ナザレのイエスが、ロバの子の背中に乗ってエルサレムへ入城し、人々が道に棕櫚の葉を敷いて、「ダビデの子、ホサナ」と歓待した日だ。
勿論イエスの行動の背景となっているのは、ゼカリヤのメシヤニック預言だ。
娘シオンよ、大いに踊れ。この四日後には群衆は「イエスを十字架につけろ」と、まるっきり手の平を返したような仕打ちでイエスに対する。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者。
高ぶることなく、ろばに乗って来る。
雌ろばの子であるろばに乗って。
(ゼカリヤ9章9節)
昔はその落差に対して群衆心理というもののいい加減さ、不安定さを思ったものである。
そして「普通の人間だったら人気の絶頂から突き落とされる大変なショックだったろうな・・・」などと考えたものである。
今はそのような感慨で受難週の時この福音書の記述を読むことはなくなった。
それはこの時の群衆と同じように表層を見ているように思うからだ。
ナザレのイエスはイスラエルの預言者としてエルサレムで死ぬ覚悟で入京した(ルカ13章33-35節)。
イエスの弟子たちは「いよいよイエスが王となって、自分たちも相応しい地位につけるかも」と期待していただろう。
しかしイエスの心情はかつてエルサレムの破局を預言したエレミヤのように嘆きで満ちていた。
イエスは見通していた。最早エルサレムが壊滅的な打撃を被ることを。
エルサレムに近づき、都が見えたとき、エルサレムがローマ軍に包囲されている光景を髣髴とさせる。
イエスはその都のために泣いて、言われた。
「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。
しかし今は、それがお前には見えない。
やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、
お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、
お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、
お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。
それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」(ルカ19章41-44節)
この後、翌日イエスは所謂「宮きよめ」と呼ばれる行動を示した。
これも、以上のような流れから、「神殿の破壊」を象徴する預言者的な行動、と言う新約学者たちの解釈が説得的であるように今は思う。
その後、イエスは弟子たちに、エルサレムを見下ろすオリーブの山から、「世の終わり」に関するオリブ講話をする。
「世の終わり」に関しては、福音派は依然キリスト再臨後の文字通りの「天地の破滅」をイメージする方が多いと思う。
シュヴァイツァーもその線で解釈していた。
しかし、マルコの表現を注意深く読むとどうだろう。
「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。(マルコ13章14節)文字通りの「天地の破滅」であれば、近くの山に逃げても所詮無駄なことである。
ルカはマルコの謎めいた表現をより明確に、具体的に示している。
「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、ルカは「エルサレムの滅亡」に関するイエスの預言を、近未来のローマによる軍事的侵攻によるもの、と解釈していることが伺える。
その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。
田舎にいる人々は都に入ってはならない。
(ルカ21章20-21節)
さて、イエスはエルサレムの滅亡が最早避け得ないもの、との展望で入城されたのである。
そして「ユダヤ人の王」として、その民の受ける受難の前触れ、警鐘として十字架刑を受けられた。
受難週はこの歴史的なシナリオを、神の救済のドラマの枠組みの中で「贖い(新しい出エジプト)」の出来事として成就したことを福音書の記述に味わう時である。
感傷的、皮相的な「私たちのために十字架にかかって死んでくださった」から一歩出ようではないか。
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