2017年8月12日土曜日

(5)義認論ノート、4

義認論ノート、3」はかなり長い記事となってしまいました。

そのため「(2)なぜ義認論にとって『救いの順序』は問題なのか」が充分言い尽くせないで終わってしまいました。

「議論の流れ」を簡単に整理するとこんな感じです。 

「義認」を論ずる枠組みは何だろうか。

宗教改革以降、プロテスタント諸派で顕著なのは「義認」を「救済論」の中で論ずることだ。

特に「救いの順序(ordo salutis)」の枠組みを参照して論ずることだ。

しかし、それが余りにも(時系列的にも、論理的にも)詳細な点に渡ってまで整合させようとして聖書テクストの読み(釈義)を歪めさせている・・・

と言った辺りまでやってきました。


アンドリュー・マクゴワンの『義認と救いの順序』を用いてこの辺の整理をしようとしました。

「義認論」が抱える様々な問題点を「救いの順序(ordo salutis)」からくる問題に絞って指摘しても全部が解けるわけではないと思います。

伝道会議・分科会の議論の組み立てでは、(1)救済論の枠組み、に(2)教会論の枠組み、をプラスすることによって「義認」を「『救いの順序(ordo salutis)』のみ」の縛りから解き放つ方向を示唆しようとしました。


でも(2)教会論の枠組みに行く前に・・・

義認論ノート、3」で、「救いの順序(ordo salutis)」を使って「義認」の教理的な位置を解明しようとする(主に改革派系の)神学者の中に、「救いの順序」とは別の(パウロ神学)概念を用いて「義認」を論ずる流れ(school、学派)があり、これが影響力を増している(らしい)ことを指摘しました。

「キリストとの一体(union with Christ)」
です。(マクゴワンの論文ではordo salutis methodに対してunion with Christ methodとなっています。)

バルトの「救いの順序に拘泥すると、救済論が余りにも人間論になってしまう。もっとキリスト論的視点に戻すべきだ。」みたいな批判を紹介しましたが、実はアンドリュー・マクゴワンの『義認と救いの順序』論文にはもう一人(筆者から見て)重要な修正視点を提供した方がいます。


昨年80歳を迎えたウェストミンスター神学校の名誉教授のリチャード・ガフィン・ジュニア(Richard B. Gaffin, Jr.)は、1969年に同校で Resurrection and Redemption: A Study in Pauline Soteriology と題した博士論文を書きます。これが後に The Centrality of the Resurrection: A Study in Paul's Soteriology として出版されます。
ガフィンの主張は、パウロの救済論において「キリストの復活とキリスト者の復活とが密接にリンクしているゆえ、『キリストとの一体』が支配的である」ということです。

この視点から伝統的な「救いの順序」救済論の欠陥が指摘されます。
 (1)終末論的視点が欠落している。
 (2)「救いの順序」の各要素を独立した「行為(アクト)」と見るのは問題だ。

Nothing distinguishes the traditional ordo salutis more than its insistence that the justification, adoption and sanctification which occur at the inception of the application of redemption are separate acts. If our interpretation is correct, Paul views them not as distinct acts but as distinct aspects of a single act.(強調は筆者)

 (3) 「新生(regeneration)」が「信仰」より前に来る見方はパウロ的でない



(マクゴワンの論文にはバルトら新正統主義神学の立場の解釈との違いの指摘もありますが)このガフィンの主張はウェストミンスター神学校の中で受容され、救済論における「キリストとの一体」の主導のもと、「法廷的『義認』(forensic justification)」も堅持しながら、なお議論が進展しているとのことです。


以上「救済論」から「義認」を見た場合の「救いの順序」の限界と、パウロ神学的に見た場合の「キリストとの一体」の中心性・重要性をマクゴワン論文から見てきました。

特に、「キリストとの一体」強調において、ガフィンが指摘した「復活」すなわちパウロの「終末論」的視点は今後の「義認論」を修正して行く上で重要な意義を持っていると思います。


話題が少し離れますが、「義認論ノート」と並行して書いてきた「Salvation By Allegiance Alone」を先日完結し、その最後に「中間考察」の一つとして書いたことですが、ガフィン/ウェストミンスター神学校の義認論における動向はある意味「組織神学的救済論」から「新約聖書(パウロ)神学的救済論」に重点を移したもの、とも捉えることができるのではないかと思います。

かつてこのブログで、リチャード・ガフィン・ジュニアがライトと義認論について議論した動画を紹介したことがありますが、その時と比べ、このマクゴワン論文を読んだあとでは、「ライトとの違いはそれほど大きくない」というのが筆者の印象です。

むしろ、「復活/終末論的視点」の重要性、「救いの順序」の問題性、そして「法廷的『義認』(forensic justification)」の堅持、等において二人はかなり近いように思います。

読者の印象はどうでしょうか・・・。


(次回に続く)


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