2010年10月14日木曜日

「教会」のヴィジョン(続)

10月1日のポストで、同題で書いたものの続き、のようなものです。

前回、当教会が「目指すもの」として明文化されたものの第一弾を紹介しました。

わたしたちは、聖書からじっくり学ぶ、キリストの弟子たちの群れを目指しています。

これは当教会ホームページ(巣鴨聖泉キリスト教会ウェッブサイト)の標語のようにして掲載されています。

これをもう少し膨らました文章として、同サイトの「説教」ぺーじの左のコラムに以下のような文章が掲載されています。

 巣鴨聖泉キリスト教会が目指すのは、キリストの主権の下に、一人一人が「主イエス・キリストの弟子」として集まり、交わり、学び、礼拝をささげる群れです。
バプテスマを通して「メシヤのからだ」の一員とされ、主日礼拝を通し、聖餐を通して、「神の国」の福音を今に伝える「主の宣教」に参画する群れです。
これもまだまだ未完成な文章で、今後も神学的編集作業が必要だと思っています。

かいつまんでポイントとなる概念を列挙してみます。

①キリストの主権
福音書でイエスが弟子たちを召し出された時、イエスは「神の国」運動の指導者(預言者)としてでした。しかし十字架の死と復活後、全世界に派遣された弟子たちは、キリストの主権確立後の宣教を担う「弟子たち」です。(マタイ28:18-20、使徒の働き1:8)
イスラエル宣教が急務であった宣教と、イースター後の世界宣教とは、弟子としての歴史的文脈が異なります。二十一世紀に生きる私たちキリスト者は、当然イースター後の世界宣教を担う「弟子たち」です。その意味で私たちの宣教の働きはイースター後の使徒たちの宣教と密接に繋がっています。

②「メシヤの体」
教会は「キリストの体」と表現されていますが、神秘主義的に受け取られたりしますが、筆者は「メシヤ共同体」と言う解釈を中心線にして考えています。
バプテスマによってキリスト者は「メシヤと一体となる」、あるいは「メシヤ共同体に加えられる」のであり、聖餐は「メシヤとの一体性」を継続的に現すものであり、「メシヤ共同体」が“見える言葉”を通して相互に認識されるものであると考えています。

③「神の国」の福音
「神の国」は共観福音書において、ナザレのイエスが「福音」として語り、行い、象徴表現したものです。現代の福音的教会は「イエス・キリストの福音」を「個人の魂の救済」に焦点を絞って理解する傾向があり、「神の国」は言葉としては使われますが、その意味するところは曖昧で、なかなか具体的に明示されることがないように感じます。
筆者は「神の国」の福音は「イエス・キリスト」において成就した、それ故「イエス・キリストの福音」は「イエス・キリストにおいて成就し、また完成される神の国の福音」として、その連関を捉えています。(詳しくは「二つの福音?」をご覧ください。)

④「主の宣教」
教会の宣教は、その時代や置かれた社会のニーズに合わせて取捨選択するするような次元の問題を取り扱う前に、その根源であるお方から説き起こされる必要があると思います。ですから、宣教は先ず「神の宣教(ミッシオ・デイ)」です。
最近の宣教学では、ディヴィッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換』(上・下)(新教出版社)「本を枕にスピリチュアルな日々」ブログで紹介されています。の中で次のように書かれています。
MISSION AS MISSIO DEI
During the past half a century or so there has been a subtle but nevertheless decisive shift toward understanding mission as God's mission. (Transforming Mission: Paradigm Shifts in Theology of Mission, p.389.)
またこのテーマを旧約聖書神学の観点から包括的に扱った好著として、Christopher J. H. Wright, THE MISSION OF GOD があります。
(余計なことかもしれませんが、N・T・ライトに対して、O・T・ライトと、N. T. Wright自身がジョークにしていました。)

以上巣鴨聖泉キリスト教会が目指している「教会の姿勢・自己理解」を、牧師である筆者が説明してみました。

前回の「教会のヴィジョン」に書き込まれたコメントのように、これが教会員による共同作業になったら素晴らしいのでしょうが・・・。

8 件のコメント:

  1. 単純にいくつか書かれている言葉の質問なのですが、

    >イスラエル宣教が急務であった宣教と、
    >イースター後の世界宣教とは、
    >弟子としての歴史的文脈が異なります。

    の、「イスラエル宣教が急務であった宣教」とは何を指していますか?

    また、「メシヤの体」「メシヤ共同体」というのはよく理解できません。聖餐は例えば十字架の死を告げ知らせるということが重要なポイントだと思うのですが、「メシヤとの一体性」というと、イエスとの関連が少し間接的になってしまうように感じるのですが。。

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  2. 木人さん、またのコメントありがとうございます。投稿文の長さの関係で、二つか三つに分けて返答させていただきます。
    先ず「イスラエル宣教が急務であった」件
    詳しくは文中にリンクがある「二つの福音?」をご覧ください。イエスの宣教は「この時代」(ルカ21:32、比ルカ10:29-32)に来たらんとする「神の審き」の警鐘でもあり、そのための「悔い改め」のアッピールでした。「神の審き」はローマ帝国の武力によってもたらされましたが、イエスはそのことを暗に予告していました(マルコ)。ルカはマルコの記述をより具体的に解釈しています。(ルカ21:20-21、比マルコ13:14)
    注意深く読めばルカ9:51からエルサレム入城までは、この緊急事態に置かれた当時のイスラエルに対するイエスの警告が強迫を打ってエスカレートして行くのが読み取れます。

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  3. 「メシヤの体」「メシヤ共同体」についての件。
    わざわざ「メシヤ」と言い換えるのは、「キリスト」が次第に「イエス・キリスト」と固有名詞化され、「メシヤ」のユダヤ思想的背景が抜け落ちてしまう傾向があるからです。
    「メシヤ」は「ユダヤ人の王」として単なる個人ではなく、「イスラエル」を集約する「集合的性格」を持った概念です。(その思想の片鱗が、Ⅱサムエル19:43,20:1に窺えます。古代社会において「王」はしばしば「民を集約した人格」と考えられていました。)
    このユダヤ思想的背景が、パウロの「メシア」と「その民」との一体性の概念に現れているのではないか、と言う理解でおります。「キリストを着る」「キリストにつく」の表現などもこの思想的背景のもとで考えられると思います。

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  4. 聖餐との関連について。
    バプテスマも、聖餐(食事と言う面から捉えれば)も、「メシヤと一体となる」ところに「贖い」の契約共同体に属している事実を表します。(パウロは、旧約ではモーセがその役割を担ったことを「キリスト論」的に再解釈しています。Ⅰコリント10:1-4)
    聖餐自体の多義性は論を待ちません。出エジプトの背景があり、エレミヤ預言(新しい契約)の背景があり、「終わりの日のアブラハムの食卓の祝宴」のイメージが背景にあります。過去(過ぎ越しの食事)、現在(弟子たちとの最後の晩餐)、未来(神の国での祝宴)が重なっています。
    「イエスとの関連が間接的に・・・」の件。
    第一コリントの聖餐制定文箇所とその周辺をご覧ください。「イエス」の言及は、「最後の晩餐」の歴史的言及の部分だけで、残りは「主」と言及されています。
    「主の晩餐」「主から受けたこと」「主が来られるまで」「主の死を告げ知らせる」「主の杯」「主のからだと血」など。(新改訳)
    このことから聖餐は「地上でのイエス」に言及するよりも、天に挙げられ、御座に着いておられる、教会の頭なるお方により関連付けられているのではないでしょうか・・・。(もちろん「主」と「イエス」は別な存在ではなく、強調点としての話ですが。)

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  5. いつも丁寧に答えて下さりありがとうございます。
    「二つの福音?」の記事を読み、また返信コメントを読んで、
    二つの宣教の意味がよくわかりました。

    二つ目の「メシヤの体」の件ですが、その用語を使う意味内容は大体わかりました。
    メシヤがイスラエルを集約する集団的性格を持った概念、ということで、第二サムエルの箇所を例として挙げていただきましたが、
    この箇所でメシヤ=イスラエルとは自分としては考えづらいです。
    レビ記4章の「罪のためのいけにえ」の規定を見ると、(大)祭司の罪の場合と、全イスラエル罪の場合は同じ工程で罪の贖いをしますが、
    「上に立つもの」(22)これは王にも使われる言葉ですが、その場合は犠牲動物もその工程も違います(至聖所には入らない4:22ff)。
    レビ10:6にも、「あなたがたの身内の者(祭司)、すなわちイスラエルの全家族」とあり、旧約において王というより祭司が全イスラエルを集約・代表するものではないでしょうか。
    ですから、キリスト→メシヤ→王→イスラエル、というつながりが、ちょっと考えづらいと思います。
    「かしらなるキリスト」(エペソ4:15)というとき、やはりイエス個人に強調があると思うのですが。。

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  6. >至聖所には入らない

    「聖所」の間違えでした。訂正します。

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  7. なかなかコメント欄で議論するには余りにもスペースがなさ過ぎますので、本当に「サイン」程度を列挙するだけに留めます。
    民の贖い(大贖罪日)において、イスラエルを代表するのは大祭司であるのはそうですね。その点ヘブル人への手紙の思想はこの背景から来ていますし、贖いのための「大祭司イエス」と「民(兄弟たち)」との一体性が受肉に関連付けられています(2章)。
    また「メシア的人物」が「王と祭司と重なるように書かれている」ゼカリヤの預言もあります(6:12-13)。
    しかし、レビ4:22「上に立つ者」の咎が「民との連帯性」を示唆するのが、却ってダビデ王自身のこととして記述されています(Ⅱサムエル記24章)。

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  8. 後付言すれば、歴史的人物、ナザレのイエス個人を指す時は「イエス」でいいわけです。
    問題はイエスに付けられるタイトルです。イエスと組み合わされているタイトルとその順番だけでも複雑です。
    イエス・キリスト、キリスト・イエス、主イエス、主イエス・キリスト、これに「人の子」「神の子」などと加えていけばキリスト論の大掛かりな議論になってしまいますからできません。
    ただ「キリスト」が「ユダヤ人の王」(十字架刑の罪状書)を明示していたことは使徒の時代には明らかだと思います。なぜ彼らは敢えて危険な「ユダヤ人の王、メシヤ」の呼称を使い続けることにこだわったのか。答えはイエスが真の王であり、真の主だからだと思います。
    と言うわけで、キリスト=メシヤ=王(集合的人格)がパウロ神学の背景にあると見るのはあながち的外れではないと思っています。

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