2010年9月22日水曜日

法の審き

最高検の主任検事が、郵便不正事件の証拠隠滅容疑で逮捕された。(朝日新聞、アサヒ・コム) 

この事件の主任を務めた大阪地検特捜部検事の前田恒彦容疑者(43)が押収品のフロッピーディスク(FD)のデータを改ざんした、とのこと。
皆さんも報道でびっくりしておられることと思います。

法曹関係者も人間ですから、様々な罪を犯さないわけではありません。
しかし、検察の仕事の過程でこのような犯罪がなされることは、法の運用そのものへの信頼を著しく損なうものです。
例外的な事件と認識したいところですが、「権力の濫用」はたとえ「行政・立法・司法」と三権分立してバランスを取ったとしても、避けきれない問題なのでしょう。

キリスト教では終末の「神の審き」が究極のものです。
その時各人の行いの善悪、正邪が正しく裁かれる、と言う希望を持っています。

民主主義社会では、国民主権が反映するために、市民も裁かれるだけでなく、「裁く立場」になる「裁判員制度」が日本にも導入されました。
カトリック教会は既に「聖職者」は「裁判員」に選ばれても、これを辞退するよう勧められています。(カトリック中央協議会、日本司教団公文書

カトリックの「裁判員制度」に対する態度の根底には、「カトリック教会法」があり、特に「死刑」の可能性がある事件の場合、「良心的拒否」と言う選択を視野に入れてもののようです。

プロテスタントは「国家と教会」の問題に対して、第二次大戦時の経験を活かして、「平和憲法」や「信教自由」は視野に入れていますが、「裁判員制度」に関しての議論はまだこれからと言うのが実情のようです。

「キリストの主権」は教会内のみならず、「すべての権力の上に立つ」、また「すべての権威は神から来る」、と使徒パウロは新約聖書のエペソ書(1:20-22)やロマ書(13章)で展開しています。

キリスト者として、日本国で実際に運用される法に対して、どのような見識を持って臨めば良いのかまだまだ課題は多いですね。
(仮に筆者が裁判員に選ばれたとしたら・・・。やはりその時になって判断するだろうな。)

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