10月31日は宗教改革記念日です。
今年はちょうど主日に記念日を迎えます。
当教会では大抵10月最終主日は、「宗教改革記念セミナー」として礼拝と学びの時を持っています。
今年のセミナーのテーマが「聖書と教理」です。
既にこのテーマは年頭に決まっていて、その時には学ぶべきことは大体掴んでいる、予想できる、とつい最近まで思っていました。
ところがいよいよその日が近づいてきて、事はそんな簡単ではないのでは・・・と思い始めているのです。
まー今頃そんなこと言ってももう遅いんじゃない。何しろ数日後に迫っているんだから。
確かに。
どうしたらいいんでしょ。
(「何をそんなに悩んでいるのかしら、この牧師さん。)
と言う読者の声に答えて、悩みを打ち明けましょう。
筆者の話を聞いてくださるうちに、もしかしたら何かヒントが掴めるかも知れませんのでお付き合いください。
①問題・・・筆者の浅はかな考え
要するに「聖書」と「教理」を簡単に区別して、「教理」より「聖書」が優先することを命題として準備していたのでした。
例えば「信条」「信仰告白」「カテキズム(教理問答書)」「公教要理」のようなの次元の公同文書になっている「教理」もあれば、神学者が著作する「組織神学」的な本の次元の「教理」もあります。
さらに牧師や、教会学校の先生が礼拝やクラスで教えている中にも「教理」はあります。
ですからそういうモノとしての「教理」は「聖書」と同一ではない、とは言えると思います。
問題はこれらの「教理」と「聖書」との関係から言って、「聖書」が優先する、と主張することにどれほどの意義があるのか、・・・が段々疑問に思えてきたのです。
「教理」は基本的に「聖書が“教えている”(と理解している)」ことを一定の枠組み(例えば「神・罪・救い」のような)に従って、簡潔にまとめたり、分かりやすく順序立てて解説しているもの、と言えます。
つまり「教理」は殆ど広義で「聖書的である」とみなされているのが普通なのです。
ただ宗派や教派の違いで、強調点や視点が異なるけれども、広義の「聖書的である」ことには相互に異論がない、のだと思います。
(勿論このような寛容な態度はつい最近までは能天気なものだったのです。何しろ教理的解釈の違いで対立・抗争するは、分裂・分離するは、大変な歴史を潜り抜けてきたわけですから。そんな歴史を考えると、今や「教理」に命をかける信仰者は少数派になっているかもしれませんね。)
②問題・・・ではなぜ区別するのか
口で説明するのはある程度できるのですが、聞く人に納得してもらうのはかなり難しそうなのです。でもまあトライしてみましょう。
「聖書(箇所)」を“解釈する”、と言うことを考えてみてください。
実は聖書を解釈する、あるいはもっと簡単な言い方でも良いですが、聖書を読むと言う場合、私たちは実に様々な読み方をしています。「教理的解釈」はその一つです。
創世記で「族長物語をはらはらどきどき読む」こともあれば、「創造論を解釈する」こともあれば、「アブラハムの信仰を教訓にする」こともあります。
「詩篇」で「慰め」を受けたり、「ヨブ記」で「不条理な苦難」を文学的に味わったり、「福音書」で「イエスの宣教生涯」を学んだり、「パウロ書簡」で「義認や教会」の教理と「信仰者の生活」の倫理を学んだりします。
つまり聖書は「教理化する」以上の様々な要素を孕んでいます。
これが先ず一点。
そしていよいよ本論と言うか、筆者の悩みの中心部分に入って行きますが、ちょうど宗教改革原理である「信仰義認」を取り上げてみます。
「信仰義認」は特にパウロの書簡である「ローマ人への手紙」と「ガラテヤ人への手紙」の中心教理とされてきました。実際「義と認められる」(ギリシャ語のディカイオス、ディカイオスネー関連語彙)と言う表現が用いられています。
ここである読者が(義認の)教理的関心で「ガラテヤ人への手紙」を読む場合、既に「義認の教理」をガラテヤを基礎に教えられている方は、その枠組みで、“従来の教理的理解”を補強するように該当箇所を理解するようになる、と考えられます。
ところがガラテヤ人への手紙には「異邦人」が「ユダヤ人のようにならなければ、正式な神の民の一員ではない」、と言う実際問題が背景にあることを、単なる教理にまつわる歴史的エピソードとして読み過ごす危険があります。
義認の教理だけを「歴史的文脈から抽出してしまう」危険です。教理が抽象的な教えになる危険です。
これは一例に過ぎません。
聖書は創造から新創造に至る一大歴史ドラマです。
アブラハムとその子孫、全民族、全被造世界の贖いの完成を目指す現実のドラマです。
もし教理が聖書を源泉とするものならば、歴史的背景を捨象するのではなく(非歴史的抽象的真理に転化する傾向)、その歴史的背景と神の民のドラマの準備と完成を展望する物語を内包する必要があります。
そう言う訳で「聖書」と従来の論理的・抽象的に叙述された「教理」は今のところ緊張関係にある、と筆者は見ています。
「教理」はもっとこの「神の贖いの一大ドラマ」に寄り添った叙述に向かうべきものだと思います。
さて、何かしら筆者がもどかしく思っている点が通じたでしょうか。
それとも、「何のことやら・・・」でしょうか。
まっ、まだ二日あるのでさらに考えてみましょう。
ここまでお付き合いくださりありがとうございました。
(※最近手にした、Kevin J. Vanhoozer, THE DRAMA OF DOCTRINE: A CANONICAL-LINGUISTIC APPROACH TO CHRISTIAN THEOLOGY, 2005.はどうやら筆者の思っている方向で展開しているようです。)
面白そうです。自分の教会での担当がなければ、そちらに参加したいところです。
返信削除おそらく、「伝統」の一部として人が関与してきて歴史的時間(クロノス)にわたる共同的作業としての構築された教理と、その時その時の中での神との関係の中で定義される時間(カイロス)において実現する「神の贖いの一大ドラマ」との関係をどのように関連付けていくのか、という問題意識かなぁ、と拝見しながら思いました。
歴史という特定の時間(クロノス上の時間)において切り出されてくる神と人との交差(たぶん神の贖いの一大ドラマ)がみられる時間(カイロスとしての時間)とそのカイロスが出現する時代背景(クロノス)の文脈との相互関係かなぁ、と思っています。
頭の中ではこれらの概念がぐるぐる回っていて形をある程度なしつつあるものの、それを言語化して他の方々にわかってもらう努力、これに取り組んでおられる先生の(楽屋裏の)お姿を垣間見させていただいた気がします。ただ、この種のことは受け手の側にも同じような問題意識が共有されていないとあまり理解していただけないので、私のところでは、まだ難しいかなぁ、と思っています。
是非、終わられてからでよいので、お話の概要をこのブログかどこかで、お知らせ願えませんでしょうか。できたら、音声ファイルでいただけるとうれしいのですが。
かわむかいさん、コメントありがとうございました。
返信削除まだ充分熟していない実を人に上げるのは失礼かもしれません。確かに楽屋裏を見せる感じですね。
クロノスとカイロスの交差は「神の贖いの一大ドラマ」を説明する語彙にはなるかもしれませんね。「教理」(複数)はその後の教会史の一時代に凝縮した表現であり、やはりその時代的背景と共に再解釈されないと「化石化」する危険があるものと言えますね。
そして聖書は正典として「閉じられ」ていますが、教理はむしろ「伝統」(アングリカン的伝統に従えば「権威の源泉」として、「聖書」、「伝統」、「理性」があり、筆者の属するメソジストではさらにもう一つ、「経験」が加えられます。)の方に属するもので、叙述や表現が変更可能なものだと思います。
セミナーの結果をブログにということですが、音声ファイルはちょと無理ですが、ポストした下書きがどうなったか、修正が加わったのかどうかくらいは報告してみます。ただポスト記事の内容まで発展すればの話ですが・・・。(マイナー修正の場合はコメント欄に書き加えることにいたしましょう。)