2010年10月24日日曜日

公共政策と神学

筆者は以前「南北問題」
と言うポストで、「貧困の問題」は富める側の慈善によってではなく、社会正義の実現と言う視点で見るべきではないか、と示唆したことがある。

巣鴨聖泉キリスト教会は、二十年くらいに渡って「国際飢餓」の問題と取り組んでいる。
取り組んでいる、と言っても組織的な支援とかそういう取り組みではない。
もっと日常レベルで、この問題を意識化する試みである。

毎月第二日曜日を「食の日」と定め、昼食会を持っている。
そして「共に食する」機会を得、食前の祈祷で「飢餓に苦しむ人々」を覚えている。
さらに低予算の食事メニューを工夫すること(しかし同時においしく食べる努力)、そして「食の日募金」を設定し、毎月集めた募金を「国連世界食糧計画」などに送金している。

宗教者、非宗教者の別なく、飢餓に苦しむ人のための善意の募金は、個人でも、組織でも、多くの人が関わっていることと思う。
また納税者としてもODA(政府開発援助)を通して間接的にこの問題に関わっている面もある。

さらには、通称MDGsと呼ばれる、国連による貧困に伴う問題解決のための「ミレニアム開発プログラム目標」"We Can End Poverty 2015"の取り組みもある。

しかしこれらの多くの取り組みをもってしても「貧困撲滅」の実現可能性は現実的に見てそう簡単ではない巨大で複雑な構造的問題であるとの認識がある。

温暖化によるオゾン層破壊の原因とされる二酸化炭素排出規制が国際的な枠組みでアプローチされているように、発展途上国の貧困撲滅も、似たような国際的公共政策課題として、人権と国際社会正義の法的枠組みで、先進国に対する責任分担や規制、と言う形で構想されている。

このような個人や国家の善意や任意の支援を超えた、正義の実現を要求する法的規制の枠組み作りを構想しているグループの中に、哲学者、経済学者、公共政策論者、と並んで神学者がいることを最近発見した。(Absolute Poverty and Global Justice 「絶対的貧困と地球大の正義」

筆者にとって興味深いのは、まさにこのような巨大な現実問題の解決を模索するチームの中に「神学者」が複数も加えられていることである。
世俗化によって宗教は公共分野からは撤退を余儀なくされるか、と見られた時代があった。
しかし“脱・世俗化時代”の今日では、宗教は世界規模の問題解決に欠かせないメンバーと認識されている。そのことに感銘を受けたのである。

但し脱・世俗化時代に宗教家が自己の信仰的立場でどのように現実問題に立ち向かうか、しかも民主主義社会の一市民として貢献するには、それなりの手続きと言うか、抑制が必要である、とされる。しかし、逆の視点から言えば、世俗の専門家だけでは巨大な現実的道徳的問題には立ち向かえない、宗教者を必要とする大きな時代的局面を迎えているとも言える。

最近、ユルゲン・ハーバーマス(Jürgen Habermas、Jürgen Habermasドイツを代表する社会哲学者)をまた読み始めている。
An Awareness of What is Missing (2008)
Religion and Rationality (2002) 
(上記のリンク著作は未読)

筆者が米国留学中読んでいた「ハーバーマス」にはなかった「宗教」との積極的対話が最近の著書に顕著である。
啓蒙主義が築いた「世俗化した理性」の権威を破綻から守りつつ、今また脱・世俗化時代の問題群に直面して、この偉大な哲学者は「理性と信仰の対話」の必要性と、その対話可能性、とを模索している。

面白い時代になってきた。

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