2011年3月25日金曜日

明日については不明です

まん前の公園に設置された拡声器から、毎日2回東電の計画停電についての案内がアナウンスされる。
「今日の停電はありません。」
「明日については不明です。」
「引き続き節電にご協力ください。」

東北関東大震災から二週間。
刻々被災規模が大きくなって行くのを聞いてきた。
今日の時点で確認された死者数は一万人を越えた。

この間様々な情報(誤報も含めて)をメディアを通して提供され、ネットを通して探索し、そのたびに様々な感情の中を通過してきた。
大震災だけであれば被災地との地理的距離のゆえそれなりの平静さを保てるが、今度の場合ぱ原発事故のこともあり、今まで余り知らなかった、ヨウ素131やセシウム137、シーベルトやベクレルなどの単位で情報提供され、ますます「専門家の意見」に一喜一憂する事態となっている。

二週間これだけの規模の災害とその後の二次的・三次的影響の中で右往左往していると、ある程度神経がおかしくなってくる感じがする。
深刻な事態に関する情報を、意図的にせよ何にせよ一定量受けると、これは心理的な一種の被曝のような感じがしてくる。
情報被曝と言う造語が出来ているかもしれない。

情報を求めすぎるのは無理もない。かなり不安な中にあるから。
不安になるのも無理はない。しかるべく情報がすぐに明確に提示されないから。
でも生身の人間、正しい情報を取捨選択して身を守ろうとしてもある程度までしか物理的に無理だ。

より正しい情報。より正確な情報。より専門的な情報。それらをかき集める努力は必要だと思う。ツイッターを使っていると刻々それらしい情報が目の前を流れていく。
時間も能力も限られているからクリックするかどうか判別するのにも気を使う。
そして少しずつ疲れて行く。

昨日あたりから「情報被曝」が一定量に達したのではないか、少し自粛して情報を追うのをやめるべきかもしれない、と思い始めている。

ここでマタイの福音書の一節。
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(6章34節)
不明なことはたくさんある。しかし「明日については不明です」と言うのも明日に向けての一つの態度ではないかな。(東電の停電策を支持しているのではありません。不便を被っている人は本当にお気の毒です。)

さて「平時のポスト」らしいものを二つほど付記させていただきます。

①愛読している「くらくら者の日記」さんが「神学校教師を辞職された」経緯について書かれている記事(「改めて全文をアップしてみました」)に接し、少し複雑な感じを抱かされました。
辞められた経緯の中に「現在の日本の福音派教会」が介在していることが文面で言われているからです。
筆者もこのブログで何回か、間接的に、時にやや直截に、福音派の問題についての苦言のようなことを書いてきました。
のらくら者さんが辞めるにあたって仰っていること、「有賀寿先生の言葉を借りるなら、「福音派の福音ではなく、聖書の福音」(『かごの鳥と見るな』参照)を探求したいのです。」について共感を覚えます。
くらくら者さんには是非今後も、現在の「福音派の福音」が「聖書の福音」に照らしてどのように逸脱しているのかを検証していただきたいと願っています。

②私事になりますが、筆者が「リバイバル・ジャパン」誌に寄稿した『自伝的「新約聖書学」最近研究状況レポート N・T・ライトを中心に』(「ご案内」参照をブログで取り上げて論評してくださった方がおられます。ありがたいことです。
久保木牧師のブログ、「小嶋牧師の文章からN・T・ライトを考える」
少しずつでもN.T.ライトに関心を寄せてくださる方がおられる様子を見て励まされる思いです。
未訳の論文についても言及されていますので、なるべく早く期待に応えたいと思っています。

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