2015年2月23日月曜日

(5)マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか、④

前回、マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか、③では、図書館から借りてきたダニエル・ボヤーリンの『ユダヤ教の福音書』3章から、動画では分かりにくかった議論のポイント、特に、『コシェル』な食物規定『浄・不浄』規定、を何箇所か引用しながら多少説明することができたのではないかと思う。

残念ながら、この本は貸出期限が来たので既に返却してしまった。

今回はメモしてあった引用部分を使って、ボヤーリンの議論の筋を大掴みに提示してみようと思う。


(1)パリサイ派は「汚染された適正な食物」に関する規定を拡大し、さらにそのような食物で「汚されないために」儀礼的洗手の慣習を設けた。

 聖書の枠組み(・・・)は、この二組の規則を厳密に区別している。ユダヤ人は適正(コシェル)でない食物を食べなかったが、汚染された適正な食物に関する規則はそれを食べる人の様々な状況に応じて定められており、それを食べる人の身体を直ちに不浄にするわけではなかった。パリサイ派の伝統は汚染された適正食物を食べることの禁令の範囲を広げ、それを食べる者を汚れた者とみなしていたようである。・・・こうして彼らは、手がパンをけがさないために、パンを食べる前に手に水を注ぐ儀礼的な洗手の慣習を設けたのである。(126ページ、強調は筆者)

(2)イエスはパリサイ派のトーラー拡大解釈に対して抗議している。
イエスは人間の身体(腹)の中に入る食物はその身体をけがさないと主張することによって、これに[エルサレムからやってきたパリサイ派が自分たちの拡大解釈したトーラー規定を受け容れさせようとするのに]抗議しているのである。身体から外へ出るもののみが汚染する力を持っている。従って福音書が描いているのは実は、清浄に関する法を、その元来の聖書に固有な基盤を離れそれを超える形でパリサイ派が拡張することに対して、抗議してそれを拒絶しているイエスである。イエスはトーラーの規定やそれに基づく慣習を拒んでいるのではなく、それらを支持し擁護しているのである。(126-7ページ、強調と[]内のコメントは筆者)

既に①で紹介した動画で、ボヤーリンは、マルコ7章1-23節を「一繋がりの文脈」として捉え、パリサイ派とイエスがトーラー解釈とその適用を巡って対立する構図を浮き彫りにして、「イエスは基本的にトーラーを否定していない」ことを論証しようとする。
(これがで整理しようとした「大きな文脈」のことで、まだ解説には至っていなかった。)

ボヤーリンは『ユダヤ教の福音書』3章ではマルコ福音書記者が、当時のユダヤ人の宗教的慣行について詳細な知識を持っていると指摘している。

(※7章3-4節の挿入的説明や、特にその中に出てくる「念入りに手を洗う」と新共同訳ではなっている「念入りに」のギリシャ語プグメイは、意味不明のためRSV=アメリカ標準訳では訳出されなかったほど。ボヤーリンはこの語が、「片方の手を拳に丸め、もう片方の手で洗う」姿を描写したものであり、同語源で「拳を振り上げて怒鳴る」を表す言葉に受け継がれている、と説明している。つまりマルコ福音書記者はユダヤ人の習慣描写に関して信憑性が高く、それ故1-23節のうち一部を後代の挿入であると取るような説明のしかたは不自然であると見ているようだ。)

当然『コシェル』な食物規定『浄・不浄』規定の違いについても弁えている、と見ている様だ。

動画では『コルバン』については果たしてそのような習慣が当時あったかどうかについてその信憑性については保留しているが、「イエスとパリサイ派の対立の構図」を左右するほどものではないと見ているようだ。


さてここまでの説明ではまだまだ不十分だが、長くなったのでまとめることにしよう。

問い:「マルコ7章16節はなぜ『抜けている』のか?」

この問いを立てて動画の内容を理解しようとし、それではなかなか理解できなかったので、『ユダヤ教の福音書』の関連部分を読んでみたのだが、ボヤーリンの答えは、初代異邦人クリスチャンが16節を消し去った、となる。

つまり、異邦人キリスト者は、自分たちがユダヤ人たちの食物規定(コシェル)に縛られず、これまで通り自由に何でも食べられるようにその根拠・権威を「イエスの言葉・教え」に求めたが、15節「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」のイエスの言葉に注目し、それを文字通り、「人の身体に入るもの」を「(すべての)食物」と理解し、それを根拠に、イエスは「すべての食物はきよい」とし、最早コシェル、さらに言えばトーラーは拘束しない、と解釈した・・・と言うのだ。

そうすると、15節はイエスが出した言わば「トーラーからの解放令」のような位置づけとなるが、16節が指示する「たとえ」は15節の明示的な意味を曖昧にしてしまうため「消し去った」、つまり「陰謀」によるもの、ということ。


ボヤーリンの反論は、外堀から埋めるもので、
(1)イエスはトーラーを否定しなかったし、当然コシェルも守っていた。

 もし「すべての食物をきよいとした」(19節が異邦人クリスチャンたちの意図に合致するように訳された場合の意味)が、「最早トーラーは無効になった。(これからは)何を食べても良い。(『コシェル』な食物規定の撤廃)」と言うのがイエスの意図であったなら、なぜ7章前半でイエスは「祖先たちの言い伝え」に対して「トーラー」の権威を主張することが出来ただろうか。(それではイエスは論理矛盾を起こすことになり、パリサイ派に対する論難は意味をなさない。 )

(2)15節は「文字通り」コシェル規定を守ることによって初めて「比喩的」な意味・適用が成立する。

 イエスはコシェルを破るように教えたのではなく、コシェルを遵守するよう教えたからこそ、トーラーの適用範囲を拡大解釈して、トーラーに対して祖先たちの「言い伝え」を優先させる者たちの「心」が「悪い教え」を出すのだ、と言う「比喩的」な意味がなりたつ。

と、短くつづめるとボヤーリンの議論は大体こんな風になる。


さて16節は本文批評的問題から言えば、「16節が本文から除去されたのは、異邦人クリスチャンたちの陰謀による」とは必ずしも言えないように思う。

7章は解釈上難しい問題が様々あり、それらの諸問題を解決するのはなかなか難しい。

一方7章全体の文脈的意味は、「トーラー」対「先祖たちの言い伝え」の構図を捉えればそれほど難しいとも言えない。

15節と19節は、取り方によってはコシェルを否定している(最早食べ物にきよい/きよくないの区別はない)とも受け取れるが、異邦人クリスチャンが仮に「イエスはコシェルを無効にした」と断定するほどには明示的ではないのではないか。

結論としては、ボヤーリンが提示した解釈はマルコ7章におけるイエスのトーラーに対する態度と、特にコシェルに対する態度を考える場合の「可能な解釈の幅」に入るものとして検討に値すると思う。

※長くなりました。ここまでのお付き合いありがとうございました。


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