自転車に乗ったお爺さんがその寺に通りかかり、自転車を降り、帽子を取り、寺に向かってしばし手を摺り合わせ拝礼。その間約十秒弱。
この本郷通りは、寺が次々並んでいる。
その時パッと見た光景なので、このお爺さんが次々寺の前で同じことをしたかどうかは分からない。たぶんその寺だけだったのだと思う。お爺さんは多分その寺の檀家か何かなのであろう。
毎日ブログを更新するためには、常に「ネタ」になるものを探している必要がある、と思っている。
この散歩時の光景は、「はて、これをブログに何と書こう」と言う思いを抱かせた。
すぐ思いついたことは、キリスト教の「礼拝」と、このお爺さんの「拝礼」の対比。
みんなして「同じ場所」に「同じ時間」に集まり、「一定時間」行う「公同の礼拝」に比較して、何と簡単で短い、しかも単独で行う「拝礼」であろうか。
これも一つの「礼拝」と考えると、キリスト教の礼拝は実践するのにかなりなエネルギー、行動力を要するのだなー、と改めて感じ入った。
帰ってきて、「拝礼」か何かでネット検索してみた。
そうしたらこんなのがヒットした。「日本で一番短いお祭り」
さて、お祭りの内容だがそれはただ一つ。「礼」だ。何とも簡単な「お祭り」ということだが、お爺さんの簡単な「拝礼」と共に考えさせられた。
時間になると、参加者が記念碑に向かって礼をする。その間10秒足らず。シン、と静まりかえったと思うと同時にお祭りは終了する。
キリスト教の礼拝は、忙しい複雑な人間関係の中を縫って生きている信徒たちにかなりな犠牲を要求しているとは言えないだろうか。
もちろんだからと言ってもっと簡便に、“宗教サービス利用者”の側に立って礼拝を考えて見たら、と言うのではない。
主日に集まるのも、一時間くらい時間を共有して礼拝するのも、それなりの根拠がある。
ただ普段の生活の中でどれだけ「礼拝」を提供しているだろうか、と言うことを考えさせられた。
勿論熱心な信徒には「聖書通読」や「デボーション」の習慣がある。
しかしそれだとちょっと時間がかかる。
一日のほんのちょっとした時間に心を神に向ける「礼拝」の形とは何だろうか。
自分で工夫している人たちは勿論いるだろう。
ただキリスト教の中でもプロテスタントの礼拝は「説教中心主義」の問題があり、「脳内礼拝」に傾きやすいのではないか。
何か「手を摺り合わせる」「一礼する」と言ったような、“簡単な所作”が礼拝に繋がるようなものをプロテスタントは持っているだろうか。
そんなことを考えていたら、カトリックの門脇神父が仏教徒と一緒に「カトリックの聖地(スペイン)への巡礼の旅」をした報告(「行の体験が心を一つに」)がネットにある、と言うツイートが流れていたのを思い出した。
昨日のポストで「神道」や「仏教」との宗教対話への関心を書いたところであったので閃くところがあった。
門脇神父は禅とも深く関わっている方で、カトリックと禅との間での「行」に関する共通性を見ている方のようである。
これを読んで感じたことも「礼」のことと似通っている。
プロテスタントの霊性はやはり「脳内霊性」的ではないか、と言うこと。
個人的に聖地旅行する方は多くいるが、「巡礼」とか、とにかく身体を伴う「行」に当たるものが殆どないような気がするのだが・・・。
まあ「礼拝」がある意味で「行」になっている節もあるかもしれないが・・・。
「礼」と「行」。ポストモダンの宗教性・霊性を考える上で何かヒントとなるものがあるのではなかろうか、と考えた一日でした。
昔カトリックには「射祷」という祈りがあったそうです。その名のとおり矢を射るような短いけれど力強い祈り・・・だそうですが、今ではやる人も知る人も少ないと思います。ただ「神様!」とか「感謝!」もその類という考え方もあるそうで、その程度であればやってる人は(クリスチャンに関わらず)たくさんいるでしょうね。
返信削除また、短いが最も大切な祈りは「主の祈り」だと考えると、それを唱えるのは「行」であり「礼」だと思います。
Meeさんにしておきますか、
返信削除ブログには初コメントですね。ありがとうございます。「射祷」とは言いえて妙ですね。要は集中力ですかね。師イエスも祈りに言葉数は要らない、と言ったようなことを教えていましたっけ。
「主の祈り」は私も大切にしています。もうこれがなかったらどうしよう、と言うほどです。私は日英両語で祈っています。