なかなか含みのある語である。(それって洒落か・・・。)
いきなりキリスト教信仰の中核的使信である「十字架」と「復活」を持ち出して説明するのもなんだが、「十字架」にしても「復活」にしても、その出来事を叙述する場合には、Ⅰコリント15章にあるように、「キリストが・・・死んだこと」「また三日目に復活したこと」(新共同訳)と至って簡潔な形もある。
(もっともキリストの死には「私たちの罪のために」と言う意味が付加されているが・・・。)
この使徒的使信(福音)が指示する「ナザレのイエスにおける出来事」のクライマックスである「十字架」と「復活」は新約聖書の中で(様々な文脈の中で)多様なイメージや言語表現を通して提示されている。
つまり出来事としての「単純な意味」の他に、そこから様々なインプリケーション(解釈とも言える)が湧き出ているのである。
例えば、当教会では、毎月1回、ジョン・ストット『キリストの十字架』を用いて学びをしている。
キリスト教神学的には『贖罪論』(救済論のうちキリストの死の意味を考察する分野)と言われる。
ストットはアングリカンの神学的伝統を意識しながら(保守的な態度で)、教会史の中で展開された幾つかの重要な『贖罪論』を紹介する。
(読者の中で、「あれっ、タイトルは『終末論』なのになんで『贖罪論』の話になるの」と訝っている方に説明しておくと、依然として導入となるインプリケーションの話をしているのであって、『贖罪論』はその一例なのだ、と言うことを申し上げておこう。)
『犠牲』やら『血』やら『小羊』やら旧約聖書の祭儀や出エジプトなどを背景としたイメージが、『贖罪』がそれらのイメージが指し示すのは、第一義的には『神の怒りを宥める』のか、それとも『罪を取り除く』、あるいは同時に両方なのか、・・・と議論されるわけである。
さて話は変わって、現在筆者がお世話を手伝っている「N.T.ライトFB読書会」では、Surprised By Hopeと言う本を読んでいる。
まさに終末論に関わる本である。
イエスの復活が、キリスト者の将来の「身体(からだ)の甦(よみがえ)り」の希望を保証するわけである。
しかしキリスト者は地上にある間、ただその時をぼーっと待っているだけなのか。
あるいはその間はひたすら多くの人を出来るだけ天国に入れる伝道することに意義を見出すのか。
それとももっと何か他の役割やら目標があるのか。
そうやって「将来」的視点から「現在」を見つめて、「今、ここで」の意義を見出そうと言うのがSurprised By Hopeの趣旨である。だから「終末」の「現在」へのインプリケーションを探るわけだ。
ところでなぜこんなことを考えているかと言うと、時々遊びで当ブログ名「大和郷にある教会」でググってみるのだが、たまたま今回は「伊那谷牧師の雑考」の『終末を日常のように生きる』 がヒットした。
その記事を書くためのヒントの一つになったのが拙ブログ記事だったと言うわけだ。
確か「大和郷にある教会」だったと記憶しているのですが、終末論について伊坂幸太郎の『終末のフール』を引き合いに出しながら終末を生きる意味についてブログ主の小嶋牧師が小論を投稿しておりました(注:ございました。「終末」を想像して現在を捉える)。その内容に深く教えられ共感し、僕も『終末のフール』を急いで買って読んだことを思い出しました。何と筆者はネットで入手した書評でこと済ませていたのに対し、O牧師は買って読んだという。
その辺の姿勢が筆者のようなぐうたら牧師と違うんだな。
(筆者はせいぜい図書館で借りて読むくらいで、最近FB友となったK牧師などとは真逆である。K牧師の書斎は平積みされた小説などがあちらこちら山積みされているそうな・・・。)
ライトは「終末」への希望から、かなり積極的な現在への関わりを提案するが、O牧師は「たんたんとした日常」と言うインプリケーションを引き出している。
思えば、「来るべき世」に生きていると言うことをエクスタティックに(羽目を外したようなライフスタイル)現したキリスト者たちがいたことをパウロは書簡(Ⅰコリント)で示唆している。
一方では将来のクライマックスまで待つ間を、まるで伸びたゴムのようにのんべんだらりと暮らしていたキリスト者たちもいたようだ。
彼らへのパウロの指示は、
ところが、聞くところによると、あなた方の中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいると言うことです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。(Ⅱテサロニケ3:11-12、新共同訳)さて私たちはどんな将来像を描き、そこから現在へとどんなインプリケーションを引き出すのだろうか。毎日が正念場だ。
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