2014年3月16日日曜日

(5)映画と神学1:ゼロ・グラビティ

 見てもいない映画について文章を書くのは「ツリー・オブ・ライフ」以来ですね。きっと。

先日の宮崎駿の「風立ちぬ」はあくまで英語圏ブログ紹介でしたから・・・。

 邦題はゼロが付いていますが、原題はただ「グラヴィティー(重力)」ですね。

 例の如く筆者が拾ってくるネタは英語サイトからが多いのですが、今回も。

 でも最初に映画の日本語オフィシャル・サイトにダーっとあるコメントのどれを見ても、この映画が「神学」に関係するようなものは皆無ですね。

 まっ少し哲学的とか、スピリチュアルっぽいのは無くはないですが。

 北米では筆者がうん十年前に神学校で学んでいた時既に「神学的文化批評」として、文学や映画などは題材にされていました。

 今回ご紹介するのはシカゴ大学神学部の博士課程の方が書いた映画批評です。

"Gravity" vs. Richard Dawkins

 要するにポイントはキュアロン監督がこの映画で描いている視点は「神論的」だ、そしてドーキンスの視点に対抗するものだ、という指摘です。
(キュアロン監督ってメキシコ出身なんですね。)

 評者のデーヴィド・ミハリフィー氏はサンドラ・ブロック演ずるライアン・ストーンは「地球帰還という物理的な旅」と「神の導きによって帰還する霊的再生」が並行的に描かれているのだ、と主張します。

 過去に娘を亡くすという不幸(adversity)に直面した時もドライに過ごしたライアンは、一人で地球に帰還しなくてはならない段になって「どうやって祈ればいいか何て教わってない」と吐露する場面があるそうな。

 映画のシーンの中で、蛙が横切り、海草のようなものが漂い、岸辺に昆虫、鳥がさえずる・・・のがあるそうです。
そこで、
As the script specifies, Stone “drags herself from the water, like the first amphibious life form crawling out of the primordial soup onto land.” After she stands, she looks around, and then, as the music swells in a major key, she tilts her head upward. The camera-shot from below emphasizes Stone staring into the heavens. Yes, evolution exists, Cuaron communicates, but when the odd phenomenon of life is comprehended by the life-form that has become sentient, the fact that there is life at all confirms the activity of a benevolent God.
つまり人類が神への感謝を覚える瞬間を表している(らしい)のだそうです。

 評者もNY Villege Voiceの映画評から引用するように、祈りと言う宗教的なモチーフが表現されているようです。
Stone continues to talk even after contact with home has been lost: Kowalski has reminded her that even though she can't hear Houston, Houston may be able to hear her, which is as apt and unsentimental a metaphor for prayer as I can think of. And so she takes us, if not some unseen and unheard God, into her confidence with her soliloquies

 まっ他にも幾つか「宗教的象徴」が仕掛けられている、と指摘しておりますが、作品というものは何層もの意味構造を持っていて、その人の世界観によって見えたり、見えなかったりするのでしょうね。

 このブロガーは
「宇宙の死の恐怖」をテーマとしているよりも、その恐怖との対比として「地球の生」を描きたかったんじゃないかと思う。
地球の水面に着水、神舟の ハッチを開き流れ込む水に翻弄されるライアン。この時の作中の音は「ライアンが水の中にいるときだけ音が消える」という宇宙空間と同じ演出なのだが、これ は水の存在=生を表現しているのだから意味合いは全く真逆の無音であるわけで、ライアンが水面まで泳ぎあがるシーンに移る一匹のカエル、なんとか岸まで泳ぎ着いたライアンが笑うような、泣くような複雑な顔で泥を握るシーン、ラスト5分で「地球という星の生命を育むすばらしさ」が表されているというか。そし てそこで初めて映画内初の「GRAVITY」……重力がライアンを包み込む。このシーンのためにあったんだよ、宇宙空間でのお話は!(リンク
としていますね。

 少なくとも日本では余り宗教的・神学的な解釈と言うのは見当たらないようですね。

※映画の脚本は、ここ
※キュアロン監督へのインタヴュー記事は、ここ

 では次回もう一つ映画を取上げます。
 (またもや見ていない。でも日本ではまもなく試写会が行なわれるという時期ですからいたし方ありませんね。)



2 件のコメント:

  1. 初コメです。先日巣鴨にお邪魔させていただきました、水戸下市キリスト教会の、ハンドルネーム、ウリヤです。先日はありがとうございました。
    さて「ゼロ・グラビティ」、3D吹替え版をシネプレックス水戸で観ました。 宇宙を舞台にしながら、UFO無し、宇宙人無し、未確認生命体無しで、いわゆるSF映画ではなかったですね。 キリスト教的・・・・とは特に思わなかったです。サンドラ・ブロックの孤独なサバイバルが緊迫感をもって描かれています。 小生、結構好きな映画です。

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  2. ウリヤさん、
    初コメありがとうございました。
    キリスト教的、あるいは宗教的なものを暗示するものはそのような関心を持ってみないと気が付かないのだと思います。

    特にここで紹介した「進化論」、生命進化の過程を、両生類であるカエルを用い、陸に上がり、両足で立ち、外界を意識する、天を見上げる、と言う動作の流れで表現し、最後に「ありがとう」と言う台詞で終わるところに進化論を受容した上で、人類の宗教性が打ち立てられている、と言う見方を表しているのだ・・・はなるほどと思いました。

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