、たまたま読んでいた本に触発されて書いてしまいました。
    「ロックイン」と言う表現、筆者の場合は「文化的縛り」と表現したものに近いと思いますが、サブカルチャーとはそうなりやすいものかも知れませんね。つまり自分たちがけんけんがくがくやっている神学論議が殆ど神学全体と勘違いするような傾向です。斯く言う筆者も「ホーリネス神学」のサブカルチャーを通過してきましたが、そこで使用されている言語や言い回しを使用しなくても、違うアプローチが出来ることを、その後気づくようになりました。自分の教団の「贖罪論」の一義性に固執し、新約聖書の「贖罪論」表現の多様性に気付かないのと似たような問題なのかもしれませんね。

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  4. ディスペンセーション主義教派に所属する牧師さま、
    どうも初コメントありがとうございました。そしてディスペンセーション主義自体が神学的に改定作業が進んでいる様子を教えていただき感謝です。
    自己の神学的伝統に真摯に向き合いながら、しかし必要な改定をする柔軟さを持ち合わせることは、今までもこれからも大切なことだと思います。
    神学作業を木に譬えれば、やはり幹の部分と枝葉末節とがあると思います。枝葉末節は幹に繋がっていることで命を保つと思います。旧約の預言でまだ成就していないイスラエルに関する預言がある、と言うのは枝葉末節とは言わないまでも、新約聖書の中心メッセージは「既に成就した」イエス・キリストにおける神の救いの業(ルカ24章、使徒1章5-8節)、であり私たちの使命はここを起点に完成に向かうことだと思います。そこから注意を逸らすような神学的関心にならないようにと思いますが、そんなこと言ったらまた叱られてしまうかな。
    それにしてもこんな新参ブログにわざわざ関心を払っていただき、そしてコメントまで残していただき恐縮です。御教会の働きの上に主の導きがあるよう祈ります。

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