一応文脈からは被災者への同情はあるが、背後に石原氏の「宗教的解釈」があるらしい。
発言の中で石原知事は「アメリカのアイデンティティーは自由。フランスは自由と博愛と平等。日本はそんなものはない。我欲だよ。物欲、金銭欲」と指摘し た上で、「我欲に縛られて政治もポピュリズムでやっている。それを(津波で)一気に押し流す必要がある。積年たまった日本人の心のあかを」と話した。一方 で「被災者の方々はかわいそうですよ」とも述べた。宗教学者の島田裕巳氏によればこの石原発言の背景となる宗教思想は日蓮宗・法華経なのだそうである。(島田裕巳の「経堂日記」)
石原知事は最近、日本人の「我欲」が横行しているとの批判を繰り返している。(朝日コム)
法華経を釈迦の本当の教えが唯一説かれた経典ととらえた日蓮は、法然念仏宗などの邪教が広まるのが放置されている限り、日本は異国から攻められ、国内では 政治的な反乱がおこるだろうと予言した。その予言は、蒙古の襲来に寄って的中することにもなるが、そこから日本の法華信仰、日蓮信仰には、災難に意味を求 めようとする傾向が強くある。日蓮は、相当に規模の大きかった正嘉の大地震に鎌倉で遭遇しており、その体験から天変地異に邪教が広まっているあかしを求め ようとした。その傾向が、現代にまで受け継がれ、おそらくは石原知事にも影響を与えることだろう。島田氏の分析を云々する知識は筆者にはないが、少なくとも石原氏の天罰発言は今回の大地震そのものに対するものではなく、日本の今の政治事情に対する「憂国士」的発言ではないかと感ずる。その意味では被災者に対する同情的コメントは付け足し的なもので、むしろこの時期に大災害に絡めてこのような発言をしてしまうセンスが(相変わらずと言えばそうなのだが)疑われる。
ある著名クリスチャンブログでは、石原天罰発言や韓国のチョ・ヨンギ牧師の「神様の警告」発言を受けて、災害に対する正しい態度として、ルカの13章1-9節を参照するよう忠告している。(「命と性の日記」)
しかし、イエス様は二つの災害についての正しい解釈をされます。ピラトによるガリラヤ人流血事件という「人災」、シロアムの塔倒壊18人死亡事件はどちらかと言えば「天災」でしょうか?どちらの災害についてもイエス様は「被災者が他者より罪深いと思うのか?」と私たちが抱きがちな因果応報思想をチェックします。筆者はこの聖書箇所が「今日聖書を読む私たちに、災害についての正しい解釈」を提供しているとは思わない。
そして、イエス様の正しい解釈は、明確。5節にあるように、「あなたがたも悔改めないなら、みな同じように滅びます」なのです。ガリラヤ人流血事件報告者に、そして、今日聖書を読む私たちに、災害についての正しい解釈を示しています。
イエスのこの発言はルカ9章51節から始まる「エルサレム行」の大きな文脈に位置し、「イスラエルの預言者のエルサレムでの受難の不可避性」(13章31-35節と19章37-44節)を自覚した「イスラエルの預言者」的発言と取らなければならない。
この歴史的背景を理解した上でルカ13章1-9節を考える時、悔い改めの必要も、滅びの不可避性も、イエスと同時代のイスラエルに対する警告として解釈されるべきであろう。
ではその時代的制約を越えて「私たちに」何を語るか。
一番の矛先はイスラエルと今同じ立場にある教会に対する警告であろう。
但し当時のイスラエルへの警告とはイスラエルがローマに対して武力で対抗しようとするなら「滅びる」と言う具体的な予告であった。
警告の焦点は、引き合いに出された「災害(天災にしても人災にしても)」ではなく、イスラエルの政治的選択なのである。
さて私たちはたとえ自然災害であってもそこに何かしらの意図や意味を汲み取るものである。特に宗教的、神論的世界観からはこれは自然なことであろう。
アメリカではまだちゃんとした思想も持ち合わせていない少女が、日本の地震を引き合いにして、無神論者たちに「神様がいる」ことを証明した(神が日本を揺らした、と表現している)、私たちの祈りに即答えてくれた、と有頂天になっているビデオを投稿し話題になっている。
そしてそのビデオを取り上げた「進化論的キリスト教」のデーヴィッド・ダウド氏(過去ポスト参照)はこの少女のような「単純な聖書主義信仰」を嘆き、進化論的な解釈が如何に必要であるかを力説する。(進化論的キリスト教ブログ)
島田氏はこのポストを「今回の大災害に意味を見出すことを、とくに法華信仰やキリスト教の信仰をもつ人たちは戒めるべきだろう。地震も津波も自然災害であり、宗教的な意味などあるはずはない。」と締めくくっているが、逆にそれでは唯物論的な、自然主義的なリダクショニズムを押し付けることにならないか。
必要なのは起こったことを冷静に受け止め(自然災害であること)、そして被災した人たちを助けることである。しかしこのような大きな出来事を単なる自然のプロセスとだけ受け止めるほど人間は単純ではないことも弁えるべきだ。
出来事はむき出しの事実だけでは済まない。
人は出来事をそれぞれの世界観に従って解釈する。
人が出来事に意味を求めること自体は避けられない。
ただその解釈を公に発言する時、特に災害を被った者たちへの配慮もなく、ただ自己の世界観の正しさや正当性を主張することに懸命になるのであれば、それは適切さを欠いている。
ヨブの苦難を前にした三人の友人たちは先ずことばを失っていた。
筆者もブログで発言するよりも哀悼の意と祈りを持って黙っている方が良いかもしれない。
しかし、もしことばを発する時は、適切な「ことば」を弁えなければならない。
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