筆者が購入したのはそれより大分遅れて今年の7月だった。
それ以降「聖書通読」の時にはこの新改訳2017を使っている。
訳文にはかなり大幅な改訂がほどこされた(ような)ことを聞いていたので(かえって)期待して読んでいるのだが、「これは!」と思う箇所は(残念ながら)あまりない。
さて今朝の通読箇所でガラテヤ1章を読んだ。
新鮮に目に入ったのは13、14節だった。
1:13 ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。何が新鮮だったか、と云うと引用で強調したように「ユダヤ教」という語が用いられていることだった。
1:14 また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。(新改訳2017)
1:13 以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。
1:14 また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。(新改訳)
それで旧を見てみると「ユダヤ教徒」とはあるが基本的には変わっていない。
つまり自分の方の受け取り方に従来とは違うものがあったことに気がついた。
端的に言えば、「えっ当時『ユダヤ教』という呼び名が通用するほど一つの宗教としてのまとまり・個別の輪郭を持っていたっけ・・・」という疑問であった。
つまり、使徒パウロの「回心前」と「回心後」の違いを、「パウロとユダヤ教」の関係で表すとどうなるか、と云う問題でもある。
図式化すると大体3通りになる。
(1)回心前=ユダヤ教、回心後=キリスト教
(2)回心前=ユダヤ教、回心後=キリスト教、とユダヤ教
(3)回心前=ユダヤ教、回心後=ユダヤ教、とキリスト教
これでは細かなニュアンスが表せないが、要するに回心後のパウロにとってユダヤ教はどうなっていたのか、という問いである。
「キリストにある」素晴らしさのゆえに、ユダヤ教を誇りに思っていたことはすべて無価値となり、律法も含めて否定したのか・・・。
キリスト者となった後も、自身はユダヤ人として行動したが、異邦人キリスト者にはユダヤ教は必要ないと教えたのか・・・。
そんなパウロ自身の「アイデンティティ」にも関わる問題であり、当然ガラテヤ書やロマ書の理解に大きな影響を及ぼす問いでもある。
英語では、最近 Paul Within Judaism という視点が大分取り上げられるようになってきた。簡単に言うと、パウロは回心後もユダヤ教から出ていない、という見方だ。
興味深いので新改訳2017だけでなく、N.T.ライトの個人訳新約聖書であるKNT(Kingdom New Testament)の訳文を引用しておこう。
13 You heard, didn’t you, the way I behaved when I was still within ‘Judaism’. I persecuted the church of God violently, and ravaged it. 14 I advanced in Judaism beyond many of my own age and people; I was extremely zealous for my ancestral traditions.[2018/8/14 追加]
※N.T.ライト読書会ブログに「Paul within Judaism」をアップしました。
この記事で書いたことのアカデミック版のようなものです。ほぼすべて英語ですが、ネットで読める関連記事を色々紹介しています。
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