さてGTU時代のことを話し始めたのだ。
ところでGTUと言う余り名前を聞かない学校のことを紹介しているブログがあったので紹介しておこう。
アメリカ神学校留学ガイドブログ・GTU編
筆者の指導教官となった方を敢えて名前を出さずに書き進めよう。
(別に恨みはないのだが、多少不満は感じていたし、今でも余り良い思い出とは言えない。)
彼はカリフォルニア大学バークリー校の社会学で、(多分ロバート・ベラーの指導で)博士を取った。
インド地域研究と「宗教と暴力」をテーマに業績を上げて今はかなり有名になっている。
9.11以降、メディアでコメンテーターとしてもよく出てくる人だ。
今ははっきり覚えていないのだが、その頃(1982年)はGTUのオフィスはまだ小さな建物の中にあり、彼のオフィスはその屋根裏のような階にあったように思う。
とにかく忙しい人で、盛んに動き回っていた。
GTUの先生と言うより、バークリー校で教えている方が多かったかもしれない。
何しろリベラルな大学だから、彼はなかなか生徒たちに人気があった。
そんなことでこちらはなかなか遠慮してコースワークへの指導や相談などを持ち出すのが段々億劫になった。
彼がGTUで教えていたコースで記憶に残るのは、「比較宗教倫理学」と「ガンジー」のクラスだった。
前者は教科書はプリントアウトで、今は手元に残っていない。
後者のクラスで使った教科書(しかしちゃんと読めなかった)で、ジョアン・ボンデュラントのガンジーの政治哲学(権力との対立に関する実践理論)を扱った、Conquest of Violence: The Gandhian Philosophy of Conflict がある。
邦訳はされていないようだが、所謂ガンジーの取った「非暴力抵抗」をサッチャグラハ(真理把握)の視点から分析したものである。
その中で「犠牲の要素」がサチャグラハの実践として指摘されている。
理性的な議論では相手に通じない時、コンフロンテーションにおいて受苦を選択することになる。
それ(一種のショック)によって相手の視点を変え、抗議する側の道義に気づかせる役割を果たす、と分析されている。
昨年国会議事堂周辺を「特定秘密保護法」成立反対をするデモ隊を「テロリスト」呼ばわりした方がいるが、この辺の「抗議活動」における「暴力」あるいは「犠牲」の解釈は結構近いものがあるのかもしれない。
もちろん物理的な暴力を行使するのは主に権力側だが、自爆テロのようなケースや、チベット僧侶の焼死自殺による抗議は、犠牲と(自分の肉体への)暴力との二面があるのではないかと思う。
都知事選が低投票率に終わり、議会制民主主義の停滞を感ずる中、ガンジーのような非暴力抵抗によるコンフロンテーションによって「真理」を把握する、と言う実践は示唆があるだろうか、少し思いを寄せる機会になった。
0 件のコメント:
コメントを投稿