このブログ、Learning In the Grip of Graceは初めてだったので、ちょっと他の記事にも目を通してみたら、ライトの記事のすぐ後に、
Piper, Carson, DeYoung, and Keller on Did Jesus Preach the Gospel?
と言うパネル・ディスカッションの動画が紹介されていた。
実は、「イエスは『福音』を説教したか?」、と言うのは、このブログでも回数を重ねて紹介してきたスコット・マクナイト「福音の再発見」(原題は「キング・ジーザス・ゴスペル」・・・右側コラムの同名ラベル参照のこと)でも提起された問題なのだ。
以下、同書から引用する。
事例Bアメリカで最も影響力を持つ牧師であり著者の一人であるジョン・パイパーは、2010年4月に持たれた、ある大きなコンファレンスで、次のような問いを発した。「イエスはパウロの福音を宣べ伝えたのか?」 この問いに答えるにあたり、パイパーはルカによる福音書18章のパリサイ人と取税人の話を取り上げた。この箇所では、福音書の中でほんの数回だけ使われている「義と認められ」(14節)という表現が登場する。パイパーはその箇所を指し、イエスは「信仰による義認」というパウロの福音を確かに宣べたと結論づけた。(中略)
しかし…… そもそも、ここには順序、つまりどちらが先か、という問題がある。イエスがパウロの福音を語ったのか、と問うよりも、パウロがイエスの福音を語ったのか、と問うほうが重要ではないだろうか? さらに、もう一つ問題がある。パイパーは、信仰義認こそ福音である、という前提の上に立っていることだ。米国のカルヴァン派たち(福音派の間におけるカルヴァン主義の再台頭の背景には、パイパーの影響が強くある)は、福音を「信仰による義認」という短い公式で定義してきた。しかし、使徒たちは福音をそのように定義していたのだろうか? 使徒たちが福音を宣べ伝えたとき、彼らは何と言っていただろうか? 本書ではこれから、これらの問いに答えていきたいと思う。(下線は筆者)その2010年4月のパイパーの講演(説教)の動画がこれではないかと思う。
イントロでは『十字架』に至る福音書全体のストーリーの大切さを強調しているが、『信仰義認』というパウロの福音(パウロの福音という語自体用い方には注意が必要だと思うが・・・)を「窓」として福音書、つまりイエスの福音を掴もうとしている意図は明らかだと思う。
さて先に紹介したパネル・ディスカッションであるが、新約聖書学者ドン・カーソンを司会者/進行役に、三人の牧師、ジョン・パイパー、ティモシー・ケラー、ケビン・デヤングが「イエスは福音を伝えたのか?」と言うまさに同じ問題で討論している。
1時間に及ぶディスカッションなので大雑把な感想しかここでは記すことはできないが、やはりパネリストたちの間にある種の問い直しがあるのだと思う。(そう思いたい。)
果たして自分たちの福音に関する聖書神学的方法論があるいは偏っている面があるのではなかろうかと・・・。
パネリストたちは、基本的には改革派の伝統的(どこまで遡るのか筆者も厳密には知らないが)教理的解釈に沿った立場を擁護しているように聞こえる。
しかし冒頭でケラー牧師がリベラル派背景から福音派カルヴィニズムの立場で回心した経験を述懐しながら言っている、「個人的救い」と「社会正義」は二つの対抗する見方とするべきではなく統合が必要なのだ、と。
ただパネリストたちの討論を聞いていると、「神の国」に関する聖書神学的吟味が何かとても初歩的なレベルで留まっていて、なかなか核心に入っていかない(入れない?)ので聞いている筆者は大変もどかしく感じたのも事実だ。
背景としては、近年若い世代のキリスト者の間に「社会正義」よりの福音、ソースを辿れば「神の国」の強調と言う福音理解が影響していることがある。
そのことを十分意識してのこの企画だとは思うのだ。
討論の中ではその影響力が誰から出ているかは伏せられているようだが、ところどころ引用しているので、ググればあるいは名前が掴めるかも知れない。
何はともあれ「福音」の原義的な、原初的(使徒的と言うことになろうが)な見直しはもっと議論されてしかるべきものと思う。
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