ポストモダンという言葉・設定は、ポストモダンという語で括られる現象の広大さ曖昧さの故に、議論にある種の胡散臭さを与えてしまうだろうと思います。
しかしモダニズム的「『真理』の論理性・言語的明晰性・実証性に対する無垢な信頼」の時代が過ぎ去っていることは、少しきちんと物事を考える個々人の心に深く受け止められているだろうと思われます。
そう言う時代にあって、教会堂を持ち決まった順序で礼拝をする、牧師あるいは聖職者が管理する宗教組織である「教会」は“既成”宗教団体とみなされます。
ポストモダンの時代を生きる“個人化した”“主観的”スピリチュアリティーを模索する人々はこのような“規制教会”に殆ど期待しないだろうと思われます。
教会は歴史的に形成された『使徒的福音』を現代に宣教する務めを担っていますが、「聞く耳を持たない」「笛を吹いても踊らない」人々に向かってどのように福音を携えていけるのでしょうか。
モダニズム的福音宣教は「福音の言葉」を伝達すれば、後は聞いた人がそのメッセージを“信ずれば救われる”としてきました。
最早そのような『福音伝達』はポストモダン時代の人々の“心”には届きそうもありません。
筆者が考える「教会が今福音宣教のためにできること」は二つあります。
一つ目は、「使徒的福音の回復」です。
モダニズム的福音宣教をポストモダンに適合しようとしても、既にメッセージ内容が時代的に限定されているので、無駄なことではないかと思っています。
むしろ原初に立ち返り、使徒たちが伝えた「真正な福音」を単なるメッセージ内容だけでなく、「世界観」と「生活原理」ともども教会の中に回復することが先決だと思います。
このために必要なアプローチは“歴史的”探求です。
聖書学、神学、宣教学、教会論は徹底的に使徒的福音の世界観の意味地平から探求される必要があると思います。
時間がかかりますがエッセンシャルな要素だと思います。
二つ目は、ポストモダン時代を生きる人々の心の有り様を良く掴むことです。
“個人化した”、孤独で、疎外されやすく、主観的なスピリチュアリティーを形成する人々の心。
彼らの既成宗教の枠外で形成される「心の組み立て」を理解することです。
その脆弱性、一過性、混合性、などの弱点を理解することも必要です。
反知的に“霊性”や“伝統”に没入する危険性も理解する必要があります。
ポストモダン霊性は「何でもあり」です。
異端やカルト、オカルトや呪術的なことも、スピリチュアリティーという枠組みの中では並列状態です。
霊的に渇いた心は、「何でも癒してくれそうな」ものを正邪の区別をつけずに取り込もうとします。
どこに使徒的福音との接点が形成されるか
難しい問題です。
決まったパターンと言うのはないでしょう。
自分の主観や感性に頼るポストモダン霊性探求者と「真の会話・対話」を獲得する状況を得ることが大切だと思います。
それはどのように、どんな場所で起こりうるか。
この時代に遣わされた地域教会の個別的条件を良く考えながら編み出されていくべきではないかと思います。
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