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2017年1月8日日曜日

(3)とりあえず一言

(1)この記事を書くに至ったいきさつ

 お友達のMH氏が新教出版社の月刊誌『福音と世界』(2017年1月号)に「万人祭司」に関して自己の教派的伝統からの小論(『万人祭司とキリスト集会派』)を書き、その号をご恵贈くださった。

 筆者とは別に贈呈を受けたK牧師がフェイスブック上で感想を披露なさった。

 その時点で筆者は小論を一読していたが、まだお礼のようなものは私的にも公的にも書いていなかった。

 まだ何かを書く気には至っていなかったが、お礼も言っていなかったので、K牧師の感想にかぶせる形でちょちょっと(フェイスブック上で)書いた。

 そうしたらMH氏がブログで自身の小論にコメント等を寄せた方々の文章からトピックを取り上げて3本の記事にしてアップした。

 その3番目の記事「『福音と世界』小論の著者としてのちょっとした応答 3」が

 「タカ牧師からの問題提起」

となっていて、ちょっと面食らったが、最近ブログ上での対論や討論はとんとなかったのでピンボケになるかもしれないとも思ったが、少し「反応」してみようと思った次第。


(2) プロテスタント諸教派の比較・・・メリット、デメリットで論ずることについて

 MH氏の記事は筆者のコメントを全部掲載した模様だが・・・

    (1)メリット、デメリットを判定している基準は何か。
    (2)分裂・分離した後「キリストの教会の一体性」をどうするのか。

    あるブログで「信仰進化」というカテゴリーで記事を書き出したのですが、MH氏もこのカテゴリーで書ける「動く標本」(失礼!)のような印象です。

と、このような書き出しで始まる文章を書いたわけでした。

しかし、最初の(1)の「メリット、デメリット」に関してはK牧師の以下のコメントを受けてのことでした。
    有給聖職者を置かないキリスト集会派ゆえのメリットもあるし、とは言え、専門教育を受けた者がいないゆえのデメリットもあるなぁと。多くのプロテスタント教会における牧師と信徒という関係ゆえのプラスもあるけれど、専門家に任せておけばいいという甘えや専門家ゆえの権威主義といったマイナス面も起きかねないことも感じます。

K牧師のこのコメントは、MH氏の小論(福音と世界1月号)のテーマである「万人祭司」についてと言うよりも、教会が(有給で)牧師を置くことのメリット、デメリットで、教会形成の実際問題として考え方、みたいな意見ではないかと思う。

それに対して筆者のコメントでの「メリット、デメリット」云々の意図は、広く「教会論の問題」が念頭にあってのことだったように思う。

宗教改革(と、その後も含め)の教会論は、第6回日本伝道会議の「N.T.ライトの義認論」でも問題提起をしたが、最近増々その感を強くしているところである。

   ※以下のような部分の指摘がそうです。
それは、従来の福音派においては、「救済」においても「敬虔」においても個人的で主観的な視点が強いため、「福音」を正しく伝承し保守するために不可欠な「聖礼典」「職制」、いわゆる「教会の外的しるし」を中心とする伝統的「教会論」がかなり弱体化していることです。
 伝道が実を結ぶためには、「福音」の明証性ともに、福音の伝承を媒介する制度的教会に対する正しい見識が必要ではないでしょうか。


(3)「真の教会のしるし」

 神学校時代に覚えた「(真の)教会のしるし」、
(1)神の言葉を正しく説教する、
(2) 聖餐を正しく執行する、
が思いがけなく「義認論」で浮上してきたのだが(それについての経緯はここでは書かない)、聖職者制(職制と普通呼んでいるが)のメリット、デメリットが云々される文脈だと、突き詰めれば、この「真の教会のしるし」の議論に繋がっていく必要があるのではないかと思った次第。

この辺のことはまだまだ考察中で上手くまとめきれていないのだが、職制の考え方として「教職と信徒」の関係の問題というよりも、「使徒職」からの繋がりが先ずあるのではないかと思う。

聖霊の賜物としての「教える」ことが、ある意味「万人祭司」の考え方を支持する新約聖書的基盤であるが、そのラインでの問題ではなくもっと「神の言葉=福音の真理の(伝承と)弁証」に関わるのが(使徒)職制の意義ではないかと思う(Ⅰコリント15章)。

そのラインと並行すると思えるのが「聖餐」 である。

聖餐も、聖職者階級が独占していた「救いの恵みの配給」を万人祭司によって打ち破る・・・みたいな意義ではなく、福音の「見える言葉」としての聖餐を保守する役割としてのものであり、これも使徒職に遡る(Ⅰコリント11章)と言う認識である。

つまり、(1)神の言葉を正しく説教する、(2) 聖餐を正しく執行する、がなぜ職制と関わり、なぜ万人祭司的なオープンな考え方でやることに(少なくとも現時点で)なじまないかは、「福音」ということの「伝承」的側面から出てくる要請ではないかと思う。

新約聖書に遡ると第1コリント15章冒頭にあるように、「福音は厳密な伝承」を要請するプロセスであった。同じく聖餐も(福音を表すゆえ)同レペルの「伝承」のもとに執行された(と考えられる)ゆえ、「制度」として客観性がまがりなりにも保持され今日に至っているのではないかと思う次第。

職制と言うのは、「福音」の伝承が真正であることを管理し、客観的に保証する必要に伴う「必須の制度的枠組み」であることが大事な認識ではないかと思う。

この目的に沿った人的選択と訓練が重要視すべき問題となるのではないか。


以上試論的な域を出ないが「とりあえず一言」。

2016年7月14日木曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、4

「2 17世紀プロテスタント正統主義」(33-44ページ)

今回の部分は筆者にとってはかなり未知な部分で、16世紀の「宗教改革」とある程度のファミリアリティーがある「18世紀(初期信仰復興運動)」 (次章の区分で扱われる)の間に横たわる「知の空白」大陸である。

だから余り危なっかしいことは言わない方がいいのだが・・・。
 
『逐語霊感』と『十全霊感』
 「十全」とは、霊感が部分ではなく、聖書全体に及んでおり、したがって、救いや信仰のことだけでなく、歴史や科学の領域にも及んでいるという考え方である。「言語(逐語)」とは、霊感が思想だけでなく、一つ一つの言葉にも及んでおり、したがって、霊感が言葉と結びついていると考える。 

逐語霊感・・・聖書の記者による「言葉の選択」にまで及ぶ
十全霊感・・・救いや信仰のことだけでなく、歴史や科学の領域にも及んでいる

先ずもって「逐語」と「十全」の違いがピンと来ない。

論理的順番で言うと、①十全霊感があり、それをさらに強化するために、②逐語霊感にまで進めた、と説明されると納得行くが・・・。

つまりこう言う風に「意味(思想)」と「言語構造(語・フレーズ)」の関係を捉える場合である。

 「意味(思想)」を建物の2階部分、「言語構造(語・フレーズ)」を建物の1階部分にたとえ、下部構造が上部構造を規定する、と理解した場合のことである。

しかしその辺のところはさっぱり分からないので、目下はそれなりに「当時の霊感論が時代精神(合理主義、ロマン主義)にある程度影響されて形成された」ものであり、しかしそのような霊感論として形成される論理的必然性は「聖書の権威」を「(人によって)書かれた言葉であるが、真理の直接啓示」として弁護・保証するため、二重三重に論理武装する必要を覚えたから、と仮定しておこう。

17世紀は筆者にとって「知の空白」大陸と書いたが、妄想的仮説を乱発しそうなのでもうやめておこう。

宗教改革後のプロテスタント・スコラ主義が歴史的にどう発展したのかは、今後のより実証的な歴史研究を探すこととしよう。結構面白そうだ。

あるいは時代背景として興隆しつつある「合理主義(rationalism)」との関係が「思想史的」に追跡されると面白いかもしれない。

(次回に続く)

注:「改革派の正統主義」と云う文章が見つかりました。参考になるかもしれません。

2015年5月29日金曜日

(5)『アポカリプス(黙示)』と『終末』

今年2回目のライト読書会(案内ガイド1ガイド2)のテーマがアポカリプス、と言うことで少しランダムにあれこれ書いてみます。


課題論文は"Apocalypse Now?"(1999年)となっていますが、アポカリプスはご存知ヨハネの『黙示録』のギリシャ語名ですね。

フランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(1979年)の原題 Apocalypse Nowにかけているわけでしょうね。


課題論文"Apocalypse Now?"は「千年紀末」を迎えて「世の終わり」っぽい言説に溢れてきたところで書かれたものです。

何しろ元はと言えば聖書が出展となっていることですから、聖書学者としては放置できない、と言うことでしょう。


Apocalypse Now?からピックアップすべき点を二つほど挙げてみます。

(1)『リタラル(文字通りな)』と『メタフォリカル(比喩的な)』の区別
※カタカナ表記では『リテラル』とするらしいが

 一応の説明はガイド1を見ていただくとして、「what is literal and what is metaphorical」と言うことなのですが、これがなかなか説明するのがやっかいなのです。

 アポカリプティックに関する例で言えば、「空中で主と会う」(第一テサロニケ4章17節)や、黙示録の「千年王国」が挙げられます。

 リタラル/メタフォリカルの区別はあくまで解釈における第一段階で、実際はもっと複雑な考察が必要とされると思いますが。

 ビブリシズムの問題とも絡みますが、単に文学的表現としてのリタラル/メタフォリカルの区別の問題を越えた「大きな聖書解釈枠」の影響があると思います。

 神の啓示の書としての聖書は、その「普遍的真理性」の前提から、リタラルで常識的な解釈が優先される傾向があること。

 このある意味「決め付け」傾向は、聖書と言う複雑な言語・文学表象を持つリアリティーを「平板に」(そして一律に)解釈する方向に行きやすい。

 換言すれば聖書の文学的複雑性、言語表現の多様性を犠牲にしても、信じ従うべき(命題的)真理形式に置き換えられやすい、と言う問題を生む。

 この「決め付け」傾向の問題に一層拍車をかけたと思われるのが、啓蒙主義以降の「合理主義」との対決。

 人間の「理性」に対抗して「聖書の権威」を強調することによって、必要以上に「科学」に対する聖書の「エピステモロジカル」な優位性を主張することになった。(「特別啓示と一般啓示」の立場から、「信仰対科学」に変わって行った。)

 「創造論」対「進化論」における「六日創造」説は、文学的表現としてのリタラル/メタフォリカルの区別と言うよりも、科学説に対抗するために押し付け(結果歪め)られた「解釈枠」と見ることも可能と思われる。 
 
(2)『黙示(表現・文学)』と『終末論』との混同

 先ず認識に挙げておくべきは「黙示」と「終末」は同じことではない、と言うことではないかと思います。

 黙示(英語はrevelation)とは、端的には、「今まで隠されていたものが明らかにされる」ことです。

 簡単に言えば、新約聖書は旧約聖書が「終わりの日」に起こるであろうと預言していた事柄が、イエス・キリストにおいて実現したことを主張(宣言)するものです。

 その意味で最も中核的な「黙示」的出来事は、イエスの十字架の死と復活、昇天・占座、聖霊降臨、と言えるでしょう。

 しかし、これら一連の出来事は(旧約)聖書の視点からはみな「終末」に属するものでありながら、ナザレのイエスに特定した歴史的出来事としてはその終末性が多くのユダヤ人には明らかではなかった。

 「メシヤの死」がある意味逆理的に「神の義」を啓示した、と主張するのがロマ書であり、その他のパウロ書簡も含め、使徒書簡は「イエス・キリストの出来事」の終末性を噛み砕いて明らかにするもの、と言うことが出来るでしょう。

 しかし、「新天新地」「万物の更新」、つまり「終末」の事柄のうち、「未だ(Not Yet)」に属する事柄、まだ将来に残されている「終末」の事柄があります。

 ここに所謂「キリストの再臨」とそれに伴う事柄が関わってきます。

 上掲、(1)『リタラル』と『メタフォリカル』の区別、の例で挙げた「携挙」や「千年王国」です。

 ところが、再臨、携挙、千年王国、は既に成就した終末の出来事である「イエス・キリスト」の死と復活に「碇を繋」いで展望すべき事柄なのに、どうも「預言/予言の成就」式に「世界史の動向(特にイスラエル国家)」と絡めて追尾し、一喜一憂する傾向が後を立たないようなのです。

 (と、これはかなり個人的な見解かもしれませんが。)

 例えばヨハネの黙示録の破滅的なシナリオを「世の終わり」の出来事として(一方的に)強調する傾向は、ライトが指摘するように、新約聖書を出展としますが、新約聖書の世界観とは異なるものです。

 いわゆる「アポカリプティシズム」は、多分に悲観主義、二元論的思考に影響された逃避主義に特徴付けられ、一つの世界観として整理されうるものです。



《附記ー個人的な回想と感想》

 筆者の属する教会は中田重治が牽引した「日本ホーリネス運動」の流れにあるが、その神学的遺産である『再臨(四重の福音)』や前期千年王国説的歴史的展望や関心(イスラエル国家)とは余り関わりがなかった。

 しかし間接的に「再臨近し」的な言説は聞かれたこともあった。

 昨年ある会話で、「最近、教会内で再臨のことが取りざたされることが殆ど無くなった印象を受けるのだが、どうだろう」と持ちかけたことがあった。

 知人の中にはディスペンセーショナリズムの影響下にあった者たちも結構多い。

 と言うことは日本の教会では、アポカリプティシズムがもたらす影響は現象的には表舞台から姿を消しているように見えるが、そのような「世界観」の要素が消えたわけではない。

 世間では依然として「アポカリプティック・サウンド」とか「世の終わり」とかの「世紀末」を匂わせたり、煽ったりするようなものがサブカル的にも流通しているようである。

※[追記・・・2015/5/30] 適当にサブカルと書いたが殆ど詳しいことは分からないのだが、今日たまたまこんな記事をヒットした。ここまで来るともう何と言ってよいのやら・・・唖然。これだと牧師自らが仕掛け人になっている。これこそもう「世の○○り」みたいなものではないか。

 つまり、「終末」に関する整理されたクリアーな思考との取り組みが始まったわけでも無さそうである。

 今度のライト読書会は、そう言う意味で、「健全な神学(終末論)」を目指す藪漕ぎのようなものではないかと思っている。

2015年5月22日金曜日

(5)タカ牧師のセブン-2

シリーズ最初のセブンからしばらく経ちました。

まだしばらくは「フォルダ」にたまったものが中心になると思います。

と言うことは前回ほどではないですが、少し古い記事もあると思います。

そんな前置きで始めます。


1. The 10 Most Influential Churches of Last Century
  『最近100年の教会トレンド・トップ10』

 CT誌が、過去百年、教会の中での「目立った動き」を10選び出して解説しています。

 時系列で見る教会史よりも、ざっくりトピカルに概観できるので、英語が苦手な人にも読みやすいかと思います。
 スコフィールド聖書、ヨイド純福音、カルバリー・チャペルなどが入っています。

2. Is the Gap Between Pulpit and Pew Narrowing?
  『聖職者と信徒の溝は埋まってきたのか』

 仕事の意義を語る説教によって、信徒はどれだけ自分たちの職業を積極的に見れるようになっているか、をリサーチして記事にしています。

3. 7 Thoughts From A Chronically Unhappy Person
  『常習うつ人間が思った七つのこと』

 作家さんらしい女性が、常駐するうつ症状を報告しながら、対症療法やアドバイスについてエッセイ風に書いています。

4. 「クリスマスと正月が同居する日本」に世界の宗教家が注目! 寛容の精神に見る、宗教の本質とは

 TEDxkyotoの読み物版。京都の僧侶が、日本の混淆宗教事情を「寛容の精神」、と逆手にとって「世界に発信しよう」と頑張っています。

 「8時だよ! 神さま仏さま」と言うラジオ番組も宣伝しています。

 最近はテレビ朝日の「ぶっちゃけ寺」も話題になっていますね。

5. ドイツ哲学者三島憲一氏「東電に骨抜きにされた日本国民」

 筆者の関心領域から言うと、ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスの著書を翻訳していることで有名な三島氏。

 福島第一原発事故後まもなく、独ツァイト紙に発表された記事をこのブロガーがボランティアで翻訳したもの。

6. On Not Being Funny In Japan
  『日本ではなかなかジョークが通じない』

 文化の違いでもジョークは難しいものの一つ。どのようなジョークがどの程度通じるか、分析しながらアドバイスしています。

 読み方によっては、日本人の気質についての文化論入門みたいなものか・・・。

7. I Ghostwrote Hundreds of Chinese Students' Ivy-league Admissions Essays
  『私は中国人留学生のアイビー校入学審査用論文を何百と代筆しました』

 本当だとすると、何かひどいですね。「裏口」からコソコソと言うより、お金にまかせてガンガン中央突破、といった印象を持ちます。

 経済格差の問題も背景にはありそうなので、現代の縮図として読めるでしょう。


以上でした。


2015年1月6日火曜日

(5)マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか、①

いやー、あらためて指摘される見てみると本当だね。
今まで殆ど気にも留めなかった。

先ず「マルコ福音書7章16節が抜けている」ことにどうして改めて気づいたのかを説明しよう。


先日マイケル・バードが以下のツイートをした。
で、リンクを辿ってみると(当たり前だが)バード/ウィリッツのユーアンゲリオン・ブログの記事であったが、ただ単に「ダニエル・ボヤーリンのモスクワでの講演動画」が置いてあるだけだった。

で、15分足らずの動画を見た。(面白かったが、腑に落ちない部分がかなり残った。)


と、長い話を短くすると、その後この動画を何度か繰り返し見たのだが、(ボヤーリンの「マルコ福音書7章16節が抜けているのは陰謀だ」説は置いておいて)、彼の解説はある程度説得的だが、イマイチ飲み込めないのである。(全体の流れを理解できないでいる、と言った方が正確だが。)


ここでボヤーリンの動画は一先ずおいて問題箇所を見てみよう。

(1)新共同訳聖書
7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
7:16 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。
7:17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。

(2)新改訳
新改訳では15節の脚注に「後代の写本に16節として、『聞く耳のある者は聞きなさい』を加える」とある。

新共同訳で「底本」、「異本」辺りのことについて追加すれば、
(3)United Bible Societies編のギリシャ語新約聖書
では、16節の欠落については「B」判定となっていて、(この判定を解説する)メッツガー編のA Textual Commentary on the New Testament、では
This verse, though present in the majority of witnesses, is absent from important Alexandrian witnesses... It appears to be a scribal gloss (derived perhaps from 4.9 or 4.23), introduced as an appropriate sequel to ver. 14.
と解説している。

つまり大多数の写本では「16節は欠落していない」が、「重要なアレクサンドリア写本で欠落している」ため、アレクサンドリア写本の信頼性を取った、と言うことである。

また欠落の説明として「写本筆者士による注記ではないか」とある。
写本筆者士が4章9節や23節のように、(本文では15節で無造作に終わって17節へと繋がっていくのを)、15節の後「聞く耳のある者は聞きなさい。」と(16節を)挿入して体裁を整えようとしたのではないか、との推察である。


※次回はボヤーリンの解説を取り上げてみよう。

2014年1月25日土曜日

(4)信仰と科学

昨日は朝から軽い頭痛がしていた。
頭痛薬を服用したが、夜になっても余り変わりばえしないので、早めに就寝することにした。

目が覚めたのは3時半過ぎ。
今度は空腹の時のような軽い腹痛。

また寝ようと思っても無理そう。
しかし起き上がるのには早過ぎる。

どうしようってんでスマホにすがりついた。
ツイッターやフェイスブックは面倒くさい。

ラジコは好きな音楽がない。
辿りついたのがYOUTUBE。

ちらほら探して時間潰しになりそうなのはこれか、と選んだのがこれだ。


ジョン・レノックスの動画(講演)は何度か聞いたことがある。

オックスフォードの数学の教授だが、キリスト教信仰を弁証する際には、「宇宙の実在を人格的創造神の存在」に訴えることは当然ながらするが、むしろ素朴に敬虔にイエス・キリストの十字架と復活の意義をアッピールする。

その点C・S・ルイスの「キリスト教の精髄」の議論のように、「道徳世界」の前提と「罪の現実」を軸にする。

片やリチャード・ドーキンスは、と言うと、これが真面目に聞いたことはまだなかったのではないかと思う。

数年前、アリスター・マクグラスと討論したり、N.T.ライトが彼をdismissするような発言を聞いたりしていたので、「聞くに値しない」と思っていた。

しかしこの討論を聞いてみて、やはりドーキンスなりのスタンスがあることが分かったような気がする。
「無神論」と区別されるが、思っていたほど攻撃的でも狂信的でもない印象である。

一通り聞いて感じたことはレノックスとドーキンスはやはり「Worlds Apart」なのだろう。どちらかが相手を説得するだけの切り札は持っていない。

もちろん世の中に無神論者はいろいろいるだろうが、ドーキンスのようなcommittedでインテリジェントな神論的説明不要論者はそれほどいないのではないか。

信仰もしばしばそうであるように、無神論もまた多くの人にとって、It Just feels like it、な選択に過ぎないケースが多いのではないか。

ドーキンスのように、生物の起源、宇宙の起源、生命の起源に関して、神論的説明は不要であり、むしろ科学を阻害する有害なものであることを論じるのに熱心な方は珍しいのかもしれない。

欧米では年齢が低くなるに従って「無神論」の立場を取る、あるいは表明する者の割合が増加傾向にあると聞くが、既成宗教の否定の裏でスピリチュアリティーへの関心が持続しているのとどこかで関連しているのではないだろうか。

ドーキンスはキリスト教の「救済信仰」的な面(人間の罪をキリストの死が身代わりで赦す)をpettyと度々指摘していた。

この点に関してはボンヘッファーも指摘していたし、近年そのような個人的救済宗教の牙城である「福音派」内部からも自己批判がかなり出てきている。

ドーキンスの指摘は誇張もあるが、キリスト教の新たな捉え方、あるいは提示の仕方の必要性を示唆しているかもしれない。

レノックスは最後の方で、ハーバーマスが「公共世界」を維持する上でキリスト教に基づく倫理の必要性を指摘していることを、キリスト教信仰の有効性のポイントとして挙げたが、これはドーキンス相手には上手く噛み合いそうもない議論であろう。

筆者の見たところ、ドーキンスの主張・議論はかなり狭い。
「生物の起源」、「宇宙の起源」、「生命の起源」はマクロな知的問題であるが、日常世界を生きる人間を四六時中拘束する問題ではない。

人間関係に悩み、病気に苦しみ、人生の不条理に悩み、愛し憎み合い、対立し殺し合うことに満ちている「現実」世界を生きる殆んどの人間にとっては(ドーキンスもその一人であるはずだが)、科学が問いそして提供する言説は、宗教が提供するそれよりも今のところかなりかけ離れていると言うべきだろう。

生物は自然淘汰して進化してきたことがどれだけ生物学的に証拠に基づく合理的説明であったとしても、自由・平等・慈悲・親切といった倫理的価値観を駆逐するような説得力を持ちえるかどうか疑わしい。

人は「知的パズル」を解明する為に生まれてきたのではなく(それも重要なものであるが)、よく生きるために生まれてきたのだ。

よく生きるとは、この世界で人が与えられたあらゆるもの(困難や悪も含めて)に対して回答を求めて行く生き方であり、その点で(自然)科学はすべての答えを持つものではないただろう。
人類はそのような生きる知恵を宗教的伝統に求めざるを得ないのではなかろうか。

まっ、以上は寝て起きたばかりのボケ発言とご容赦ください。