2021年1月24日日曜日

(論考)「地(球)的視点と聖書―③ 聖書の終末観から見る『地球市民倫理』の方向性」

 前々回は旧約聖書の創造物語から地球と人間との関係を考え、前回はさらにこの聖書の人間観が地球環境問題の淵源であるとする説を考察しました。そして結論として野放図な経済発展の結果と位置付けられるべき地球環境問題の淵源は経済活動に対する倫理的規制が鋭く盛られた律法を中核とする旧約聖書思想に求めることは妥当ではないことを見ました。 

 今回は「創造」の対極である「終末」の視点を紹介して、この角度から人間の置かれている立場、責任、可能性を考えてみたいと思います。 

聖書の視点:終末

 私たちの聖書全巻には創造から終末へ、「どのように神が働かれ完成させようとしておられるのか」に関するそれぞれの時代の聖書記者たちによる神の御心、御業の理解が示されている、と言えると思います。

 終末を敢えて単純化して言えば、「被造物全体が向かっている究極的ゴールに関する事柄」と言えるでしょう。さらに少し肉付きを加えれば、「神の創造のみ業が堕落による脱線の後どのようにして最初に意図された姿を回復し、更に完成されて行くのか」に関する事柄とも言えるのではないでしょうか。

キリスト教の終末観

 聖書の終末観をさらにキリスト教の終末観と言い替えて話を進めます。それは聖書の終末観には先ず土台となる私たちにとっては旧約聖書と呼ぶ聖書の終末観があり、その上にキリスト教の終末観があるからです。 

 旧約聖書は創造と堕落の後ノアを経由して始まるアブラハムの選びとイスラエルの形成の歴史を中心に構成されています。神の民の選びと形成は、人類と被造物を回復しようとする神の業の一環でした。しかしこの民は契約に背き捕囚の民となってしまいます。しかし預言者たちは、イスラエルがもう一度神の契約の民、選びの器として諸国民への「祭司・預言者・王」の国民として回復されると言う展望を示します。イスラエルの民は捕囚から帰還し、神殿を再建します。しかし回復は始まりましたが依然としてその十分な回復を見る事が無いまま旧約聖書は幕を閉じます。

 その後イエスが誕生するローマの支配の時まで約四百年の間に、ユダヤ人の期待は預言者たちの描いた約束が実現する「来るべき世」とそれを導くメシヤに集中していきます。このやがて来る「神の訪れの時」「終わりの日」に実現するだろう事柄がユダヤ人の終末観を構成していきます。
と、ここまでが一応旧約聖書の終末観及びイエスの時代のユダヤ人たちの終末観の大枠と言うことが出来ると思います。

 キリスト教の終末観はこのユダヤ人が終末に期待していた事柄がイエスにあって根本的に成就された、と言う理解の上に展開します。即ちナザレのイエスが来るべきイスラエルのメシヤであり、さらに一切のものの主である事が十字架の死からの復活によって公に示された、と言うことです。 

 次回は十字架と復活を中核に展開したパウロの福音理解の中に、どのように人間と被造物との関係が回復し、更に完成されて行くのかを見ることにしたいと思います。そこから地球市民倫理への方向性が見えてくるのではないかと思います。

 

※機関誌「聖泉」(2004年4月号掲載)

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