2012年2月1日水曜日

信仰の継承

「信仰の継承」とは筆者の属する教会グループでは盛んに言われていた言葉で、ある意味自分たちのグループの「十八番」かと思っていたらさにあらず。日本の主にプロテスタント諸教会でも盛んに言われている課題のようである。

最近ツイッターでフォローしている「シノドス・ジャーナル」と言う主に若手の言論を看板にしている(らしい)ネットジャーナルに

『信仰はどのように継承されるかー創価学会にみる次世代育成』 猪瀬優里 


という本の紹介を兼ねた短い文章が載っていた。

ちょっと筆者が関心を持った部分を抜粋してみる。
本書の目的は、親から子へ、先行世代から後継世代へと教団の価値観、組織の行動様式が、そのときどきの社会状況に応じて再編されながら受け継がれていくプロセスをみることである。

あるときエホバの証人の親に育てられたが、親の信仰に疑問を抱いて離れた経験を持つ人びとに出会った。彼らの抱える事情は一人ひとり違っているが、親と教団から受けた影響に少なからず苦しみ、それをなんとかして乗り越えようとしていた。

元エホバの証人との出会いで、子どもは親の信仰を素直に受け継ぐわけではないという視点が明確になってきた。

今後は、既成仏教やキリスト教を含めた他教団の信仰継承・次世代育成のプロセスに関する知見を得たうえで、信仰の継承・次世代育成戦略という観点からの複数教団の比較を試みてみたいと考えている。
猪瀬さんはまだ若い「宗教社会学者」さんのようである。
フィールドワークとして創価学会を選んだがご自分は「信仰」については「無宗教」の様子。
信仰共同体の中にある方々が至上命題の一つのようにしているテーマを「客観的」にどう捌いて行かれるのか、今後の研究が楽しみである。

さて本著を読んだわけではないが、筆者のこのような「宗教社会学」的なフィールドワークを目にしての率直な感想は、「なるほど『信仰の継承』とは新興宗教団体の課題なのだ」と言うことである。

大雑把な比較で申し訳ないが、例えば中世カトリックにおいては社会共同体と信仰共同体は同心円で重なり、「ゆりかごから墓場まで」何十世代にも渡って信仰は受け継がれたのである。
そもそも「信仰の継承」と言うことは自覚されなかったろう。
それほど自然に受け継がれて行ったのではなかったか。

しかし日本におけるキリスト教、特にプロテスタントはそのような社会的・文化的背景を持っていない。こう言っては他のキリスト者の方々から睨まれそうだが、所詮日本におけるプロテスタント教会は「新興宗教」の一つに過ぎないのである。(現下その新興宗教性が様々な牧師不祥事問題や教会のカルト化問題の背景としてあることは否めないだろう。)

もちろん信仰とは個人的なものであり、特定の宗教団体に入るか否かはその個人の任意で為されると言う了解のもとで「信仰の継承」の問題があることは、猪瀬さんが「宗教社会学理論のなかでは、宗教選択の説明に関して、合理的選択理論が一定の影響力を持ってきた。」と言っている通りである。
「信仰の継承」問題は「信教自由・宗教選択の自由」と言う近代の前提と不可分である。

しかしそのような近代合理性がキリスト教にしても創価学会にしても十分意識されているか、と言うと実態はそのような近代的性格とはかけ離れたところに「信仰の継承」の問題がしばしば存在しているのではないか。

筆者の身近な例を取って見てもそう思われる。
例えば筆者の祖父は単に自分の子供たち、孫たちをキリスト者として生育するだけでなく、牧師・伝道者として献身することを自身の切実な信仰の課題とした。
幸か不幸か非常に宗教的な空気の濃厚な中で育った筆者は牧師になって壁にぶち当たるまでそのプレッシャーを十分自覚することはなかった。
それまでは献身という「選択」をそのような宗教的陶酔感の中で自然に受け入れてきたのであった。もちろん子供たちの中には大変な葛藤の末献身した者もいたが・・・。

さて「信仰の継承」が単に「親から子へ、先行世代から後継世代へと教団の価値観、組織の行動様式が、そのときどきの社会状況に応じて再編されながら受け継がれていくプロセス」として問われるならばそれは「宗教」と言う文化の一様式の伝統パターンを見ることで終わるのではないか。

しかし宗教団体の中に生きている者達には単に「自分たちの教団の価値観、組織の行動様式」が伝承されて行く事だけが問題なのではなく、そもそも自分たちが伝承された「信仰」を批判的に捉えた上での「信仰の継承」でなければそれは単なる伝統主義に過ぎなくなってしまい、次世代の「信仰の継承」も単なる宗教的サブカルチャーの通過儀礼に過ぎなくなってしまうのではないか、との問題意識を筆者は感じている。

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