1993年、筆者は、マニラで持たれた「世界福音同盟(WEA)」総会に出席した。
アジアやアフリカ等、地域ごとの分科会で「討議されるべき問題」に盛りこむものがあったら言って下さい、と参加者は問いかけられた。
日本からの参加者30人ほどの中で、一番若輩の方であった筆者は、この「南北問題」を検討するよう「アジア分科会意見書」に提案した。
あれから17年、状況はより深刻化しているのではないか。
私見では、「南北問題」を解決する鍵を握るのは、キリスト教が退潮している西欧圏の国家である。ところが啓蒙主義以降のキリスト教は、アメリカのような特殊例を除いて、一般的に政治問題に対して発言力がかなり低下している。
福音主義キリスト教が興隆しているアメリカでも、発言は保守主義と結びついた特定の政治問題に集中する。
社会正義や経済問題、最近では環境問題への発言は、保守的キリスト教からはタブー視されてきた。
背景の一つには、「政治と宗教の分離」と言う啓蒙主義的(近代的)価値観がある。これは聖書の解釈にも知らず知らず影響を及ぼしている。
最近ブログの読者から、岡田大司教の説教を知らされた。
大司教は説教の前半を、ごく簡単に次のようにまとめられた。
今日の第1朗読はコヘレトです。「伝道の書」とも呼ばれ、人生の空しさが繰り返し述べられ、「すべては空しい」といわれています。この世と被造物は人間の心を満たすことはできないのです。
本日のルカの福音では倉を壊して大きな倉を建てる金持ちの話です。金持ちは多くの財産を大きな倉に入れて安心を得ようとします。しかしその金持ちの命はその計画を立てたその夜に取り去られてしまいます。いくら財産をつんでも心からの安心と幸福を得ることはできないのです。
ところが説教後半を次のようにしめくくっている。
わたしたちはこの世界を、この社会を、わたしたちの教会をもっとよくしたいです。新しく造り変えたいです。でもそれは簡単ではない。難しいです。他の人を変えるのも難しい。人を変える前に自分を変えてください。人のせいにしないで自分を変えて生まれ変わらせることができますように。どうか主よ、わたしたちに聖霊を注ぎ、知恵と勇気をお授けください。アーメン。
ここには、現在のカトリック教会が深い関心を持つ「社会正義」への関心が示唆されている。
しかし、前半のルカ福音書の解釈は、コヘレトの言葉が持つ厭世的な世界観に引きずられたものになっている。
大司教の説教は、一方で「この世に、富に、執着するな(それらは空しいから)」と言う、この世からの退避的な世界観を示唆している。
もう一方では「社会正義」に向けて、この世の問題に取り組む世界観を示唆している。
これら二つの世界観を調整するのは理論的には難しい。
大司教の真意は、信徒個人に向けては前者を奨め、教会の姿勢としては後者を奨めているのではないかと思う。
筆者は、この世界観の分裂は、ルカ福音書の読み方に問題があるのではないかと思う。
確かにこの箇所は「貪欲」を戒めている。
しかし、この箇所は、経済活動に対する軽視や、富の空しさを意図したものではない。そう読むことも出来ると思う。
大収穫に与った富者に致命的に欠けていたものに焦点を当てて見よう。
貧者への配慮である。
ユダヤ社会においても、どんな社会においても、富者は貧者を援助する道義的責任を持つ。
地の産物が神からの祝福であることを世界観とするユダヤ人富者が、大収穫にあたってその全収穫を、貧者に分け与えることもなく、蔵に収めるなどと言う暴挙を考え得ること自体、この人物の愚かさを暴露している。
この富者は「天に宝を積む」ことを、これっぽちも思わなかった。
ナザレのイエスが富について教えているのは「富の空しさ」だけではない。
積極的に「貧しい者に施し」、「神の国」、つまり、正義とシャロームの住む世界の実現を教えている。
南北問題は「小さな親切」や「余裕からの慈善」では解決しないだろう。
南半球の貧者の国々が神に向かって「正義」を叫んでいる姿を私たちは想像できるだろうか。
「神よ、正義の神よ、この富の不公平な分配を正しく裁いてください」と叫んでいる姿を。
北半球の富める国は慈善ではなく、正義の問題として自らを律しなくてはならないだろう。
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