人を導くということ
四月を迎え、年度の変わり目、さて次の一年をどう乗り越えたらよいか思案しつつ過ごしている。私は教会の先生の他に学校の先生をやっているのだが二つに共通しているのは、牧会にしても、教育にしても、人を導く、ということである。最近メディアでも「大学教育」が特集されるようになった。去年であったか某大学で大量留年騒ぎがあった。それに端を発してか、しばらく新聞の投書欄に大学教育の問題が盛んに取り上げられていた。私の場合大学ではないが、専門学校で同年代の青年たちを相手しながら、実は私が授業の場で直面していることが例外的なことではなく、非常に広範にあるらしいということがこれらの記事や投書を目にするにつけ思うようになった。端的に言うと、私語が多くて殆ど授業が成立しないのである。少しでもそれらしくなったときは「おや今日は皆どうしたんだろう」と逆に思ってしまうのである。私語といってもヒソヒソではなく今は堂々とやっている。クラスルームは殆ど喫茶店のなかと変わりないぐらい多方向のおしゃべりが行き交う場となっている。
一体これはどうしたことか。教育(狭い意味では授業)の前段階のシツケの問題か。しかしおよそ小手先のシツケ教育ではどうにもならない。「おい静かにしろ!」とどなってみても静かになるのはほんの一時。そのうちおしゃべりのボリュームはあがってくる。またシツケというのもそれ自身問題である。彼らは多かれ少なかれ校則やなにやらでやたらに管理的教育を通ってきた人達である。先日早稲田大学の学長が入学式で「これからは君達を大人として、ジェントルマンとして扱う」と言っていたが、今まで管理的に指導されてきた人を18になったからといって急に大人扱いしても両方戸惑うばかりであるのは事実だ。現に生徒たちは自分たちがうるさいのは分かっていても、自分たちではどうしようもないので先生にもっと厳しく叱ってくれという始末である。
少し極端な言い方かもしれないが、実は日本社会は大方人を大人として扱わないのではないか、と思う。「大人として扱う」という意味は人を一個の人格として尊重し、そのように接する。そういうふうに私は理解している。急に18になってから大人扱いしてもだめなのだ。子どものときからきちんと彼らを一個の人格として尊重していかなければならないのだ。
管理が行き過ぎると個人は抑えられ、個性の自由な発揮も当然抑えられる。日本社会は集団の繁栄を第一目標として、画一的・均質的に揃えられた人々の総合力で今日の繁栄を築いた。しかし今その繁栄の意味も、そのために取った管理的な方法も両方が問われている。豊かな個性を持った人材が育たなくなってしまったことに今気付いている状態なのだ。
個人や個性を重視するようになったことはたいへん結構だ。人格を尊重するありかたはこの個人という考え方を抜きにしては考えられない。しかし、この個人という考え方が日本にあってはあたかも、これまでの集団的なやり方の一つの軌道修正としか考えていないのではないか。そんな気がしてならない。集団的な考え方をしてきたものにとって、個人という考え方はどうしても「自分勝手、てんでんばらばら」の結末を予想しやすい。集団の目標を維持するためにも管理や命令に依存しやすい。集団の目標が物質的な繁栄だと管理や命令も勢いせっかちになる。教会建設においても目標の設定の仕方によってはこのような誘惑に簡単に陥ってしまう。やがて個人が「集団の目標」の名のもとに忘れられ、埋没してしまわないために、今個人という考え方を十分深める必要を痛感する。
※機関誌「聖泉」(1992年5月号掲載)
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