最近の選挙はこう言った傾向が強くなる傾向にあるようです。
マス・ミディアの注意を惹きやすいのは、難しい政策の説明ではなく、相手にダメージを与える減点戦略だからでしょう。
いや、今回は政治の話をしようというのではありません。
最近「アメリカの新世代キリスト者」を取り上げたり、それとの関連でイマージェントと呼ばれる青年層キリスト者のことを取り上げたりしてきました。
一般的に北米青少年層がキリスト教に対して持つのは「ネガティブ・イメージ」であることも指摘しました。
このネガティブ・イメージの矛先は、実は「教会」であったり、「キリスト教」であったりすます。
しかし、イエス・キリストに対するものではないことが殆どです。
それで、例えば
Dan Kimball, THEY LIKE JESUS BUT NOT THE CHURCH: INSIGHTS FROM EMERGING GENERATIONS.のようなタイトルの本が注目を浴びるのだと思います。
(※著者は教会に対してネガティブな人ではなく、教会に対してネガティブなイメージを持つ青少年層の実態を報告し、教会がもっと彼らに関心を持つよう働きかけている方です。)
このような既成宗教、及び既成宗教団体に対する「ネガティブ・イメージ」は、民主主義世界において政治から始まり、他の多くの権力集団、既得権益組織に広く及んでいるようです。
一面から見れば個人主義の裏返し、とも取れるでしょう。
個人は宜しいが、組織になると堕落する、という構図で物を見る見方です。
イエス・キリストは宜しいが、彼の教えを既成化したキリスト教やそれを組織化した教会は信用ならない、と言うイメージが作られやすい時代だと思います。
そういう中で教会は伝道しているのではないでしょうか。
いえ、これは北米に限らないと思います。
日本でも似たようなネガティブ・イメージは結構浸透していると思います。
「イエスは好きだが、教会は嫌いだ。」
「キリストは尊敬できるが、キリスト教は窮屈だ。」
と言ったような言われ方を聞いたことがないでしょうか・・・。
特に昨今の「キリスト教不祥事」が一般メディアでも取り上げられ、ネガティブなイメージは強化されているのでは、と懸念します。
イエス・キリストその人と教会の間に楔が打たれたのは今に始まることではありません。
例えば新約聖書学においても「(歴史的)イエス」と「(弟子たちがそのイメージを創出した)キリスト」に分裂されたりします。
また「イエス・キリスト」の教えはシンプルでユダヤ的なものであったが、パウロはギリシャ的な思惟を駆使して、それを救済的世界宗教に仕立て上げた、などと言う説明は今でも通俗的に使われているようです。
確かに「教会で人に躓く」ことはしばしばあるでしょう。
確かに「(変な、偏った、愛のない、戒律的な、etc.)キリスト教」を見せつけられて、信仰をあきらめてしまう人もいるでしょう。
しかし、キリスト者、信仰者はその事実を悲観して放置しておくわけには行きません。
特に、「キリスト」と「教会」の一体性を心底追求している方々は、簡単に「イエス・キリスト」と「教会」の間に楔を打ち込まれて、「やっぱり教会は人の集まりだから、罪人の集まりだから」と変に納得したままであってはならないでしょう。
コリントの教会を考えてみてください。「これでもキリスト教会なの?」と後ろ指差されてもおかしくないくらい、問題の多い教会でした。
しかし、パウロはそのコリントの教会を「神の宮」(Ⅰコリント3:16-17)、「キリストの体」(Ⅰコリント12:27)と呼んで憚らなかったのです。
昨日のポストで「福音派」の現状が厳しいことを指摘しましたが、その現状を非難するだけでは充分ではありません。
自浄能力が働くことを期待しますが、仮にうまくそう行かなかったとしても、「教会」をあきらめる理由にはなりません。
反省と悔い改めの叱責・矯正・指導が教界指導者たちから出てくることを期待したいですが、たといそうでなくても「教会の建設的作業」は進められなければなりません。
何しろ「何一つ傷のないキリストの花嫁」としての希望が将来のために担保されているからです。
キリストとその教会のために、
あきらめるな、と、そんな風に肝に銘じたいと思っています。
ひるむな、
信仰・希望・愛を持って労苦せよ。
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