遅々として進まず・・・ですが、継続を力として何とかまた一歩。
さて、2回に分けた後半になるわけですが、
6章 「ファンダメンタリズム」(88-108)
A 「英米ー明らかに異なる二つの流れ」(88-94)
で、
聖書批評学に対してキリスト教保守(ファンダメンタリズム)は、英では積極的な対応、米では消極的な対応、と異なる二つの流れが生じたことを見たわけでした。
6章 「ファンダメンタリズム」(88-108)
B「ファンダメンタリズムによる聖書信仰の伏流ー前千年期王国論と創造科学」(95-108)
ざっくりしたポイントは、
(1) 無誤論的聖書信仰が教派や他の背景の違いを越えて、広くキリスト教保守派に広まって(浸透して)20世紀初頭のファンダメンタリズムを形成した。
(2) その背景には、「ディスペンセーション主義神学」と「創造科学」が「字義通りの聖書解釈」を実践したが、その理論的根拠を(最初からではないらしいが)ウォーフィールド型の無誤論に求めた・依存した。というところでしょうか・・・。プリンストン神学と、ディスペンセーション主義神学、通常であれば余り隣近所になりにくそうな二つが繋がったであろう背景を指摘していますね(100ページ)。
筆者は「ファンダメンタリスト連合」に含まれている「ホーリネス諸教派」(95)の系譜にある教会で育ったのですが、実は「ディスペンセーション神学」や「創造科学」の影響は殆ど受けていません。
「千年王国」という用語はもしかしたらどこかから耳に入っていたかも分かりませんが、その諸説に関しては全くといっていいほど無知でした。(現在もさほど変わりませんが。)
※そんな程度の経験知ですから「この記事」や「この記事」で書いたことで尽きてしまいます。
「創造科学」はどこかの時点で「ヘンリー・モリス」とその著書くらいは目にしたことがあるかもしれませんが、それでも関心を持ったことは一度もありませんでしたし、その影響を自分の周囲に感じたことはほんのわずかしかありません。
そう「ほんのわずか」、論争の断片を記憶しているくらいです。
父(牧師)が昔「日本福音主義神学会」に少し関係していた頃かと思いますが、創世記の「創造」の記述の「日」を文字通り24時間の一日と取るか否かが「聖書信仰」の試金石・・・みたいな話をしていたのを耳にした程度です。
父は青年期(19歳)にキリスト教に回心していますが、それからまもなくのことと思いますが、信仰的に「疑い」の悩み・問題を抱えた時「聖書と心中する覚悟というか境地に立った」と語ったことを何度か聞いたことがあります。
筆者のように何世代目かのキリスト者となると、そのような「追い込まれた状況での信仰の飛躍」体験はほとんどありません。
神への信頼を通奏低音(丸山真男が日本思想の特徴を描写する時に用いた表現バッソ・コンティヌオの訳語とか)として生きてきた感じで、いちいち(神学)論争の度ごとに自らの信仰態度を決定し・表明する・・・ということには馴染んでいませんしむしろ忌避する傾向があります。
そんな筆者の偏見から見ると、「一日」の解釈を巡って聖書信仰の真贋をテストする・・・ような極端な論争にヒートアップするようなことはもはや「忠誠テスト」であって、解釈の客観的妥当性を巡る論争には思われません。
と、今回は「書評ノート」とは名ばかりの回顧録になってしまいました。
(次回へ続く???あるいはまだ続くかもしれません。)
0 件のコメント:
コメントを投稿