2011年4月29日金曜日

『教会における聖書の解釈』

ローマ・カトリック教会の「教皇庁聖書委員会」が1993年までにまとめて公表した文書が『教会における聖書の解釈』である。
同文書を和田幹男神父が翻訳しネットで提供してくれている。(リンク先

聖書と言えばプロテスタント教会において、あたかも神ご自身の次に権威の座についているような印象を与えるが、ローマ・カトリック教会でも第二バチカン公会議以降、聖書の存在意義が高まっている印象が筆者には感じられる。

カトリックにおいては「教皇による信仰に関する教え」は無謬であるとの教義(papal infallibility)があるが、(福音主義)プロテスタントでは聖書自身に無謬性を置いている。

最近読んでいる本で、William J. Abraham 編の、Canonical Theismと言う本があるが、逆にこのプロテスタント神学者は聖書の位置を公同教会の遺産である様々な「キャノン」の一つとして相対化する試みをしている。
彼の見解には「聖書を無謬と前提して真理の源泉とするアプローチ」は健全なものではないと言う観察が見られる。

いずれにしても、カトリック教会の聖書に対する関心と、アブラハムに代表されるような、聖書と言う単一の文書群より広い「公同教会の遺産(信条、典礼、教父)」へのプロテスタントの関心は、興味深い交錯、と筆者の目には映るのである。

と言う前置きで、これから何回かこの文書に対する感想を述べてみようと思う。

勿論内容が内容なので簡単なコメントでは間に合わない。
かといって練り上げられた文書の内容を論評するほどの力も筆者にはない。

ただこの文書が教皇庁の指示による教会文書としてランドマークであり、指導的地位を与えられている、と言う意味で現在簡単コメント連載中の「佐藤優『キリスト教神学概論』」とは比べ物にならない重要性を持つ。

佐藤の書いたものは個人のものであり、しかもかなり記憶や個人的印象による走り書き程度のものだが、こちらは複数の学者たちによる共同作業の結果であり、しかも教会に対する責任ある文書としての重みがある。

てなわけで佐藤の方も時々は帰ってくるかもしれないが、こちらの『教会における聖書の解釈』の方をじっくり学習させて頂こうと思う。

(※連載までは予定しないし、定期的に書くつもりもないが、今後何回か感想を載せたいと思う。)

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