その文章で「使用済み核燃料の管理の問題」が一番引っかかる、と書きました。
もともと科学的知識が足りないので、今回の東京電力福島第一原発事故に端を発した「放射能汚染危機」が時間を追ってどの程度深刻になっているかの客観的な判断も出来ません。
ただ原発の「安全」というものが実際にどのように担保されていたのか、という事の脆弱性は自然災害(地震、津波)と人為的対応(危機の深刻さの把握、初動対応の遅れ、地域住民に対する安全確保、など)の両面で十分目の当たりにしたように思います。
それで改めて「安全の構築」と言うことを考えてみました。
文部科学省による「『安全・安心な社会の構築に資する科学技術政策に関する懇談会』報告書」と言うものがあります。
この報告書は、社会を脅かす様々な危険・災害・リスクに対して科学技術的見地からどう言う施策ができるかを分析検討しています。
一応目を通してみましたが、十分常識的で包括的な視野で検討されていると思いました。
原発事故はどのような位置づけになっているかと言うと、『大分類』中の『事故』に分類され、『中分類』 中の一つとして「原子力発電所の事故」となっています。(分類表)
ちなみに同列に置かれている「事故」には、「交通事故」「公共交通機関の事故」「火災」「化学プラント等の工場事故」などがあります。
『報告書』の第一章「検討の背景と目的」では以下のようなことが述べられている。
(2)安全・安心に関する我が国のこれまでの状況この観察が現在の危機をどれだけ正確に描写しているだろうか。
安全・安心に関して、我が国がこれまでどういった状況であったかについて考えてみたい。
まず、総論として、我が国では社会生活一般において、安全について深く考えなくとも、一定レベルの安全・安心が得られてきたことが挙げられる。これは、 同質性、相互扶助の精神といった日本社会の特性、戦後獲得した高い経済力や比較的小さな所得格差、国際的協調の枠組み等の恩恵であろう。
次に、安全・安心に対する国民の受け止め方については、ある程度の安全が得られてきたことを背景に、安全は自ら努力せずとも与えられるという受動的な態度と、災害や事故に遭遇してもそれは運命もしくは宿命であり、やり過ごせば自然と復旧するといった「宿命論」ともいうべき考え方が歴史的に存在する。この ような安全への受動的な態度と危機に対する「宿命論」的な考え方が妨げとなって、訪れた危機への対応を経験として蓄積し防止策を見直す、危機に対して2 重・3重に防御策を講じる、といった危機管理体制が我が国には根付きにくくなっている。
放射能汚染の拡散が報じられた時、在日外国人が急遽国外退去したり、遠隔地に退避したりしたのに対して、日本人の多くは不安を持ちながらも極めて受動的だった、と言えるのではないか。そういう点では結構当たっている様に思う。
この『報告書』に関し、牧師と言う「一宗教家」として興味を持ったのは「安全」「安心」がどう定義されているか、であった。
1 安全とは
安全とは、人とその共同体への損傷、ならびに人、組織、公共の所有物に損害がないと客観的に判断されることである。ここでいう所有物には無形のものも含む。
1安心についてさて今回の東京電力福島第一原発事故の場合この定義から言うとどうなるだろう。
安心については、個人の主観的な判断に大きく依存するものである。当懇談会では安心について、人が知識・経験を通じて予測している状況と大きく異なる状況にならないと信じていること、自分が予想していないことは起きないと信じ何かあったとしても受容できると信じていること、といった見方が挙げられた。
①『安全』の破られ方
原発は発電所設備の損壊は勿論、人的、環境的、また東京電力という大会社の信用と言った無形のものも含む。しかし最も大きな損傷は「原子力発電によるエネルギー政策に対する根本的疑義」と言う政治社会システムへの損傷だろう。
現在の危機がいつ収束するか不明だが、「原発はクリーンで安全なエネルギー」と言う社会的信頼は大きく揺らいだ。今後根本的な見直しは必至だろう。
②『安心』の破られ方
放射線漏れによる「大気汚染」「水道水汚染」「野菜・魚など食品汚染」に対する安心の度合いは人によって幅があるみたいだ。過剰に(?)に反応する人もいれば、普段使われない数値で「安全」範囲を言われてもよく理解できないので、一応(?)政府や専門機関の指導・指示を信じている人も多い。ただ異なる様々な「安全」「危険」情報に対する反応を見ていると非常に揺れていて、不安が拡大・拡散する可能性はあるように思う。
ツイッターと言う限られた社会空間での観察だが、これだけの大災害が及ぼした心理的動揺はかなり長い期間収束しないと推測される。
他人事のようなポストになってしまったが、「安心立命」を担うべき宗教者の連携・ネットワークはかなり限定的に見える。
キリスト者として被災者の痛みを幾分かでも分かち合いつつ、先ずなすべきことは祈りとみことばの宣教と思う。たとえそれが内向きで無力な行為に見えても。
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