その続きを書こうと思うのですが「紀行」としての続きはあきらめて、「救いの教理」について書いた流れを受け、「義認論ノート」として書いてみます。
「ライトの義認論」をめぐる神学討論会のために下準備として読んで「メモした材料」が色々あるのですが、なかなかまとめて紹介するのは骨が折れるので、「義認論ノート」として小出しで発表しようと思います。
と云う構想はかなり前からあったのですが、(そしてある程度までは書き溜めたのですが)、たまたまその呼び水みたいな文章を読んで、ようやくアップすることにしました。
以上が「序」とでも言うべき部分です。
次に「イントロ」が待ち構えています。
経緯と云うものがあるので即「義認論」にはまだ入れないのです。残念ながら・・・。
(1)5月27日のライト読書会
の案内をブログにアップしたばかりなのですが、今度読むライトのテキストは
A Royal Priesthood?
The Use of the Bible Ethically and Politically
A Dialogue with Oliver O'Donovan
に入っているのですが、この「Royal Priesthood」論集はちょうど3年前に購入してブログでも記事にしていました。
この「Royal Priesthood」繋がりで、ジョン・ハワード・ヨーダーの
The Royal Priesthood: Essays Ecclesiastical and Ecumenical
を同じ時に購入していたのです。
と言うか、こちらの方が「ヨーダー読書会」のテキスト用に必要で購入したわけでした。
そして「最初に紹介した方の論集」は「Royal Priesthood」繋がりでついでに購入したのでした。
ヨーダーのThe Royal Priesthood、はその後読書会で少し読み進めたのですが、まもなく読書会自体がストップしてしまい積読状態になっていたのです。
先日、5月のライト読書会の準備も兼ねて、「Royal Priesthood」繋がりで「ヨーダーの方の論集」を少しページをパラパラやっていたら・・・「義認論」関連の箇所に出くわしました。
Few assumptions have been more widely shared in Protestant thought than the identification of the messages of Paul and Luther with the promise of a new hope for the individual in his subjectivity. Luther in his rejection of the cultural religion of the Middle Ages, ..., raised as his banner the pro me of the forgiven sinner. That God is gracious to me is the good news that Zinzendorf, Wesley, Kierkegaard, and today both Rudolf Bultmann and Billy Graham ... have derived from Luther and have labored to keep unclouded by any effort to derive from it ... a social program or any other human work. To safeguard the pure gratuitousness of grace, any binding correlation with human goals or achievements must be studiously kept in second place.この論文の初出は1967年ですから、まだ「サンダース、ダン、ライトらの名前が登場するNPP論争」が始まる前です。
This assumption ... is now being dismantled under the impact of the exegetical theology of this century. ... Today such scholars as Markus Barth and Hans-Werner Bartsch are finding as well even in the writings of Paul, yea even in Galatians and Romans, a hitherto unnoticed dimension of community extending even into the meaning of such words as justification. (P.73 下線は筆者)
(もっともクリスター・ステンダールの『The Apostle Paul and the Introspective Conscience of the West』は1963年ですが・・・。)
前段落では、ルターの「福音の再発見」が極端に個人的・主観的なものであり、それがジンゼンドルフ伯爵、ウェスレー、キルケゴール、そして不思議な縁(?)ですが、(20世紀を代表する聖書学者)ブルトマンと大衆伝道者ビリー・グラハムに受け継がれている、と指摘しています。
ヨーダーにとっての問題関心は、この「極端に個人的・主観的信仰」を純粋に守ろうとするばっかりに「倫理的側面、社会的な脈絡」を切り離してしまう傾向なのですが、(次段落では) 近年のパウロ研究(釈義学)がこの主観的信仰の土台とも思われた「義認(justification)」にまで「共同体」のニュアンスが含まれていることを見出し始めている、と指摘しています。
この「義認(justification)」への適用に関してヨーダーは「イエスの政治」(1972年)で展開している議論を参照するよう脚注で述べていますが、確かに第11章「恵みによる、信仰による、義認」でこの新しいパウロ研究の視点を紹介しています。
「イエスの政治」を購入して読んだ当時はこのあたりの論争点にはまったくと言っていいほど無知でした。
We could in fact most properly say that the word "justification" ... should be thought of in its root meaning, as a verbal noun, an action, "setting things right," rather than as an abstract noun defining a person's quasi-legal status as a result of a judge's decree. To proclaim divine righteousness means to proclaim that God sets things right; that it is of his nature and the nature of his covenant that he is a right-setting kind of God. (P.229)と、かなりライトの「義認」解釈と重なると言うか、むしろライトが改革派神学との整合性を保持しようとするニュアンスがあるのに対して、「共同体」ニュアンス方向に舵を切っている印象です。
(2)マーカス・バルトの義認論
(この続きに関しては「義認論ノート」で、次の機会に・・・)
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