シリーズものの記事も幾つかあるのですが、ストップしたまま2018年を迎えました。
雑多な内容が入り乱れますが、新年挨拶がてらまずは近況報告です。
(1)巣鴨聖泉キリスト教会の2018年標語聖句
従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。(エペソ2:19-22、新共同訳)の特にオレンジ色部分が標語聖句となります。
取られたのはエペソ書ですから自ずからテーマは「教会」ということになるわけですが、
21世紀のグローバル化して行く世界でどのように「教会」を捉えて行くか考えて行きたいと思っています。
(2)イスラエルの問題、民族の問題
昨年後半に4回に分けて書いた 宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ というのがありました。(1、2、3、4)そこで触れたように、今浮上している一つの意義深い神学の問題は「教会」の問題であり、それは歴史的に言うと宗教改革の起こった16世紀ではなく、(まだ「キリスト教」とか「ユダヤ教」というような用語も認識もなかった)1世紀が焦点だ、ということです。
キリストの教会が誕生した1世紀からコンスタンチヌス帝のミラノ勅令の4世紀まで、ユダヤ教シナゴグとキリスト教エクレシアはある種ある程度共生関係にあったのではないか・・・。言い換えれば、「parting of the ways」はまだ明確に確立したものではなかった(のではないか)。
そういう展望からあらためて1世紀の(あえて使うと)“キリスト教”というものを見直す必要があるだろうと思い始めています。
そうするとパウロが手紙を書いた教会における「ユダヤ人」と「異邦人」の関係の問題がより一層活き活きしたもの(live issue)に捉えられるように思います。
キリストの教会が、ローマ帝国下にあって、キリストを主とするグローバルなヴィジョンを内包する信仰共同体として息づいていたことをより具体的に想像できるし、その際、一世紀ローマ帝国の多民族社会の統合原理・方法論に(かなり意識的に)対抗しながら、民族・性別・社会経済階層等の壁を乗り越えようとしていたのではないかと思えてきます。
洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、
ユダヤ人もギリシア人もなく、
奴隷も自由な身分の者もなく、
男も女もありません。
あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
(ガラテヤ2:27-8、新共同訳)
そこには、もはや、小アジア「エペソにあった教会」(コロサイ教会と地理的に近い)について言えば、
ギリシア人とユダヤ人、
割礼を受けた者と受けていない者、
未開人、スキタイ人、
奴隷、自由な身分の者の区別はありません。
キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。
(コロサイ3:11、新共同訳)
標語聖句のある2章11-22節がピンポイントに取り上げている「民族間の壁」はユダヤ人と異邦人です。
そしてこの構図、イスラエル対諸民族の関係、は「福音」が初めから視野に入れていた問題です。
聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。 (ガラテヤ3:8、新共同訳)
それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。 (ガラテヤ3:14、新共同訳)しかし、問題は二十一世紀のキリストの教会がこのような「福音」をどのようにグローバル化している多民族社会で実現して行くのか。その辺りのことも視野に入れて学んで行きたいと思っています。
今年もよろしくお願いします。
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