2011年3月30日水曜日

「終末」を想像して現在を捉える

キリスト教の終末論(「世の終わり」)には大きく分けると二つの異なる解釈がある。
一つは地球(宇宙)・人類の絶滅と取る聖書のより字義通りの解釈(よく参照されるのがⅡペテロ3章10節)。
もう一つは、質的な変革を通るが、今ある地球(宇宙)・人類が「新しい天と新しい地」に再生されると言う解釈。
勿論大衆的キリスト教でどちらの解釈が支配的イメージかと言えば前者の方である。

前者は基本的に神の被造世界を霊肉二元論的な世界観で捉え、物質的存在には終わりがあり、永続性を持つのは霊的世界(天)だけと考える。
後者は「世の終わり」は物質的被造世界は「世の終わり」を通して変革されるのであり、消滅させられるのではない、と考える。その根拠となるのは神の被造世界に対するコミットメント(契約に基づく慈愛)である。(個人主義的救済観の十八番のような聖書箇所であるヨハネ福音書3章16節は、むしろこのような理解を補強するものだと思われる。)

今回の東日本大震災にあたって、大惨事を目の当たりにして、脳裏に「世の終わり」がイメージされたキリスト者は少なくないと思われる。
大衆福音派の一般的受け取り方は「緊急祈祷課題」の最後に「霊的覚醒」や「伝道の機会」が付け足されることが多いように、「キリストの再臨」が先ず念頭にあるようだ。

しかし非キリスト教的、ポストモダン的日本における「終末」に関する言説は、このような大衆福音派のイメージとはかなりかけ離れている。

2011年3月8日のNHK「視点・論点」で、社会学者の大澤真幸は『"正義"を考える―裏返しの終末論』(リンク)で、
 しかし、私は、物語の機能障害、人生が物語化できないということ、物語の中で人生を意味づけられないこと、これが現代社会に特徴的な困難であると考えて います。物語の中で意味づけるということは、自分が、あるいは自分たち共同体が、最終的にはよい、価値のある目的へと向かっていると解釈できるということ です。現在は、いろいろな不幸や失敗や困難があるけれども、最終的にはよい結果に至ると見なせるとき、人は、自分たちの人生を物語として想像できるので す。しかしながら、現代社会を生きる多くの人が、自分の人生をこうした物語の一部として解釈できずにいます。何かよい結果へと向かう過程であると見なすこ とで、自分の今の不幸を、克服できずにいるのです。
と指摘する。そういう中で大澤は「物語の困難そのものを逆手に取る、人生や社会に対する立ち向かい方」を提唱する。
物語が働かないということは、よい終末、よいゴールは想像できないけれども、悪い終末、つまり破局であれば、思い描くことができる、ということです。そこで、まず、未来において、その破局は起きてしまっている、と仮定してみるのです。ということは、その未来の方を「現在」とする時点において、その破局までの過程が、必然であり、不可避の宿命だったと感じられているということです。その「破局までの過程」、つまり未来にとっての過去に、私たちの実際の現在が 含まれていることが大事です。
ここで、今述べたばかりの、偶然の選択が必然性を産み出すという原理が効いてきます。つまり、未来に想定された破 局の位置からは、その破局に至る宿命自体が、未来の破局にとっての過去--つまり私たちの実際の現在--の自由な選択の産物である、と見えているというこ とです。ちょうど、中東での政権崩壊という必然的な政治のブロセスが、ある自殺をネットでとりあげるという自由な選択の所産であるように、です。
ところで、「自由な選択」であるということは、現在、私たちは別のようにも選択できる、ということです。それは、「『破局』を帰結するような宿命」とは別の選択肢です。私たちは、その「別の選択肢」の方を採るべきです。
つまり、わざと破局的な終末が到来してしまったと想定し、逆に、その終末を回避するような選択肢への想像力を回復する。私は、これを「裏返しの終末論」と呼んでいます。物語が困難な時代の「正義」への第一歩は、この裏返しの終末論にあります。
果たしてこの「裏返しの終末論」とやらがどれだけの力を持ちうるのか、その説得力は未知数だが、実はキリスト教にとってポストモダン時代のライバル的福音に聞こえなくもない。
現在の大衆的キリスト教が「個人的終末(死んだら天国に行ける・・・という救いの提示の仕方)」に焦点を絞るのであれば、終末イメージは異なるけれども「裏返しの終末論」の方が現在をどう生きるかという課題に対してはより説得力を持つのは否めない。

筆者は未読だが伊坂幸太郎のSF小説「終末のフール」もやはり「終末」を逆手に取った現在の生き方、人生の意義付けを提案しているようである。(「カウンセリングルーム:Es Discovery」さんの書評 を参照させて頂いた。)
その意味では、『終末のフール』は小惑星の衝突という『非日常的な事態・近未来の破滅』を呈示しながらも、逆説的に、小惑星が衝突することが分かった途端に『生きる価値を失うような人生・日常』を送っている“今現在の生き方”に警鐘を鳴らしているようにも読める。
未来のどこかに自分の幸福や安らぎがあるはずと想像するだけではなく、現時点において繰り返される日常や家族関係、人間関係の中に、最大限の幸福や価値を見出す努力をしたほうが良いという話である。小惑星が衝突しないとしても、人間の生命というものは『明日をも知れない側面』があるのだから、『繰り返される日常』を無為のままに何も楽しみや意義を感じずに過ごすことは好ましくない。
現在原発事故による危機が進行中だが、「安全神話」が虚構であり、現に起きている「想定外」の破綻が初めから想定すべき「破局」的状況であった、との認識が人々の間に浸透しつつある。

現実が「終末」的様相を帯びてきているこの時代に、キリスト教の福音を如何に提示するか。
従来の「死んだら天国(あの世)に行ける救い」的伝道メッセージで現代人のハートを掴めるのか。

少なくとも、逆説的に終末を想像して充実した“いまを生きる福音”、終末を逆手に取った“破局のシナリオを回避する正義の努力”の方が、現実に対する“しなやかさ”という点で勝っている、と筆者は見るが、このブログの読者の方々は如何であろう。
教会にとってなかなかチャレンジングな時代だと思いませんか。

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