2010年10月11日月曜日

N・T・ライト読書会報告

10月9日(土)は、雨の中三人の方々が「N・T・ライト読書会」に集まり、筆者と合わせ四名の読書会となりました。

既にある程度顔なじみでしたので、まずは雑談から。
一応課題図書(論文)はあったのですが、二時間半ほどの談論の内容は課題論文だけでなく、その他色々な話題に及びました。

当読書会もスモール・グループですので、スモール・グループの可能性や問題点についても話しました。

今回の読書会のテーマは「如何に聖書を読むか」、特に「聖書の権威」に関連して、と言うことでした。

しかし一番盛り上がった話題は「東方教会」について。

相互に、東方教会についての詳細な把握はないながら、プロテスタントが強調点として「聖書」「言葉による福音の理解と伝達」であるのに対し、東方教会はちょうど対極的なスタンスを持っているのではないか。そのスタンスの違いから参加者の大体の立ち位置である「福音派」自身の聖書観を省みる、と言う方向で話は進みました。

談論の内容を大雑把ながら「福音派の『自己位置確認地図』作成作業」として再構成してみると、大体以下のようになるかと・・・。
(参加者の方、筆者の主観的再解釈によって皆さんのご意見が間違って反映されたらごめんなさい。それから再構成の過程で当日の発言にはなかった加筆や修正もありますので、フィクショナルな部分もあることを読書の方はご了解ください。)

①諸宗派、諸教派を「ロゴス(論理的言説)志向」の観点からスペクトラムにしてみると・・・。

・最も「非言語的福音理解・伝承(宣教)」だと思われるのが東方教会。
・ロゴス志向は内包するも、典礼(リタージカル)的なものをより重要視するのが、カトリック教会。
・説教と言う最もロゴス志向の強い、言語的伝達手段を重要視するのが、プロテスタント教会。
(但しプロテスタントの中でも、より典礼的なのが聖公会、次にルーテル派と言う感じ。)

とこんな地図が出来上がります。

②プロテスタントの聖書中心主義とその限界

この話題に関連する発言を集めてみると以下のようなものがありました。

参加者Aさんの衝撃的レポート:「東方教会の人は、聖書がなくても救われる、と言ってるよ。じゃどうやって信仰を持てるの、と言うと『来て、見なさい』だってさ。」

筆者:「要するに、プロテスタントは宗教改革時、非言語的、五感的、身体的要素を排除しようとした。それで神の言葉である聖書を中心にし、説教が『信仰を育む』礼拝、教育、交わりの要になった。」

参加者Bさん:「東方教会のイコンや、香、カトリックの会堂の聖画など、が聖書に代わって信仰を育む役目を果たしている、と言うことでしょう。」

筆者:「最近の福音派の動向でこの問題と深く関連していると思われることがある。それは福音派の信仰や神学が、余りに言語、それも論理的言語偏重になっているため、霊的に満足できない人たちが、カトリックや東方教会に流出している。」

参加者Aさん:「ある時プロテスタントの礼拝に参加していて、あまりの言葉の洪水に、おいおいちょっと待ってくれよ。もうちょっと静思の時があってもいいじゃないか、と感じた。」

このような談論を導き出したのは、今回の読書会用に筆者が用意した「発表メモ」(※昨日ポストした)中で抜粋した一文にある『レクシオ・ディビナ』。

N・T・ライトは、その部分で、「聖書の包括的ストーリー構造、イスラエルの聖書である性格」が次第に薄れ、「教理と規範」の源泉としての「聖書の権威」化と、「レクシオ・ディビナ(今良く使われる表現で言えばデヴォーショナルな聖書の読み方)」が、聖書の読み方として代替するようになってきた。どちらの聖書の読み方も、「聖書の包括的ストーリー構造」と言う視点からは、聖書の記述を平板化する読み方になる危険がある、と指摘している。

ところが、ライトが言わんとしていることは重々分かるのだが、筆者が関心を持ち出しているのは、却ってその「レクシオ・ディビナ」と言う“訓練された”聖書の黙想的読み方なのだ、と言う筆者の言から、上記のような会話が導き出されたのであった。

(念のため付言しておくと、ライトは同書で「レクシオ・ディビナ」それ自体まで否定しているのではなく、「聖書の包括的ストーリー構造」の視点を維持した上で、「レクシオ・ディビナ」も含めた聖書の読み方の有機的統合を主張しているように思える。)

さて、談論の中で、単に個人的読者として「聖書の権威」を考えるのではなく、「コミュニティー」形成の視点から、「聖書を読む」あるいは「聖書の権威」を考えるとどんな事が言えるのか。
単に既存の「スモール・グループ形成のプログラム」を導入して、そのステップに従うようなあり方ではなく、例えばライト的な「聖書観」「聖書の権威観」をもとにしてどのように「コミュニティー」形成ができるのか・・・。
と言ったことについても談論は展開して行った。

以上断片的な報告ですが、今回の読書会の中身の半分位はカバーできたと思います。

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