2021年1月22日金曜日

(説教)3. 教会の本質、「集まる」① 現代からその意義を問う

「集まる」① 現代からその意義を問う

 二人または三人がわたしの名によって 集まる ところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20、新共同訳)

 この聖書箇所の文脈において中心となる聖書的背景は、旧約聖書において神の臨在と栄光を顕すとされた「神殿」です。神殿は、また旧約聖書において「神の民=イスラエル」が礼拝をする場所として指定された場所でもあります。ところが、新約時代において、イエスの主権の下に形成され、更新された契約の「神の民=教会」は、最早神殿を必要とはしませんでした。それは教会の集まり自体が三一の神の臨在と栄光を顕す「神殿」だからです。
 前回そのようにこの箇所の聖書的背景を学びました。(パウロのコリント書簡Ⅰ、Ⅱはこのことをよく念頭において読む必要があります)。

 さて今回この箇所で注目するのは「集まる」と言うことです。この点について、パウロ書簡に限らず、聖書神学的に「集まる」ことの意義を明らかにすることはそれ自体大変重要なことです。しかしそのような聖書神学的理解とは別に、現に今わたしたちがどのような意識で「集まる」ことをしているか・・・、わたしたちはどんな風に「教会の集会に集まってきているのか」、と言う点についても思いを凝らして見なければなりません。そのような反省の上でこの箇所を学ぶのでなければ、聖書神学的にいくら深く正確に精査してみたところで、単に聖書の箇所を学んだだけで、また同じ「集まる」ことの繰り返しとなってしまいかねません。
 そのような反省の鍵となるのが「集まる」ことをしている私たち一人一人の意識・自覚、難しい言葉で表現すれば「行為主体である自己」への省察です。

 「わたし」たちとはどんな人間なのでしょうか。この場合日本語を話す日本文化に育まれた“日本人”を想定して話を進めています。“日本人”は古代からずーっと変わらず同じ意識で今に至っているのでしょうか。それとも時代の変化とともに「行為主体である自己」の内容や形式が変わって来ているのでしょうか。これは簡単に結論の付く問題ではありませんが、当面わたしたちがこの聖書箇所の「集まる」と言う行為を考えるのに相応しい部分だけ取り出して考えてみたいと思います。

 私は「現代日本人」の《自己》《意識》というものを、歴史的に言って二つの面の混在として捉えることができるのではないかと思います。一つの面(より新しい、変わってきた面)は、近代(明治)以降に発展してきた自己の捉え方で、西洋近代の所謂「近代的自己・自我」に深く影響された《自己》、と言うことが出来ると思います。特に《個人》と言う意識が強まったところにその影響が顕著に表されていると思います。もう一つの面(より古い、余り変わってない面)は、「ムラ社会」と呼ばれる地域共同体に深く取り込まれた《自己》で、所謂組織の義理やしがらみにがんじがらめになってしまいやすい《自己》であり、会社組織など“近代的組織”の中にあっても依然として「組織に深く組み込まれた個人」として続いている、と言うものです。つまり現代“日本人”は一方で、主体的に社会に関わる「自由な個人である自己」を前提して行動するとともに、場所や状況によっては「社会・人間関係の義理や人情のしがらみ」にからめとられ葛藤や軋轢を感じている「自己」、と見ることが出来るように思います。

 さてこのような視点からこの聖書箇所の「集まる」と言うことをどのように学べばよいでしょうか。それは「どちらの自己がより聖書的か」を論ずることではありません。非常に大雑把な分析ですが、実際にこのような二面性を持ったわたしたちが、どのような自己として「教会の集まり」を形成しているのか、あるいは形成されていくべきなのか・・・。それを課題としているのです。

 (次回は少し道草になりますが、ここで分析した「近代的自己」の歴史的淵源について触れ、それが「教会形成」にどう関わっているか、と言う点について考えてみたいと思います。)

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