以下そのターゲットとなった小論文(英国ガーディアン紙はエッセイと訳している)を引用してみる。
神にささげるお供へもののほとんどすべては、人間がもらつても嬉(うれ)しいものばかりである。上等の御神酒(おみき)は言ふに及ばず、海山の幸や お菓子の類……。或(あ)るとき神社の奉納のお祭りをごく真近(まぢか)で拝見する機会があつたとき、ちやうどお昼を食べそこねて空腹で、目の前を運ばれゆくお供物に思はず腹が鳴つて恥ずかしかつた記憶がある。あゝ、さぞや神さまも美味(おい)しく召上るだらうなあ、と思つたものである。
しかし神にささげることはできても、人間に供することは決してできないものがある。自らの命である。よく陳腐な口説き文句に「君のためには命をさ さげる」などといふセリフがあるが、言ふ者も聞く者も、そんなセリフを文字通りに信じはしない。もしも本当にさう言つて、女の前で割腹自殺する男がゐたら、(よほどの毒婦でないかぎり)喜ぶ女はゐないであらう。下手をしたら、精神的打撃をかうむつたと言つて遺族に賠償を請求するかも知れない。人間は、人の死をささげられても、受け取ることができないのである。
人間が自らの死をささげることができるのは、神に対してのみである。そして、もしもそれが本当に正しくささげられれば、それ以上の奉納はありえない。それは絶対の祭りとも言ふべきものである。神道における供物は「神」にとっても、「人間」にとっても、(おいしい)嬉しいものである、と始められている。
供え物(犠牲)は多くの宗教に共通するものであり、恐らくその意味合いは様々であろう。
長谷川氏は神道祭儀の一般論を「導入」部分で述べながら、すぐに「人間が自らの死をささげる」と言うおよそ特殊な犠牲的行為を「神に対してのみ」ささげられるものと限定する。
先日も線路で動けなくなったお年寄りを助けようとして自らの命を落とした女性のことが多くの人に感動を与えた。
本人は「自らの死をささげる」意図はなかったであろうが、概ね「(結果的に)死に至る」ような自己犠牲は人道的な倫理観、価値観の上になされるものである。
その場合「死」は目的ではなく、他の人の命なり、何なりを助けたり守ったりするために起こることであって、それを「犠牲」と見るのは人々がそこに何か人間精神の崇高なものを見るからであろう。
それを「宗教的」な次元で捉えることも可能かも知れないが、一般的には極度の利他的行為とみなすのが妥当であろう。
重要なことは、長谷川氏がどうやらそのような(人道的な)人間の犠牲的行為とは次元を異にする自死が「神」だけにささげられる特殊行為としてある、と言うことを主張していることである。
そしてそのような行為は「奉納」、「絶対の祭り」、と言う宗教的(神道的?)言辞によって修飾されることによって異次元化されているように読める。
野村秋介氏が二十年前、朝日新聞東京本社で自裁をとげたとき、彼は決して朝日新聞のために死んだりしたのではなかつた。彼らほど、人の死を受け取る資格に欠けた人々はゐない。人間が自らの命をもつて神と対話することができるなどといふことを露ほども信じてゐない連中の目の前で、野村秋介は神にその死をささげたのである。
「すめらみこと いやさか」と彼が三回唱えたとき、彼がそこに呼び出したのは、日本の神々の遠い子孫であられると同時に、自らも現御神(あきつみかみ)であられる天皇陛下であつた。そしてそのとき、たとへその一瞬のことではあれ、わが国の今上陛下は(「人間宣言」が何と言はうと、日本国憲法が何と言はうと)ふたたび現御神となられたのである。
野村秋介氏の死を追悼することの意味はそこにある。と私は思ふ。そして、それ以外のところにはない、と思つてゐる。かように、この文章は「野村秋介氏の死を追悼する」ために書かれたものであることが分かる。
(仮名遣いは原文のまま)引用元
しかしここに表されている「野村秋介氏の死」の意義は、長谷川氏による「神学」的解釈に昇華させられている、と捉えても概ね間違いではあるまい。
このような長谷川氏の「天皇観」が戦後否定されたことへの怨念さえ透けて見えてくるように感じるのは筆者だけであろうか。
特に朝日新聞を評して
・・・彼(野村秋介)は決して朝日新聞のために死んだりしたのではなかつた。彼らほど、人の死を受け取る資格に欠けた人々はゐない。人間が自らの命をもつて神と対話することができるなどといふことを露ほども信じてゐない連中・・・と言っているが、ここに「導入」部分において「神」と「人間」に区別した意図が、レトリカルなものであるのが見て取れる。
朝日新聞ではなかったら、それとは別に「人の死を受け取る資格」がある個人やグループがいたりするのだろうか。長谷川氏にはそれは(今上)天皇陛下をおいて他にはないのだと推測するが。
「野村秋介事件」の詳細を筆者は知らないが、長谷川氏は「野村秋介の自殺」を(朝日新聞社に対する捨て身の抗議ではなく)「絶対の祭り」と言う神学的意味に方向変換したいのだ、と言う事は伝わってくる。
(清らかで崇高な『神』へのささげものだった野村の死は、断じて朝日新聞などという『野蛮』な連中に対してなされたものでははない。その汚名を挽回し、その死を浄化したい・・・と言う思惑であろうか。)
いずれにしても、第二次大戦までの「国家神道」で位置づけられた絶対的天皇崇拝を髣髴とさせるこの文章が、NHKと言う公共放送の経営委員によって発せられたと言うことは意義深いことだと思う。
長谷川氏が
わが国の今上陛下は(「人間宣言」が何と言はうと、日本国憲法が何と言はうと)ふたたび現御神となられたと大胆にも自己の「神学」を論理的に立脚するため、憲法を無視するような物言いをした時点で、「公共放送」の重要職につく資格が大いに問われることは当然であろう。
このような思想を公言する人物を経営委員に推した首相の責任もまた、いやより重いと言うべきだろう。
また菅官房長官が「表現の自由」などという理由でその発言の是非を問わない姿勢も大いに問題だ。
「小川榮太郎」と言う文芸評論家が『靖国の神学・私論 ~安倍総理の参拝が意味するもの~』(①、②)と言う文章を書いているが、
客観的に見るならば、歴史過程におけるすべての戦争は、正しいのでも悪いのでもない、ただ端的な戦争である。すべての戦争は「普通の戦争」なのだと言つてもよい。
しかし、その「普通の戦争」のただなかに、或る「絶対的なもの」がたちあらはれてくることがある。それは、おそらく世界の歴史を見わたしても、めつたにあることではない。また、それは、そこに居合はせたすべての人に見えるものでもない。むしろ、ほんの少数の人の目にしか映らないと言へるかも知れない。けれども、それは何らかの形で、その同時代の人々、あるいはその後の人々にまで感知されうるものであつて、大東亜戦争のうちには、確かに、さうした「絶対的なもの」が含まれてゐたのである。(長谷川三千子『神やぶれたまはず 昭和20年8月15日正午』29頁)と、どうやら「長谷川神学」を援用しているようである。
長谷川氏にしても、小川氏にしても、「絶対的なもの」とはつまるところ何を指すのであろうか。
天皇か、それとも天皇を「絶対的なもの」と一時的にもせよ日本国臣民が「感じた」ことか。
どうも平時では感じることが出来ない「天皇=現御神」が、第二次大戦中や「野村秋介事件」を通して特別に啓示された出来事であった、と見定めたいらしい。
となると、「天皇=現御遠」が発現するためには「絶対の祭り」を要請することになるのではないだろうか。その最も「華々しい」ものは戦争、あるいはそれに準ずるような「お国のための殉死」になるのではないか。
そんな危惧を覚える文章である。
どうやら安倍総理の「戦後レジームからの脱却」とは、崇高な自己犠牲によって「絶対的なもの」を作り出すような仕掛けを「作り直す」狙いがあるのではなかろうか。(考え過ぎであってくれればいいのだが。)
少なくとも長谷川氏の方からはそのように見えているのだろう。(詳しくは《おまけ》を参照。)
《おまけ》
長谷川氏が「安倍応援団」の一員として「戦後レジームの脱却」を掲げ、「日本を取り戻す」安倍氏の狙いが「大事業」であることを嬉々として語る動画。
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