2011年4月1日金曜日

佐藤優「キリスト教神学概論」②

一回目に断ったように、軽いジャブ程度の扱いで、ちゃんとした神学的論評ではありません。ゆるーく読んでください。

今回は、
第3回 「神の場所(3)-イエス・キリストとは誰か」
第4回 「神の場所(4)-日本のキリスト教」
第5回 「神の場所(5)-神はどこにいるのか」
第6回 「神の場所(6)-「救い」とは何か」
をカバーします。
(ウェッブサイトはここ。後はページ末の「次へ」をクリック。)

第3回 「神の場所(3)-イエス・キリストとは誰か」
ちなみに、イエス自身は、自らをキリスト教の創唱者とは考えていませんでした。あくまでも忠実なユダヤ教徒と考えていました。・・・
キリスト教の創設者は、パウロです。パウロは、生前にイエスと会ったことは一度もありません。むしろ、キリスト教徒を弾圧する側にいたのですが、回心して、イエスを教祖とするキリスト教という宗教を創るのです。
それから、イエスは知識人ではありません。・・・しかし、類まれな洞察力をもっていました。そして、その洞察力によって「神の子」であることを自覚したのです。
キリスト教の創始者をパウロとするのはリベラルな学者では昔よくあったことらしいが、今でもそんな単純な見方が通用するのか定かではない。
佐藤氏はここで少し混乱している。イエス自身の自己認識が「忠実なユダヤ教徒」であるのか、それともメシヤニックな意味でか、神的な意味でか、「神の子」と自己を捉えたのか、二つの自己認識の間には大分開きがある。

イエスの自己認識は「忠実なユダヤ教徒」だけであるとすると、12弟子を召し、預言者的なわざ(癒し、悪霊の追い出し、など)を行い、「権威ある教え」で師と呼ばれ、最後エルサレムで預言者的言辞を残し、ロバの子に乗って入城し、“宮清め”をし、オリブ講話を残し、「ユダヤ人の王」として十字架に処刑されたことを記す福音書は福音書記者の創作、と言うことにならないか。

第4回 「神の場所(4)-日本のキリスト教」
いくつかの偶然が重なり、プロテスタンティズムの主流派は啓蒙主義をうまく取り込みました。その結果、自由主義的プロテスタンティズムというものが生まれます。・・・日本に入って来たプロテスタンティズムは、このような自由主義的プロテスタンティズムなのです。
筆者の印象では、明治初期に入ってきたプロテスタンティズムは正統的かあるいはただ正統的だけでなくピューリタン的な色合いの濃いものであった。まっ余り詳しい知識はないので深入りはしない。

第5回 「神の場所(5)-神はどこにいるのか」
信仰と歴史的実証は、基本的に別の問題です。私は、一人のキリスト教徒として、1世紀始めにイエスという男がいたと信じています。しかし、それが実証されないということならば、そのことはそれで率直に認めなくてはなりません。その上で、イエスが語ったこと、行ったことの意味を見極めます。私にとって重要なのは、イエスが救済主(キリスト)であるという「物語」なのです。
ここにはブルトマン以降取られた、「歴史のイエス」と「信仰のキリスト」に分離し、その上で多分実存主義的なケーリュグマ的メッセージへの傾斜が見られると思う。

第6回 「神の場所(6)-「救い」とは何か」
 では、「救済」、「救われる」とはどういうことなのでしょうか。これは一種のトートロジー(同語反復)になりますが、キリスト教の表象からすると、終わりの日に永遠の命が得られる、という考え方です。・・・仏教では対照的に、これは輪廻転生の世界から永遠に抜け出せないような、迷いの極めつきの状態です。
ただし、現在は救いに向けた中間時なので、最後の救いの瞬間になるまで、われわれには具体的な像はわからないのです。そうすると、最後の瞬間に火に焼かれず、保全されるほうのリストに自分が選ばれているという確信を持つことこそが「救い」です。キリスト教の内在的論理だと、そうなります。
これを受け入れるかどうかは、究極的には各人の趣味の問題です。キリスト教のように有の論理を取るか、仏教のように無の論理もしくは空の論理を取るかという立場設定の問題なのです。つまり、どちらが正しいかを争っても意味はありません
 客観的に二つの見方の真理性を判断する土俵がないので、つまり「キリスト教の救い」と「仏教の輪廻転生観」は比較のしようがないのでどちらを選択するかは、各人の「趣味」と言うことか・・・。趣味ということばちょと軽いと思うが、言わんとすることは分かる。

でも「イエスが救い主であるということを、あれこれと手を変え品を変え説明することが神学の仕事なのです。」と言うのであれば、キリスト教神学概論を書く立場として、一キリスト者として、「仏教の世界観には救済がない」と弁証する必要があるのではないか。
もし争わないと言うのであれば、それぞれ固有の宗教的世界観を多元主義的に承認する立場を取っていることになるのではないか。

仏教には大乗仏教と小乗仏教があるが、佐藤氏のキリスト教は「小乗キリスト教」的立場からの救済観で、恐らく「宣教」と言うモメントは出てこないように見受けられる。

(※では又別な機会に続きを・・・。)

0 件のコメント:

コメントを投稿