2019年8月13日火曜日

(4) 2019「終末論」ノート②

今年6月10日の日本福音主義神学会・東部部会研究会がきっかけとなり、「終末論」についての意見交換がフェイスブック上で始まったことについて書いた。(2019「終末論」ノート①)

既にライトの『驚くべき希望』も読み、最近「終末」や「福音」についての理解が大きく変化してきたと言うK氏(フェイスブック友達でもある)。
「ではライトは『千年王国』についてはどういう位置づけなのか」、と言う問いを出された。

なるほどライトは(前回書いた「終末論の整理」でいうと)、(1)個人的終末論、と(3)宇宙的終末論の正しい関係については関心を示すが、(2)民族的終末論に関係する千年王国については『驚くべき希望』ではほとんど何も言及していない。
(※「千年王国/黙示録の解釈問題」は『神の子の復活(The Resurrection of the Son of God)』で多少扱われているのは確認した。)

最初はスルーしようかとも思ったのだが、改めて考えてみて「これは学びの良い機会」「終末論の整理の良い機会」になるのではと思い「『終末論』の勉強会」を企画することにした。


筆者は(日本の福音派の中で)ホーリネスと言う流れに属するが、実は「千年王国」に関しては殆ど関心を持たずに来てしまった。(そのことはフェイスブックにはコメントしておいた。)
だから「再臨」が「千年期」の前・後・無のどれになるのかの諸説については殆ど知ろうともしなかったし、ましてや「携挙」があるなし云々など考えるだに忌避していた。
ところが筆者の周りでは案外これらの諸説に関して熱っぽい関心を持っている方がいて「やれやれ」と思うことも多く、筆者が本末転倒と考えるこれらの終末論諸説のせいで終末論自体に長い間距離を取ってきたと言える。

1 「神の国」とメシア、福音書の意味の地平
忌避し距離を取ってきた「終末論」だが、礼拝の学びで「共観福音書」を講解するようになりそうも行かなくなった。(もうだいぶ前の話)

「神の国」とは何か。
初歩的なワードスタディでもがいているときにたまたま友人から寄贈されたG・B・ケアードの『新約聖書神学』が開眼を与えてくれ、さらにケアードの指導のもと博士論文を書いたN・T・ライトの特に『イエスと神の勝利(Jesus and the Victory of God)』が明確なアプローチを示してくれた。
(※このあたりの経緯については、自伝的「新約聖書学」最近研究状況レポート、 N・T・ライトを中心に、に書いた。)

さて質問をくれたK氏はかなり変わってきた自身の福音理解を現時点でパッケージにすると以下のようになるという。
今では、私の理解する福音は、1十字架での罪の赦し、2朽ちない体への蘇り、3キリストの来臨と悪の清算、4キリストのこの地上での千年間の統治、そして5新天新地の永遠の秩序、というパッケージです。
これに対してまず筆者が思ったことは、(終末に起こるとされる様々な出来事を整合的に順序づけることよりも)いかにしてナザレのイエスによる「神の国」の福音が使徒たちの宣教に継続・展開していったかを知ることの方が大事ではないかということ。
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイの福音書28章18-20節、新共同訳)
それは神学的にも歴史的にも「イエスの宣教」「使徒たちの宣教」を理解することであり、イエスのガリラヤ宣教から、使徒たちのユダヤ人伝道・異邦人伝道へと展開していく内在的論理を把握するということである。

すなわち「千年王国」というような「メシアの統治による王国」が、イエスの宣教においても、使徒たちの宣教においても、少なくとも表面上はバイパスされてユダヤ人伝道そして異邦人伝道へと継続・展開していったか、を理解することであった。

(このバイパス展開を示唆するものとして以下の箇所を掲げておく。)
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒の働き1章6-8節、新共同訳)
ご存知のようにメシアと期待したイエスがローマによって十字架刑死させられ、一旦は崩壊したと見えたイエスの神の国運動であった。イエス運動支持者たちの心中が端的にルカ24章のエマオ途上の弟子の一人によって表白されている。
わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。(ルカの福音書24章21節、新共同訳) 
すなわち、イースター後の弟子たちは依然として「イスラエル復興」への期待を保持しており、復活前にイエスによって予告されていた「旧約預言者たちが語っていた『神の国』の(隠された)ストーリー・ラインは、キリストの(十字架の)死と復活によって成就する」ことをまだ十分に理解していなかったのであった。
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。 (ルカの福音書24章44-48節、新共同訳)
K氏の疑問である『千年王国』の「終末の歴史的位置付け」の問題は、単にライトによって回避されているだけでなく、「メシア王国の現世的・政治的実現」がイエスの宣教においても、また使徒たちへの宣教命令においても、表面上は一旦脇に置かれていることを確認する必要があるだろう。

(共観)福音書が描く、一世紀当時顕在的・支配的であった『神の国』シナリオは、「メシア」がもたらす「イスラエルの民族的・国家的回復」として国際政治的文脈上に実現するはずのものであった。具体的にはローマによる支配からの脱却・解放であった。
おそらくイエスの弟子たちもこのシナリオの延長線上でイエスの「神の国」宣教を理解しようとしていたのであった。

しかしイエスはこのような顕在的支配的神の国のシナリオではなく、十字架復活聖霊と(ユダヤ人と異邦人による一つの)教会、という神の国の隠れた(アポカリプティックな)展開を聖書から読み取っていた、と筆者はそのように思うのである。


さて本論に入り始めたがとてもとても一回では書ききれなかった。次回に続けることにする。

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