2021年1月24日日曜日

(論考)「近代の原理②『平等』」

フェミニズムという視点

 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
(ガラテヤ3:27-28)

1.フェミニズムとは

フェミニズムというとまだ耳慣れない人も多いかもしれない。しかし今は余り口に上る数も減ったかもしれないが、ウーマンリブと言えばうなづかれるかたも結構いると思う。ウーマンリブとはウイミンズ・リバレーションつまり女性解放運動のことである。フェミニズムのほうはフェミニン(女性的な)に語源を持つことばで訳せば「男女同権論」になるだろう。

 ウーマンリブあるいはフェミニズムの主張・運動は一面的には「父権制社会」「男性上位社会」 に対する異議申立であることによってどうしても「女性」対「男性」という構図でとらえられがち である。しかしそれは単に会社の上司が殆ど男性であるとか、政治家の殆どが男性であるとか、つまり社会の実権を握るのが男性ばかりである、ということに対する抗議であるだけでなく、つまりそのような支配が「男性的な」原理、特徴を中心に構成された、ゆえに「女性的な」原理、特徴が軽視され排除されたものである、というなかなか奥の深い抗議でもある。

2.パウロとフェミニズム

さて冒頭のパウロのことばであるが、ここで彼が言っているのは、キリストの体という視点から言えば、その中にバプテスマによって一体とされた者たちにとっては、人種・民族的区別(ユダヤ人、ギリシャ人、等々)、社会階級的区別(奴隷、自由人等々)、性別(男子と女子)という人間社会の構成原理となる諸々の区別が教会社会においてはもはや無効となった、という宣言ととれる。なぜそうなるのか。パウロによれば「キリストの体」という共同体を構成するメンバーの加入(バプテスマによって)はユダヤ人とか奴隷とか男子であるとかと言ったあらゆる人間的・生来的な資格・性質によるのではなく、ただ各々に賦与される(言ってみれば)キリスト格によるからである。

 パウロはいわゆる現代のフェミニストではない。むしろ彼の新約聖書中に残されている手紙の内容を見ると女性蔑視ととられる部分も持っている。(例えば、Iコリント14:34-5、エペソ5:22-24、Iテモテ2:12)一方でフェミニズムを超越するような思想と、もう一方で当時のユダヤ的(ラビ的?)思考に基づいた階層的男女観を併せ持つように見えるパウロをどう理解すればよいのだろうか。

3.福音派とフェミニズム

 近代社会において女性の地位向上・社会進出が紆余曲折があったにせよ少しずつ実現され、また現代においては男女平等を積極的に社会制度に反映させようという流れのなかにあって、福音派内部からのフェミニズムに対する発言はこれまでのところ非常に少なかったと言えるだろう。また発言しようとしてもそこには上記のようなパウロのフェミニズムに対する態度の不透明さという聖書解釈の問題があり、聖書を信仰と倫理の唯一の基準とする福音派のフェミニズムに対する態度の不明瞭さになっているように思える。

 フェミニズムの問題は、普遍的人間観に基づく自由と平等の精神に由来する近代社会の問題であり、将来に向かってもなお根本的な社会変革の中心に位置するだろうと思われる重要な問題の一つである。歴史の流れにまかせるだけでなく、立ち止まってよく考えてみたい問 題である。

 

※機関誌「聖泉」(1993年4月号掲載)

 

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