二十一世紀を迎え、まだ今のうちなら「大きな時代的視野からの物言い(または大風呂敷)」もズレた発言に取られないだろうと思う。大体聖泉誌一面には年一回執筆の担当が回ってくるが何回まで出来るか分からないが「地(球)的視点と聖書」と言うテーマで書き続けようと思う。
一昨年のサマーキャンプの時「二十世紀の教会」と題した分科会を担当した。その時配布したプリントに二十一世紀の教会の課題を考えるために「価値目標『何が大切なのか』」として以下のような序列化を試みた。
・個人の生活の安全や繁栄を超えた価値の追求(『愚かな金持ちのたとえ』ルカ12:16-21)
・国家(共同体)の安全や繁栄を越えた価値の追求(使徒1:6-8)
・人類の安全や繁栄を超えた価値の追求(ローマ8:18-25)
・神の国の追求(マタイ6:25-33)
これは序列化と言っても、個人・国家・人類と言う価値の間での優先関係を表わそうとするものではなく、「神の国」と言う視点から個人・国家・人類は等しく相対化される価値であることを示そうと意図したものであった。私たちの今度のテーマの一方である「地球的視点」とはある意味で個人・国家を超えた人類的規模の問題を捉える視点であると言えなくもないが、実はその人類をも超えた視点でもある。地球は人類の棲み家(すみか)であるとともにあらゆる生命体の環境であり、食物の問題一つを取り上げるだけでも自明なようにまさに「全体」の問題である。
筆者はすでに聖泉誌一面に「地球環境保護問題」と題した一文を書いた。近代西洋を源とする産業革命・資本主義と言う大きな文明的流れが二十世紀までに全世界を覆うまでに至った経緯を環境保護の視点に立って一考しようとしたものであった。その時用いた批判的視点は人間の労働に価値を置くものよりも、「消費者」の倫理観を土台とするものであった。
それから十年後、この原稿を書いている現在(2001年7月末)、地球温暖化を防ぐための二酸化炭素削減規制を内容とする国際会議の「京都議定書」批准を巡っての報道が続いている。殆どの国が批准に向けて一致しているのに対し、米国が批准を拒否している。ブッシュ大統領の批准回避の態度に見るまでもなく、「景気優先」を掲げる経済的「国家安全保障」戦略は依然として簡単には屈服しそうもない。「人類安全保障」のための環境優先主義はまだまだ理想主義に映っているのであろう。
このような「大きな時代的視野」からみた価値の対立が国内においても、国際政治の場においてもしのぎを削っている今日、クリスチャンとしてもう一度「聖書全体」から私たちの生き方を問わなければならないと思う。
残念ながら私たち世にある(「神の子」たる)クリスチャンたちの多くは「資本主義体制」のもたらす経済優先主義にも殆ど有効な批判もなく順応して来たと思うし、環境保護対策に対しても覚醒的な開拓者とはなって来なかったのではないだろうか。
地球環境保全と言う長期的目標は単なる「消費者」倫理の焼き直しや強化ではとても間に合わない、もっと根本的なメタノイア(「悔改め」のギリシャ語)を要請しているのではないか、という直観の下にこのシリーズを始めさせていただきたい。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全であるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:2、新共同訳)
※機関誌「聖泉」(2001年9月号掲載)
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