2012年2月8日水曜日

創世記1-3章

創世記1-3章と言えばこのブログでも取り上げたことがあるように様々な「論争の宝庫」みたいな箇所でもある。

「科学」対「信仰」
「アダムの史実性」
(これはまだ取り上げていないが、最近ジョン・パイパー牧師の『マスキュリン・クリスチャニティー』論争の背景ともなる)「性差(ジェンダー)」
などなど。

その昔リン・ホワイトが「キリスト教は環境問題の元凶」としたのも創世記1章の人間観を「被造物支配」と単純に解釈したからだ。

さてかように論争の宝庫でもある創世記1-3章だが、だからこそと言うか現代の問題を読み解き、解決を示唆するインスピレーショナルな箇所であることも間違いないだろう。

福音派と環境問題

今でこそプロテスタント福音派も環境問題に正面から取り組むようになったとは言え、その歴史はまだまだ浅い。
つい数年前でも北米福音同盟の副理事長だったリチャード・シズィックの環境保護問題の取り組みは福音派の中から結構な批判を浴びていた。

筆者の見るところ福音派自身の中から環境問題に初めてスポットライトを当てたのはフランシス・シェーファーではなかろうか。
彼の、Pollution and the Death of Man. A Christian response to issues concerning ecology.(1970年)にはアペンディックスとして例のリン・ホワイトの論文も収録されている。

さて今日の投稿はこのような歴史についての感想ではなくて、今日ユダヤ教ラビの一人としてその言論が注目されている、サー・ジョナサン・サックス師の短い文章である。

A Steward Paradigm

さーっと読んでみた印象だが、まるで違和感を感じなかった。
つまり環境問題に関し、それだけキリスト教はユダヤ教と視点を共有しているからだ。
それもそのはずその視点に大きな影響を及ぼしているのはキリスト教独自の神学ではなく創世記の人間観とそれに基づく(旧約)聖書の解釈だからである。

例えば、
The honour and glory that crowns the human race is possession of the earth, which is granted as the culmination of God's creative work: "Be fruitful and multiply, fill the earth and subdue it." This notion is fortified in Psalm 115: "The heavens are the Lord's heavens, but the earth God has given to humanity." While the creation narrative clearly establishes God as Master of the Universe, it is the human being who is appointed master of the earth.
しかしサックス師はこの「支配」の解釈のニュアンスを「管理者、ケアーする者」の方向に導いていく。
Genesis chapter 1 is only one side of the complex biblical equation. It is balanced by the narrative of Genesis chapter 2, which features a second Creation narrative that focuses on humans and their place in the Garden of Eden. The first person is set in the Garden "to work it and take care of it."
この創世記1章と2章のバランスから導き出される人間観は、
We do not own nature - "The earth is the Lord's and the fullness thereof." (Psalm 24:1) We are its stewards on behalf of God, who created and owns everything. As guardians of the earth, we are duty-bound to respect its integrity.
さらにこの「統治命令」は技術的なものではなく、道徳的なものであることを創世記3章までを視野に入れて指摘する。

更にこの「統治命令」に「七日目の安息」を対置させ、過剰な労働・使役を抑制する意義を指摘する。
そして後世にこの環境を譲り渡す道徳的責務を負っていることを説いて文章を締めくくっている。
The choice is ours. If we continue to live as though God had only commanded us to subdue the earth, we must be prepared for our children to inherit a seriously degraded planet, with the future of human civilisation put into question. If we see our role as masters of the earth as a unique opportunity to truly serve and care for the planet, its creatures, and its resources, then we can reclaim our status as stewards of the world, and raise our new generations in an environment much closer to that of Eden.
もしキリスト教独自の視点を環境保護問題に持ち込むとすれば、それはイエス・キリストの十字架の死と復活による終末論的な視点からの貢献であろう。
「新しい人」、「新しい創造」、キリストにおいて被造物全体の回復への道が切り拓かれた、と言う確信に基づく環境問題との取り組みである。

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