「その1」では・・・
(1) 発端そして
(2) 大学当局(アドミン)指導部の反応
(3) メディアによる論争の拡散の序みたいなことを書きました。
「その2」 では、(3) メディアによる論争の拡散として
1. マーティン・マーティーが事件を概観する記事の三つを取り上げました。
2. 大学当局処分を支持する記事
3. ホーキンス准教授と大学側がもっと意見を付き合わせるよう要請する卒業生の記事
今回は最初に、以前「現代の英語圏神学者」 で取り上げたデーヴィッド・ガシーの分析と主張を見てみます。
彼はこの事件に関してずーっと関心もって、かなり批判的な意見を展開してきました。
ガシーはこの記事1で前置きしているように、何度もホィートン大学に講演者として訪れた、いわば「事情通」として意見を述べています。
それはずばり「恐れ」だということです。
It’s about fear.
My theory is that what Professor Hawkins really violated were the implicit but very real political preferences of Wheaton’s constituency, not the school’s explicit theological standards.
Nowhere in that doctrinal statement does it say explicitly that to believe Muslims and Christians “worship the same God” is out of bounds. It is certainly quite possible to argue either side of the issue today, from an explicitly evangelical perspective. Consider evangelical theologian Miroslav Volf, who defended Hawkins in a recent response to the Wheaton controversy and has long argued for the exact point that has her in trouble.
大学の支援者たちの政治的支持傾向がホーキンス准教授の発言に反応したのであって、彼女の発言の神学的内容ではないのだ、と見ています。
政治的支持傾向、とはつまり保守福音派の大半が支持する共和党のことになります。
ホィートン大学の支援者たちは、キリスト教保守派であり、政治的にも保守であるが、他方で一流大学としての立場を維持するため、優秀な教員を主にリベラル大学で博士号を取得した者たちを獲得しなければならない「ねじれ現象」を背景として今回のような事件が現れたのだ、と指摘します。
ガシーのように「政治的背景」で事件を読むのは一つのアプローチだと思います。
次回は「神学的論争」として事件に接近している記事を紹介してみたいと思います。
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